横手教授と中田くん

宮原にこ

第1話 もうダメだと中田くんは思った

もうダメだ、と中田くんは思った。

教授の結婚話を聞いたからだ。これはダメなやつだ。間違いない。


中田くんの愛する横手教授は、中央アジアの文化を研究している。


モンゴルや中国から見れば蛮族と言われる中央アジアの騎馬民族は、ユーラシア大陸の文化の交流地として古くから進んだ知性を持った民族であった。

中国から見れば「外側」のその世界はユーラシアの中心なのだ…。


という説明を淡々としかし情熱的に語る姿に、中田くんはいかれてしまった。一般教養科目でいかれてしまった中田くんは、法学部のエースだったのに、猛勉強して文学部アジア文化学の大学院に入ってしまった。そして誰よりも雑務をこなし、誰よりも研究の成果を出し、横手研究室の常勤助手の座についた。努力の賜物である。


横手教授はいわゆる研究バカで、40になるというのに結婚する気配もない。ひょろりと痩せ型でメガネをかけ、いつも髪を適当に撫で付けている。服装はいい物のようだが少し着崩して、皮肉っぽく笑う。本と煙草を愛し、放っておくとあまり食べない。

学生には関心がなさそうでよく見ており、時々とても適切なアドバイスくれるので人気がある。

見た目も悪くないため、女子学生にまあまあ人気はあるが、横手教授には何というか、スキがない。バレンタインも誕生日プレゼントも「どうも」しか言わないし、告白されても同じだった。


中田くんが横手教授を好きになったのは、そういうところだった。研究以外をどうでもいいと思ってるところ。でも結構気がついて、周りに対して優しいところ。スキがないのは余計な期待を抱かせないためだ。中田くんは最初、横手教授の研究に惚れたのだと自分で思っていた。だから横手教授が研究に没頭できるよう、文部科学省への申請書類やら学内政治やら学生の相手やらを全てテキパキとこなした。研究室の掃除も完璧。灰皿もいつもピカピカ(本当は学内禁煙です)。シャツにアイロンもかけたし、ネクタイも選んだ。

横手教授が求めた訳ではない。中田くんは仕事ができる方なのでやればやるほど気がついてしまうのだ。徐々に増えて、今や教授の身の回りの事は全て中田くんがやっていると言ってもよかった。


横手教授は別にその事をいいとも嫌とも言わなかった。ただ、時々気づいてくれた。特に張り切って掃除をした時、いつもより大変な書類を仕上げた時、「ん、ご苦労さん」と言われることが中田くんは死ぬほど嬉しかった。

そして気づいた。自分はこの役割を誰にも渡したくない。誰よりも教授に信頼され、時々優しくされたい。


しかし、中田くんは自分をわかっていた。178センチ76キロ、ラグビーをしていた高校の時よりは締まったが、ガッチリした体格の28歳。仕事ができるしっかりもの。女子学生は寄って来るが、40のインテリ男が自分を選ぶ可能性はゼロだ。


横手教授が自分を頼ってくれるのは、ひたすら便利だからに過ぎない。ただ、横手教授にとって研究以外はほとんど価値のないことだ。教授は誰も選ばない。その中で最も使い勝手のよい存在でありたい。それが中田くんの心の支えだった。

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