しあわせの味

 あれだけ静かだった通学路が今日はやけに騒がしかった。

 電線にとまる鳥が首を絞められたような鳴き声で鳴いている。

 塀の隙間を器用に縫う野良猫が、誇りを捨てて家猫のようにあまやかな鳴き声で輪唱していた。

 すれ違う人の数がやけに多い。みんな五月のように暗い顔をして駅のほうへ歩いていた。黒い服装もあいまって葬列に似ていた。

 悲鳴だった。

 断末魔にあふれている。

 昨夜の鐘の音はひときわ響いたのだろう。

 親しくしたいわけではないのに急に距離を詰めてきたから当然か。向こうからしたら最終的にはみんな自分のところへやってくるのだから、全員親友みたいなものだろう。

 十年来の親友のように首に腕を回してきた死。だれもがその死神の鎌に怯えていた。

 その光景に頬が緩みそうになるのを必死にこらえる。

 今日は時間に少し余裕があった。だからゆっくり歩いて通学できる。

 義母も義姉もまともに寝られなかったのであろう。疲労感を目の下の隈とにじませていた。朝食もまともに採らず、いてもたってもという様子で足早に職場や大学へ向かった。そのおかげでもろもろの作業が早く終わったのだ。

 こんなに余裕のある朝は何年ぶりだろうか。

 さらには、こんなに愉快な光景が広がっているのだ。

 私の見る世界は相変わらず灰色だったけれど、学校への忌避感は少しはまぎれるというものである。

 るんるん気分でスキップでもすれば、世界なんて簡単に救えてしまいそう。

 もちろん、救おうとは思わないが。私の命を使って勝手に救われればそれでいい。 気づけば高校が見えてきた。改めてみればそこそこに立派な造りの校舎だ。

 予鈴は余韻を残して消えている。

 余力があろうと歩いてくればいつもと大差ない。

 どたばたと昇降口へ飛び込み、いそいそと靴を履き替える。

 変わらない日常。

 このまま世界は、緩やかな停滞とともに終わっていく。

 そして、ねじ曲がった条理に救われるのだ。


「――見つけた」


 とくん。鼓動が跳ねた。

 声にかたちはないけれど、それが私を指しているのだとすぐにわかった。

 心臓の音が耳にうるさい。どくどくと、生の脈動を強く刻む。

 あがる体温を自覚しながら振り向く。

 日常の中で垣間見ただれかが、そこにいた。


「あなた……」

「昨日ぶり、でいいよね?」


 片手をあげた挨拶。

 ともすれば、旧知であるかのような気軽さであった。


「なんの用……ですか?」

「用かぁ……なんとなく、会っとかなきゃいけない気がして」

「なにそれ」


 気味が悪い。

 続く言葉は喉元で霧散した。荒れ狂う血流に押し流されたみたいだ。

 吐き気がした。自分が自分でないような感覚に、小さくえずく。

 一心にこの場から離れたかった。


「変なことを言っている自覚はある。けど、君を見たときにもしかしたら知ってるんじゃないかと思ったんだ」

「なにを」


 適当に相槌を打つ。そんな気分であったから。

 なのに心のどこかで、その発言に落胆する感情もあった。

 理性が悲鳴をあげても、精神が陶酔している。

 だからだ。そんな中途半端な状態で受け答えをしている


「みんなが言っている時計の音。君はその正体について知っているんじゃないかと思って」


 こんな核心的な問答に巻き込まれるのだ。

 甘やかにほどけていた心に冷や水がかかる。

 浮ついた感情が、今を取り戻す。

 どっと、冷や汗が噴き出た。

 隠された真実を暴かれたことに――ではない。

 自分だけが見逃したドラマの内容でも聞くような、のんきな声音に、だ。


「聞こえて、ないの……?」

「いや、さすがに聞こえてるよ。あんな大きな音。……ただ、なんであんなに騒いでいるのか理解できなくて」


 きっとそれは、おかしなことではない。

 星の悲鳴が聞こえないひともいる。

 彼だけが特別、ということではないだろう。

 それでも、聞こえないという事実が指し示すのは――その残酷な事実に嫌悪すると同時に、無機質なチャイムの音が鳴り響いた。

 本鈴だ。この音が終わるまでに席についていないと遅刻扱いである。

 今から走って三階分。絶望的だ。

 けれど、この場から抜けだすにはちょうどいい口実。


「私は聞こえるけど、なんなのかは知らない。もういいよね」


 冷たく切り捨てる。

 いつもと変わらない。

 だれにも変わらない。

 なのに――鼓動は治まらない。

 視線を切るときに、身を裂く苦痛が走る。

 階段を駆け上がる途中、なぜかシンデレラのお話を思い出した。

 義母や義姉にいじめられる小汚い娘が善き魔女に見いだされ、王子様に本当の自分を見つけ出してもらい幸せになる。そんな救いと希望に満ちた甘ったるい物語を。


「……ぅ」


 ついぞ耐え切れずに女子トイレへ駆け込んで嘔吐する。

 胃酸にまみれた柑橘の甘い香りが鼻を突き抜けた。

 吐けるもの全部をぶちまけて流して捨てる。

 それでも胸に残るものがあった。

 洗面台で口をすすいで鏡を見る。見れたものではないみそぼらしい娘――それこそ物語の中で灰被りと呼ばれた少女のような。

 仕組まれたような、見えない運命の糸で操られているような状況におぞけがした。

 自分の幸福も不幸もあらかじめ決められているのではないかという錯覚に陥る。

 それはとても気味が悪く、今すぐ死んでしまいたかった。

 それは吐き出さない。

 だって私は、


「生きなきゃいけないんだ」


 だからシンデレラになった。

 吐き気を抱えたまま教室へ歩き出す。望まぬハッピーエンドをつかむため。最後にうすら寒い笑顔で終わるために物語を進める。

 こうして、定められた終わりを受け入れるだけだった日常は崩壊の兆しを見せつつ。

 二十時を告げる音とともに、三回目の悲鳴は刻まれた。

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