脚色された希望
ツン、と鼻梁を突く刺激臭があった。
それを足掛かりに私の意識がゆったりと浮上するのを感じた。
目を醒ます。
「っ……ここは……?」
後頭部に鈍痛があった。顔をしかめつつ体を起こす。
金具がきしむ。ぽすっ。空気の抜けるような軽い音がした。重力に従ってかけ布団が上体を滑り落ちていったようだ。
胡乱な目でそれを確認した。輪郭しか見えないのは、起き抜けだけが理由ではなさそうだ。
暗い。夢すら見れぬ眠りに慣れた瞳は、曖昧な像を掴むのみだ。――いいや、夢なら見ていた気がする。
どんな夢だったかはよくある話で、起きたころには忘れていた。ただ、とっても大切なことだったのはおぼろげに覚えていた。
後頭部に手を回す。布みたいな感触があった。そういえば頭に巻き付いているような感覚があるし包帯だろうか。
消毒液臭さが遠のいている。もともと頭があった場所をまさぐってみれば枕があった。
プラスチックじみた無臭の空気には、花屋での仕事の際に何度か迎え入れられたことがある。
「病院か、ここ」
一切の隙間なく締め切られた個室。それが今、私のいる場所のようだ。
……どれくらい寝てたんだ。それになんで病院に。
記憶がつながらない。そう思うことに若干の既視感があった。
時計は見当たらない。あっても見えないし。
ベッドを抜け出す。地面の冷たさに心臓が跳ねた。あたりまえだけど素足だ。
時間を把握するには簡単で、外の景色を見ればいい。
わずかに漏れる光が視界を担保していたのだから。遮光性のカーテンをぱっと開く。
鮮烈な茜色が眼球を焼いた。
視界が白飛びする。意識は彼方へ。視神経が過敏に反応してつむった目から涙がじんわりにじむ。
意識のしっぽをどうにか掴んで取り返す。絞られた瞳孔で風景を見た。
チカチカと悪い虫が目をはい回るなか、空が燃えていた。
朝というには青の色がない。つまり、
「少なくとも一日は、寝てたんだ……」
その癖にずっしりとした疲労感が重しのように体にのしかかっていた。どこかで激しい運動でもして倒れたのか。
呆けるようにして夕焼け空を眺める。
いつかの始まりもこうだった――などと、そう遠くない日を感傷する。
ガラリ。後ろ手のドアが開く音がしたのはそんな時だった。
「目覚められましたか、聖女様」
ハッとして振り返る。
西日の光に焼けた網膜が視界をくらませ上手く見えないが、声色から男性だとわかる。
「聖女って……私がですか?」
確かに、終わると告げられた世界を救える女性がいたら、それは聖女とも言えるだろう。
だが、それを知るすべはないはずだ。
「お返しします。これこそがあなた様が聖女たる証であり、ゆえにあなた様以外には履けはしないのですから」
顔のない誰かが、足元へそっと差し出す。
夕焼け色に染まった部屋の中で、なお透明に透き通った白色をしたガラスの靴を。
「誰かが聞きました。その靴音は、まるで神託のようであったと言う」
男は、どこか陶酔したように言う。
「資格なき者が履けば、その靴は牙を剥く」
「どういうこと、ですか?」
「文字通りです。あなた様を確認したふたりの煙草臭い女性が、嫉妬に狂った顔でその靴を奪い取ったのです。顔が似ていたので、親子なのでしょう。娘の方が足を通した……まさにその瞬間です! ガラスの靴は割れ、その破片が逆立ち、足へ突き立ったのです!!」
熱にはやされるよう言葉を荒立てていく。唾が飛ぶのも気にしない。狂ったマイセン人形のごとしだ。
「割れたはずの靴はひとりでに元の形に戻り、血だまりにありながら一切の汚れを受け付けない。それは奇跡の所業としか思えませんでした。そして、それを履けるあなた様という存在は、希望として全世界に報じられました」
見てください、と窓辺から下を指さす。
きっとこの部屋は最上階なのだろう。遠い地上に、これでもかとひとがひしめき合っていた。
地上に堕ちた星。殉教者の列のよう。
日はすでに西へ沈み、空には綺羅と輝く星々が。まるで、欠けた魂の海である。
死の意思に怠惰と折れた心は、醜悪な祈りに支えられていた。
自分たちに都合の良い結末を持ってくるだれかの存在に祈り、そして今、形あるものとして現れた。
名も知らぬ少女へ、彼らは剥き出しの生をぶつける。
助けて。
そう、叫び続ける。
「……ずいぶんと、有名になったんですね」
「ええ。ゆえに、すべてはあなた様のご随意に」
男もまた、
ようやく目が暗闇に慣れたのに、これではせいぜいひと回り上の年齢と予測することしかできない。
欠片の興味もなかったが。
「ここから出ていいの?」
「申し訳ありませんが、それは叶えられません。あなた様に何かがあっては一大事。救済のその時まで、御身を保護させていただきたく」
結局は籠の中の鳥。
世界は閉じられ、ただ望まれるがままにふるまうことだけが許された愛玩動物。
「そう……」
祈りになることの意味を実感する。
それを嚥下して、ガラスの靴へ足を通す。
「なら下がって。言われなくても、救うから」
私は、いつもと変わらぬ無機質さで告げた。
男は背筋を震わせ、涙声でそれに従う。
「承知しました。私どもは、各階の部屋や廊下に控えております。何かありましたら、すぐにご用命を」
顔は伏せたまま、男は消える。
その背中へ問いかけた。
「ねえ、なんで私は病院にいるの?」
「お怪我をされていましたので。ここには世界中からお医者様も集まっておいでです。ええ、なので決して外出をしようなどという危険な試みはおやめください」
では、と今度こそ男は姿を消した。
顔が見えなくてよかったと思う。変わらぬ表情でひとを害することを肯定するのなんて見飽きているから。
換気をしたく窓を開け、外の無辜な瞳のひとつと目が合いそうになってすぐにカーテンを閉める。
暗闇、静寂、孤独。
変わることのない現実が、横たわっていた。
――中断された感傷を続けるわけではないが。
あの日、シンデレラになることを選ばなければこうはなっていなかったのだろうと思う。
だけど、私の人生は行きどまりだった。いいや、途切れているというのが正しいか。
両親が生かしてくれた命。本来はあの場所で終わっていたのだから先がなくて当然か。
歩いて行けば道になると言えるほど開拓精神にあふれているわけでも、強くもない。
普通の人生が欲しかったけど、それはもうないから。
月に願ったわけでも、星が欲しいわけでもないけれど。
私は祈りになる。
少しして食事が運ばれてきた。あの家で与えられた予算では決して届かない食材ばかりなのがわかった。
ほかほかの湯気が立っていていかにも美味しそうだ。
けれど食べる気にはならなかった。食欲がなかったのだ。
布団にくるまっていると、二十二時を告げる鐘が聴こえた。
断末魔にも似た、心臓を絞り上げるような音。
気になって窓の外をちらりと窺う。
「……」
死を宣告する音に彼らは怯え続けたはずだ。どうしようもなくて、祈りにすがったほどなのだから。
しかして今、シンデレラを知った彼らの顔には、死におびえる色は一切なかった。
見なければよかった。この時ばかりは月の光の優しさを恨めしく思った。
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