第6話 はじまりはいつも雨。


昔の彼女から連絡があった。




一年ぶりの電話。




毎年

六月になると、必ずかかってくる。



彼女とは、高校一年の六月に告白されてつきあいだして、就職して大阪に一緒に出て、19くらいまで一緒に居た。



とは言うものの


すごく気が多い子で、いつもあちこちに恋をしては走って行き、目が覚めたようにまた帰って来るみたいなことを繰り返していたので、純粋につきあってたのは何年なんだろう?


いつも彼女は、あたたかくてやわらかい場所を探してた気がする。


最後まで、彼女の口から別れて欲しいっては言われなかったな。


言われたのは、つきあい始めた時に、

「君と居るとおだやかな気持ちになれるから、一緒に居て下さい。」


だから、俺はずっと一緒に居た。


彼女が心おだやかでいれるのなら、俺はそれで良かった。



********



部活は、中学でやっていて段も取ってたので柔道部に入った。


でも音楽顧問が、俺が中学時代にずっとリゾートホテルのカフェの専属ギタリストをやっていたことを知っていたので、吹奏楽部にも強制的に入れられてしまった。


担当は低音。テューバとコントラバス。

そこで彼女に出逢った。



彼女はユーフォニアムを吹いていて、低音パートなので、しょっちゅう顔を合わせて練習をした。


入って1ヶ月くらい経って、吹奏楽部の先輩に告白された。


つきあっても良かったけど、ホテルのバイトが忙しいし、やりたいことがたくさんあったから断った。


その翌週。

彼女が、同じ吹部の同級の、コルネットを吹いていた女の子を連れて来た。

コルネットの子とつきあって下さいと。


でも俺は同じ理由で断った。


その日の放課後、低音パートの練習で二人きりになった時に、彼女から告白された。


「一緒に居て下さい。」


彼女は俺に、つきあってくれとは言わなかった。

俺にはそれが、とても響いた。

だからかどうかはいまだに不思議だけど、結局、事実上つきあい始めた。



*********


しばらくは何事もなく、本当におだやかに過ぎてった。


毎朝、音楽準備室で待ち合わせて、彼女の作ったサンドイッチを食べて朝練をし、昼には音楽室で弁当を食べながら、俺の弾くギターをそばでにこにこと聴いて、放課後の練習終わったら、用務員が戸締まり確認しに来るまでいつまでも話した。


二年に上がる頃、彼女が突然よそよそしくなり、毎朝行っていた準備室にも、昼休みの音楽室にも来なくなり、どうしたんだろうと思っていると、彼女との共通の友達が、二組の学級委員長の男の子とつきあっていると、言いにくそうに話してくれた。


俺が悪いんだと思った。

なにも束縛をせず、注文もしない。

淋しい想いをさせてしまってたかなと、自分を責めた。


そして、ただ待つことにした。


二年に上がる三月に、

同級の女の子から告白された。


見てられないって言ってた。

私ならあなたを苦しめたりしないって言われた。


でも、俺はその子も断った。


二年に上がり、吹奏楽部と柔道部を掛け持ちしていたにもかかわらず、俺は二年なのに吹奏楽部で部長に抜擢された。

全体譜面が目で追えて指揮が出来たのと、誰よりも音に馴れて耳が良かったから。

仕方なく柔道部は辞めた。

そして、吹部に本気で打ち込むことにした。


「吹部練習後にギター教えます」と喧伝したら、かなりの新入部員が入ってきた。

その日の放課後から毎日、新入生の男の子や女の子たちにギターやベースやドラムを教えた。


幼なじみのひとつ下の女の子も、吹部に入ってくれて、お兄ちゃんお兄ちゃんとうるさいくらいつきまとわれた。

彼女は生まれたの頃からの隣づきあいだったので、親同士でほぼ結婚は確定されている間柄だった。


ので、幼なじみは彼女のことが大嫌いで、しばしば家に連れて来てた時は、全力で邪魔されたりしてた。


そのうち彼女が帰ってきた。

幼なじみは全開で怒ってたけど。


「やっぱり君のそばが落ちつくもん。」


俺は何にも言わずに受け入れた。



忙しい毎日をこなし、彼女とも元通りの生活に戻っていた八月。


部長になってから初の吹部のコンクールで金を獲れた。

ダメ金だったが、銅しか獲れない学校だったので、みんな手を叩いて泣いて喜んだ。


俺はみんなが喜んでるのを見ていたけど、実は泣くほど嬉しかった。でも、昔から俺は感情を見せることが苦手で、単純に素直に喜べなかった。

幼なじみはその辺を理解してくれてるので、何も言わずにそばにいてくれた。


一年の最大イベントも終わり、なにもかも元通りだと思っていたら

幼なじみから、コンクールの遠征の夜に旅館で、彼女が一年の男の子とキスをしてたと聞かされた。


その日彼女は、朝練にも昼休みにも来なかった。


放課後部活に行くと、トロンボーンの一年の隣に座って練習をしていて、とても楽しそうに笑っていた。


俺はまた黙って待つことにした。


二年の終わり頃、

バイトしていたリゾートホテルの常連さんで、プロミュージシャンのUさんが、東京においでと誘ってくれ、ご自身の事務所の名刺をくれた。

それが結構な勢いであちこちに広まり、俺は一躍時のひととなった。


その頃、彼女がまた帰ってきた。


「また一緒に居て下さい。」


俺はまた何も聞くことも言うこともなく、黙ってうなずいた。


三年になって八月。

最後のコンクールもダメ金に終わり、俺は引退する前に最後の全体ミーティングをした。


そこで初めて人前で泣きながら、テューバへの想いと、この吹部への想いを初めて言葉にした。

部員たちは、本当に惜しんで号泣してくれた。


そんな中、彼女の姿はそこには無かった。


彼女は、同級生の陸上部の子と、七月くらいからつきあっていると副部長のフルートの子が教えてくれた。


そして長い夏休みが終わり、九月半ばくらいに彼女が泣きながら家に来た。


なかなか泣き止まず話もしようとしない彼女が、泣き止んでぽつりぽつりと話し始めたのは、夜もずいぶんと更けた頃だったと思う。


彼女は妊娠していた。


相手の事を一生懸命かばっていたが、相手は陸上部の子で間違いないみたいだった。

俺はただ彼女を抱きしめて、背中を撫でてやる事しか出来なかった。


産むにしても、おろすにしても、未成年の自分たちでは病院にかかることが難しい。

でも俺は彼女が選ぶのなら、学校をやめて働いて生活費も出産費用も稼ぐつもりでいた。彼女の厳格な両親も説得するつもりだった。

しかし彼女は、そんな両親が本当に恐くて、家出をするからかくまって欲しい。子供はおろす。逃げ切れないのなら自殺すると言った。


俺は悩んだ結果、俺ひとりで彼女の両親に会って、彼女を受け止めてくれるように説得した。

彼女の両親は晩婚で、40を過ぎてからの一人娘。

火の着いた様に怒り狂い、俺も殺されそうになったが、必死に説得して何とか理解してもらう事が出来た。


結局。両親たっての意向で子供はおろして、相手の子は不問。

俺もいまだに名前も聞いていない。

それから卒業まではずっと俺と一緒に過ごした。


俺は親父の大病の事もあったので、大阪に就職を決めて、卒業してからはずっと田舎の病院と大阪の片道300キロほどを忙しくいったり来たりしていた。


彼女は、兵庫県の大学に進学をして、俺のアパートで半同棲をしていた。

彼女の両親も娘をお願いしますと、手放しで彼女を俺に預けてくれて、度々生活費や、地元の魚やら食材をたくさん送ってくれたりもした。


俺の働いていたとこは奈良公園の近くの百貨店だったので、朝早く電車を乗り継いで出勤して、夜も遅くまで働いて、家に到着するといつも日付が変わっていた。


彼女と逢えるのはほんの僅か。

土日を使って田舎に帰り、親父につきっきりで病院に詰めている母の代わりをしていたから、実質顔見れる時間なんて、週に10時間もなかっただろう。

そんな生活が続いていた、10月の終わりに親父が亡くなった。

48歳という若さで、俺たちに何も遺さずに逝ってしまった。


俺は幼い頃から親父を憎んで生きてきた。

酔っていない時は見たことがなく。アル中で気が触れて、精神病院に出たり入ったりを繰り返していた。一切働かず、口を開けば母の文句ばかり。

俺の知る限り、母は二回あばらを折られ、右腕を折られ、腹を包丁で刺され、4回入院してる。

暴れだすと手がつけられず、警察に保護を何度も求めたが、事件が起こらないと手が出せないと、いつだって門前払い。

仕方なく親父に見つからないような知人の小屋を避難場所に借りて、そこで度々生活したりしていた。


でも母は、どれほどひどい仕打ちを繰り返されても、俺たちのために離婚もせず、逃げることなく、ずっと笑って頑張って働いてた。

俺はそれを見て育っているから、少々のことではあきらめないし、我慢も強く、感情もなかなか表には出さずに、弱さを見せることなく生きる事ができた。

そこが普通に生きてきた子たちからは、安心感として映ったのかもと、今は思う。


俺は絶対に親父を許さなかった。

小学生の時から、度々母の寝首をかきにくる親父を殺すため、枕の下にはステーキナイフを忍ばせて眠った。

今でも他人の気配で起きるのはその頃の名残だ。

いつでも素手でも殺せるようにと、昔、国士舘大学の柔道部主将をしていた中学の恩師に頼んで柔道を習った。いろんな殺しかたも学んだ。

憎くて、憎くて、憎くてたまらなかった。


だけど。

親父が亡くなった時、涙が止まらなかった。


あれほど憎んでいたのに。あれほど殺したかったのに。


恋しくて恋しくて恋しくてたまらなかった。


死に目に逢えなかった。尾道の病院に間に合わなかった。

ごめん。ごめん。

寂しい想いさせてごめん。

痛い想いさせてごめん。


病院に到着して、親父の死に顔を見て、

気がつくと何度も何度も謝ってた。


雨が降ってたと思う。


病室を出て、外に歩いて、

雨の中、公衆電話から、真っ先に彼女に電話した。


俺のアパートの電話には出なかった。


大学の学生寮に電話したけど、外泊届けが出されていると言われた。

仕方なく断念して、空っぽの心のままで、通夜やら葬儀の手続きに追われた。


すべてが終わって、大阪に戻ってからも、しばらくはなんにも手につかなかった。

なんだか俺を取り巻くすべてが不確かで、まるで無重力の中でパクパク口を開けてる金魚みたいにふわふわしていた。

その時に初めて誰かにすがりたいと思った。

あれから彼女には一度も逢っていない。

一週間は経ったと思う。

また雨がすごく降ってた夜だった。

夕立みたいにすごい雨。


アパートに戻ると、留守電が光ってた。

彼女の明るい声で、今から言う電番に連絡が欲しいと、そこには入っていた。


短い録音だったけど、俺は一瞬で息が出来るようになった。

すごく嬉しかったのを覚えてる。

0時をとっくに回ってたけどすぐにかけてみた。


すると

そこに出たのは、俺と彼女の共通の友達。

彼は、二週間ほど前から大阪に遊びに出て来ていて、彼女にいろいろと案内してもらってたんだと。

この二週間はずっと彼女と梅田のホテルで過ごしてるんだと。

もしも俺さえ良ければ、このまま彼女を譲ってくれないかと。


俺は最初から何もなかったんだとその時に初めて想い知らされた。

昔から何も持ってなかった。


だから彼には、「いいよ。幸せにしてあげて。」とだけ言って電話を切って、

どしゃ降りの夜の街に出て、誰もいない公園で、彼女が好きだった歌をたくさんたくさんうたった。


ASKAさんの「はじまりはいつも雨」「Love song」「天気予報の恋人」「Walk 」「伝わりますか」「Please 」


彼女が俺に日本の歌を教えてくれた。

彼女は俺がうたうその歌を、本当に好きでいてくれた。

時には泣いたり、うっとりと聴き入ってくれたりもした。


共通に好きになったアーティストもいた。

CHARAちゃん。

彼女と一緒に何本もツアー追いかけて参加した。


俺の好きだったアーティストも彼女は大好きになってくれた。

いつの間にか彼女は、友達の間でも洋楽通として名を馳せるようにもなっていたっけ。


びしょ濡れになりながら、声が枯れるまでうたって、アパートに帰った。

彼女との想い出は、いつも雨のトンネルの中にあったなって思いながら。



**********



そして今

彼女はどうやら三重県辺りで元気にやっているらしい。


結婚はしたのか、子供は居るのか、そのあたりはまったく聞いてもいない。

興味もない。


ただ、こうして、この時期に必ず、彼女から電話が来る。


お互いの無事だけ確かめたら、彼女はいつも俺にこう言う。


「ねぇ。誕生日おめでとう。元気でいなさいね。」


俺はいつもこう答える。


「君より先には死なせてね?」


そしたら彼女は決まってこう言う。


「だめ。死ぬ前には必ず電話ちょうだいね。今度はちゃんとそばに居たげるから。」


そしていつも二人は笑って電話を切る。

それ以上話すことは何もないしね。



ただ、いつか

彼女の元に行って、あの頃昼休みにうたってた歌を、無理矢理聴かそうかなと密やかに想ってたりもする。


そして、お互いの孫が大きくなって、高校生になった時には、吹奏楽部でユーフォニアムとテューバをすすめてみよう。


それまで頑張って生きていようかな。



結局一度も彼女には言えなかったけど

今なら言える。


君が大好きだったよ。


誰よりも。ずっと。












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