第46話

  その瞬間、ひかりの中に生じたのは「痛い」ではなく「熱い」だった。

 お腹の辺りを鞭のようなもので打たれた衝撃で、「喉にあった空気の塊がでたらめな音階」で洩れ出た。悲鳴というよりも「音」に近いそれを自覚する間もなく、すぐに「熱い」が「痛い」に変わっていく。

 痛みと温度は本来全く別の感覚だが、危機的状況の中に置かれるなどした際、同じものとして錯覚してしまうことがある。つまり、これもその「感覚の取り違え」によるものだ。

 だが、時間の経過と共に痛みが「正常に」認識されると、身体にも「正常に」痛みとして伝わることになる。

 結果。

 声など出ない。出るのは声ではなく、さっきと同じ「ただの空気の塊」。あ、とか、は、とか、呼吸の動作に伴うそれだけだった。

 痛い。何で痛いの。痛いって何。痛いってば! 自分が「痛いと思っている」ことさえわからなくなるほどの「痛み」が、感覚の、神経の、思考の全てを覆い尽くす。

 もっと言うなら、痛みと共に引き起こされる無秩序な思考の混乱が、身体にとって必須の「息をする」という生理現象すら阻害し、過呼吸を起こしていた。

 いたい、くるしい、たすけて、だれか。身動きのとれない中でうわごとを吐くような意識は、いっそ朦朧と、消え入りそうにくる。

 そんな状態だったから、そのとき、で何が起こっているのかなんて、当然知るわけがなくて。

 必死にもがくような心地の中、いくらかぶつ切り状態になっていた意識が繋がると共に、やっと痛み以外の感覚が自分の中に入ってくる。

 とはいえ当然、感じているものから意識が完全に離れられるわけではない。

 痛みの次に感覚に触れてきたのは、まるで闇雲に銅鑼でも鳴らすような、辺りいっぱいに響き渡る轟音。ただし、音の振動が目一杯伝わってくるせいで、痛いところがよけいに痛くなる。

 うるさいってば! 私がこんなに痛いのに、何でこんなにうるさいのよ! 

 身体の痛みと並行して拾うのは、やはりまず「不快」な感覚。ひかりのことなど蚊帳の外にあるような騒々しさが、弱気と苦痛ばかりだった中に強い腹立たしさを生んだ。

 際限なく膨れ上がっていく苛立ちに突き動かされるように、身体を僅かによじる。すれば、ひりついた喉から飛び出すような勢いで、えほ、げほ、と、咳が出た。その振動がまたお腹の痛みに響いて、あぐっ、と詰まりを吐き出すような声が出る。

 けれど、物事とはいったい何が幸いするかわからない。それまで上手くできていなかった呼吸が、この咳と声が出たことで、全く不意に、すんなりと通った。

 身体への酸素の供給が叶ったからだろう、うすぼんやりしていたひかりの意識が、やにわに明瞭になっていく。

 だからこのとき、ようやく気付いた。それまでなかった「声」が聞こえることに。

「だって、派手な方が格好つくかなって。せっかくの登場だしね。」

「そういうこった! 主役はな、遅れて来るってのが王道なンだよ!」

 知ってる声だ。

 待ってた声だ。

 吐く息が、ほ、と丸くこぼれた。痛さや苦しさによってではない涙が、じゅわっと目尻に浮いてくる。

 痛みは全然消えていない。けれど、ただその声が聞こえただけでも、痛みに抗って首を動かせるくらいの気力が湧いてきた。

 何してたのよ遅いじゃないの! 開口一番、そう叫んで伝えたいくらいの気分だった。

 なのに、声がまともに出ない。勿論、今の自分が声を出せるような状態ではないのはわかっているが、それでも出せないことが気に入らない。

 だから。今までの不快をひっくり返すくらいの気概で、ひかりは、もごもごっと口を動かす。

 すれば、ふたりがひかりを見た。金色と淡琥珀、ひと揃いずつの眼が、しっかりと見た。ひかりの受けた仕打ちに驚き、そしてそれ以上に、強い怒りを沸き立たせた表情だった。

 待ってろ。すぐ行くよ。伝わるそれは声ではなかったけれど、表情だけでも雄弁に、饒舌に伝えくる「ことば」だった。

「……ヤレヤレ。何かと思えば負け犬の新人クンたちじゃないか。君たちまで見物に来るなんて思わなかったよ。」

 ふたりの姿を認めたアンティアヴィラタが、呆れたようなうんざりしたような口調で、嫌みたらしく肩を竦める。

 ほんっと、こいつ何言っても腹が立つわね。聞こえる声にむかむかと苛立ちながら、ひかりは痛みにしかめていた顔を、むっとする顔で上書きする。

 もっとも、アンティアヴィラタの態度が、ほんの今の今まで、この「事態」に大いに狼狽していたことを取り繕うものだったのことなど、やっと意識を外に向けることができたひかりが知るはずもないのだが。

「まァ確かに、あンときはこっちがだったってコトは認めてやるよ。だけどよく考えてみりゃ、別にあれで勝負がついてたワケでもねェ。」

「へぇ、ボクにあれだけ滅多打ちにされたっていうのに、ずいぶんと大きな口を叩けるもんだね。」

「言ってろよ。状況がどうあれ、最終的にあの場からのはテメェの方だろが。何ならもう一回、滅多打ちとやらにしてくれたっていいンだぜ? ま、できるもンなら、って感じだけどな!」

 ノーティが、ふてぶてしく煽り返した。明らかな煽りの言葉を受けて不愉快そうな顔こそしたものの、口の端をにんまりとつり上げてみせる余裕すら見せている。

「勝負というのなら、僕もまだだよ。」

 フィニットが、ノーティの言葉を追いかけるように言った。落ち着いた声で、けれど大きく響かせて。

「ほう。砕けて屑石になり損なっただけのことを、まるで引き分けにでもなったように言う。」

 侮蔑の声を、バラトシャーデがあげた。

「そうだね。確かにあのときは、僕も負けたって思ってた。でも、そうじゃなかった。からこそ、勝てるってことがわかったんだ。」

「何を意味のわからんことを、」

「僕が勝てたならひかりを解放する、お前はそう言った。でも、決着がつく前にお前は消えた。だったら、僕もまだということになる。つまり、お前が言った条件はまだ〝有効〟だってこと。」

 凛然と、フィニットが告げた。ともすれば開き直りの屁理屈にさえ聞こえかねない言葉であるのに、その堂々たる態度によって、まるでのように響く。

「小賢しい知恵を弄しおって……いいだろう、四の五のごねるのなら、もう一度、今度は屑石どころか塵芥になるまで粉砕してやる……!」

「まぁそういうことなら……そうだな、ボクもちょっと、あの身の程知らずクンにもう一度、格上に対する礼儀を教えてあげることにするよ。」

 忿怒を露わにして、バラトシャーデがぶるりと身体を震った。忌々しげに吐き出すように、アンティアヴィラタが粘つく視線を向けた。

 ばっかじゃないの。「こいつら」を僅かに見下ろす位置で、ひかりは、ふふっと笑った。笑った拍子にお腹の傷に響いて、きゅっと顔をしかめてしまったけれど、気持ちだけは大笑いしている。

 あのフィニットとノーティが、強がりでも何でもなく、あんなに自信に満ちている。しかも、今まで見たどの顔とも全然違う顔をして。

 ひかりにすらわかるそれが、「こいつら」にはわからないのだ。

 これがホントの「大船に乗った気分」っていうやつよね。それがおかしくてたまらなくて、短く吐く息を小さな笑い声に変えながら、ひかりはふたりに声のない声援を送った。



「全くもう、君たちにはハラハラさせられっぱなしだよ。」

 黒い青──太郎が、赤黒の柱から幾らか遠ざかった場所から、まるで安堵に深く息をつくような仕種で、ほそりと口端に笑みを浮かべる。

 そのまま、あらわな琥珀のまなじり横、バラトシャーデの威嚇で欠けた自身の顔の輪郭に、太郎はひたりと手のひらを当てた。

 当てた箇所に、ぼわりとやわらかい白の光がともる。やがて僅かの間をおいて手のひらを離せば、其処には既に瑕もその痕もなく、もとどおりの端正な顔を象る稜線があった。

 さても良いタイミングで、「彼等」は戻ってきたわけだが、これは同時に、あらゆる意味での「正念場」の始まりでもある。

 戻って来ることはわかっていた。は勿論のこと、集められた警護員たちも含め、無駄に右往左往していたわけではない。ただ、戻ってくるのがいつになるのか、間に合うか間に合わないのか、はっきりとした確証がなかったというだけで。

 それが、この「騒動」の起こるほんの少し前、ついに「連絡」があった。彼等の乗る船が無事にするよう、今しばらく時間稼ぎをしてくれ、と。

 つまり、船がこの場に近付いていることを気取られぬよう、「敵」の意識を少しでも長く逸らしておく必要があった。それも、囚われている人質に極力危険が及ぶことのないよう、「説得」の態を以て、あくまでもだけに害意を向けるように。

 そのためには、弁が立ち、機転が利き、且つ「意図して感情的な振る舞いができる」ものが当たらねばならない。

 ダンウィッチでは寡黙すぎる、スートエースでは饒舌すぎる。高度な「演出」の素養が求められるこの場面において、結果的に一番「適任」であると判断されたのが太郎だった。

 アラミツがいれば任せることもできたけど。こういう事態ことについて、太郎以外で適任といえそうな心当たりはしかし、現在、ゾハールの令達を受けてこの場を離れている。

「……もしかして、僕が〝これ〟を任されたのも、ゾハールあのひとの内かなぁ。」

「そうかもなー。実際あいつらの気ぃ逸らすのも想像以上に成功してるわけだしよ。全く、どんだけ見えてて何処まで見えてんだか。」

 太郎が、呆れにも似る感心を内懐に抱きながら呟くと、はたから聞きつけたスートエースが、肩を竦めて同意する。

 だよね。同じく肩を竦め、太郎も苦笑で返した。

 統括長フラーテルとしてのゾハールの判断には、どんな場面においても絶対の信頼を置いている。が、あの突出した頴悟と性状の持ち主は、ときに自分たちの理解の埒すら軽々と飛び越えてしまうことも少なくない。

 無論、ゾハールにも未来はあるだろう。そして、からこそ、未知や可能性というものを、殊更面白がりたがるのだ。

 とはいえ、まさかこんな「荒っぽい事態」になるなど全くの予想外で、さすがの太郎をしても驚くしかなかったのだが。

「全部とは言わないけど、多少の種明かしくらいはしておいて欲しいかなぁ。」 

「まぁなー。でもあれよー、お前さんもいずれはこの星の未来をしょって立つわけだし、あえて実地訓練させたってのは十分ありえる話だぜー?」

 それをにじませて呟けば、スートエースが、ははーん、と思い巡らせるような調子で言った。

 成程、それはありえるかもしれない。

 リテラの将来を担う指導者として申し分ない実力の持ち主、などと持て囃されはするが、自分などまだまだ若輩、学びの途上である。

 現に、今し方バラトシャーデと繰り広げた交渉の中で、自分の感情を制しきれず、思わず言葉や態度ににじませてしまった。

 もっとも、その「思わず」が出てしまったことで、かえって迫真が増し、バラトシャーデの意識を引きつけておくことに成功したわけだが、それも「運が良かった」というだけの話である。

 統率するもの、指揮するものとしての「振る舞い」を学ぶ機は、決して多いわけではない。だからこそゾハールは、太郎にこれを任せたのではないか。

 そんなことを思いながら、この「荒っぽい事態」の中心にいるふたつの輝きを見た。そうだ、そういう意味でなら、今視線の只中にあるあのふたりと自分を比べたとて、然程の差があるわけではない。

 あえてあるとすれば、それこそ場数の差くらいのものであろう。

 聞こえた会話を待つまでもなく、あのふたりはこれから、バラトシャーデとアンティアヴィラタを相手に「リベンジ」を繰り広げるつもりでいる。図らずも、奴等の意識を虜囚から引き剥がし、「こちら側」に向けるにはうってつけの形になった。

 とはいえ、こちらの思惑の全部が通ったわけでもない。

 上空の赤黒の亀裂が、不穏にぐなぐなと揺れる。垂れ下がる柱が何本か消えた。その代わりのように、ひかりの捕らえられている柱の周りに、不規則な網目のように薄膜が張り巡らされる。

「うーん、ふたりに暴れてもらうどさくさに紛れて人質を奪還……は、今のところまだ難しそうかな。」

 幾らか残念そうに唇を尖らせ、太郎が呟いた。いくら不意を衝かれたとはいえ、さすがに敵とて其処まではいまい。

 帰還したふたりの成長には、太郎も大いに期待している。とはいえ、本来の目的である人質の奪還まで視野に入れて考えるなら、一筋縄ではいかないだろう予想も当然ある。

「スピンガスの野郎は相変わらずかくれんぼ一辺倒だが、まぁそっちは俺に任せとけ。そろそろマンネリだって教えてやんねーとなー。」

 思案を巡らす太郎に向け、スートエースがニヤリと得意然に言った。

 意は太郎と同じ。今度はこちらが「舞台」の為手シテとして、脇役を「やらされる側」ではなく、「やる側」に回ってやろう、ということである。

「そうだね、彼等に心おきなく暴れてもらうには、僕たちが受け皿になっておく方がいい。」

 そのためにもまず、探査と防御の精度を高めておく必要がある。万一の事態も想定に入れつつ、どうすれば人質を無事に奪還できるか、そして、どうすればこの事案を解決できるのか。

 こっちは僕の力試しかも。

 緻密の差配を繰り合わせながら、太郎は頷き、薄く笑む。

 あらわの琥珀とひそみの金、その両眼に宿る聡明が、この場を、隅々まで見渡すように俯瞰するように見据えた。

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