海賊令嬢の航海 ~黒薔薇のゆく果てに~

黒猫時計

第1話 大海洋の吸血鬼

 多量の塩気を含んだ温い風が頬を撫でる。

 空は快晴、さざめく波とカモメたちの鳴き声が心地よく耳に響いてくる。


 ここは見渡す限りの大海原、彼方には水平線と小さな島々が点々と望む。

 穏やかな海を裂くようにして進むそんな船上、船首甲板に、所々破れた海図を片手に望遠鏡で位置確認をする一人の女性が立っていた。


 黒のパンツに黒のヒールブーツ、そして大きな襟の付いた白いブラウス。その胸元は大きく開き、自慢でもあろう形のいい豊満なバストを、魅惑的な谷間を殊更のように強調している。

 その上には黒地に金の刺繍で装飾されたロングコートを羽織り茶色の革製腰ベルトを締め、そのベルトには黒鞘に納められた曲刀カトラスと二つの銃身を持つ大口径の拳銃が提げられていた。

 更に視線を上へとずらしてみると、大型の拳銃よりも、フェロモン漂う胸元よりもその存在を明らかに主張する、鳥の羽が豪奢にあしらわれた幅広の大きな三角帽が目に映る。

 尖る中央に髑髏と一対の大腿骨を配したその帽子を見れば、誰しもが気付くだろう。彼女は海賊船長なのだと。


 陽を浴びて煌き輝く肩まで伸びる金色の髪。瞳の色は赤色で、その涼やかな目元と艶やかな唇、そして立っているだけで香水の如く漂う品格。鼻筋の通った美しい顔立ちから、一見蛮族的な海賊には似つかわしくないようにも見えるが、その眼差しから感じ取れる意志の強さ。幾度となく修羅場を潜ってきたと思わせる内から滲み出る風格から、船長だと言われれば頷いてしまうほど、似つかわしくはないが雰囲気を醸し出している。


 彼女の名はレベッカ=バルトシュタイン。

 王国と帝国を隔てるこの大海洋で海賊を生業としている。サバサバとしていて闊達、面倒見が良く気概のある人物で、その美貌と相まって船員たちはおろか、立ち寄る港町にも大勢のファンがいるほどだ。


 しかし一方で彼女を知る者たち、特に海賊の取締りを主に行う帝国海軍などで囁かれ恐れられる異名がある。

 彼女の駆る船『レディ・ブラックローズ号(通称:黒バラ)』は船体から艤装ぎそう、帆などが全て黒塗りで、ローズの名の通りメインマストの頂に掲げる海賊旗に描かれるバラと、船首の女神像が流す血の涙だけが真紅に塗られている。

 漆黒の闇の中航行する黒い海賊船、数々の船を沈め略奪し殺戮する無慈悲で残忍な気性。レベッカの真紅の瞳とその行いに畏怖した者たちは彼女をこう呼んだ。

『大海洋の吸血鬼』と。

 今まで彼女が沈めた船は大小合わせて八十隻ほど。帝国はもとより、王国からも手配されるほどの海賊として名を馳せている。



 引き伸ばし式の望遠鏡を覗いていたレベッカは、それを畳むと空を楽しそうに遊泳するカモメの団体を見やる。

 視線は向けたまま胸の谷間に挟んだ開閉式のコンパスを取り出すと、彼女はそれを開き方位を確認した。


「う~ん……こっちで合ってる、よな?」


 一人で呟くレベッカの顔には少しの不安が見て取れる。またか偽物かと言った風に顔をしかめ今一度地図と航路、そしてコンパスの指す方角に目を配った。

 すると三本あるマストの中央。船央に聳えるメインマストの見張り台に立つ船員から、不意に彼女ヘと声がかけられた。


「姉御ー! 右舷遠方に艦船らしきものが見えやすぜ!」

「何っ?!」


 船員の声に、慌てた様子でレベッカは右舷へと視線を移し、再び望遠鏡を伸ばして覗く。確かに望遠レンズは遠目だが艦船らしき影を捉えた。一隻のようだが、どうやら帝国海軍の偵察用軽巡洋艦だと彼女は当たりをつける。

 まだ遠くだが帝国の巡洋艦は足が速い。あちらもこちらに気付くのは時間の問題か、もしくは既に気付かれているかもしれない。

 無理に戦闘をして、船体に傷を付ける事を嫌う彼女は咄嗟に判断を下す。

 船体後方に位置する船尾楼の舵取りに振り向くと、レベッカは声を張り上げて言った。


「この海域から離脱する。取舵一杯ー!」


 すると船長の声に呼応するように甲板で作業する者、マストの見張り、操舵手らが一斉に声を上げた。


『取舵いっぱーい!』


 操舵手は舵輪を思いっきり左へと廻す。カラカラと音をたてて回転する舵輪に過敏な反応を示す船尾に取り付けられた舵。

 一杯まで振り切り左へと進路を変更したレディ・ブラックローズ号は、帆で追風を的確に捉え巡洋艦との距離をぐんぐんと引き離す。

 黒バラは足の速さと旋回性能に自身のある海賊船だ。船底に装着された“黒い金属”のおかげとあってか、浅瀬の航行も可能となっている。


 カモメたちとの別れを名残惜しむかのように、レベッカは離れていくその姿をブルワーク――(舷縁。上甲板の舷側に続く波よけ用の低い側壁)――にもたれ掛かり、しばらくの間寂しげな顔をしてずっと見つめていた。




 しばらくの航行後、帝国海軍の船が望遠鏡の視界から消えたのを確認した見張りは、見張り台の上からレベッカに声を掛ける。


「姉御ー! 海軍は消えやした!」

「ああ、分かった」


 返事をした彼女はどこか疲れたように嘆息をもらす。憂いを帯びた目をして船が広げる波紋をじっと見つめていると、再び船員から声が掛かった。


「姉御ー!」


 今度はどうやら最前部のフォアマストにいる見張りからのようだった。

 小さく息を吐いたレベッカはブルワークに背もたれ、リギン――(索具。帆船などで、帆柱、帆桁、帆を支えるのに用いる綱や金具などの総称)――が無数に張り巡らされる頭上を見上げ、男に声を掛ける。


「今度はなんだい!?」

「街が見えますー!」


 レベッカは声に釣られて船首の前方へ視線を送る。そしてロングコートのポケットから収納式の望遠鏡を取り出し引き伸ばして目に当てると――。

 たしかに港町が見えた。そこは他の海賊たちも停泊する有名な宿場街だ。

 食事はもちろんのこと酒も旨く、女は器量好しで尻軽く、いつ死ぬとも知れぬ野蛮な雄たちの慰安には打って付けの街だと言えるだろう。


 彼女は乗り気ではなかったが、せっかくの骨休めの機会をみすみす棒に振るほど、今の彼女はバイタリティーに溢れてはいなかった。

 それに食料の調達や衣服も買わなきゃならない。砲門の整備もしておきたい。船の点検やら掃除やら、やることは山ほどある。


「仕方がないか……。よし、あそこに停泊する。船を付けな!」


 レベッカの一言で船の乗組員たちは皆歓喜に湧いた。久しぶりに旨い食事にありつける、女を抱けるとあってか、小躍りして喜ぶ者、腕を組んで踊り出す者など様々だ。

 盛大な盛り上がりを見せるそんな船上で、ただ一人浮かない顔をしているレベッカ。甲板に並ぶ幾つかの大砲の内の一つに腰掛けると、頭を押さえて首を振った。


「何か情報が聞けるといいんだが……」


 約二か月振りに立ち寄る港町を見やり、彼女は一人小さく呟く。その声は歓声に飲み込まれるように掻き消え、溜息は波音に溶けるように消えた。



 港に近付くレディ・ブラックローズ号。何隻かの海賊船が帆を畳み係留しているのが見て分かる。

 海賊間の掟として、『港町に停泊する他の海賊船を奪ってはならない』という暗黙のルールが存在するため、一見無防備に見えるが、目に見えない法で守られているため、海賊たちは安心し一時の道楽を心ゆくまで楽しめるのだ。

 しかし海に一度ひとたび出ればその掟は効果を失う。出た瞬間からただの帆船から略奪対象に変わるのだ。

 ゆえに港からの出航。それこそが主に海戦を除く海賊間での生死を分ける生命線だとも言えるだろう。



 やがて船は港に着き、海底に錨を下ろして停泊する。リギンを担当する船員たちは帆を畳み、砲担当の者は砲門を閉じる。

 各々違う役割をテキパキとこなし、駆られる衝動を抑えながら作業する中で、レベッカは一足早く船を下りるのだった。

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