高梨進「歴史の終わり=文明の並立・限界の終焉・短い21世紀の終焉」(『地球』水波書店、2038年、27頁以下)

 ヘーゲルは世界史を「自由」の発展史であると結論づけた。或いは、エーリッヒ・フロムは「反抗」に全ての歴史の端緒を見出した。人類の歴史振り返ると、彼らの洞察は正鵠を射ていると言わねばならない。人類最初の「反抗」は自然に対するものであり、そして「自由」は自然を屈服させることによって獲得されてきた。無論、自然と人間を対比させる考えはキリスト教的な、つまり西洋中心主義的である。しかし、西洋の世界観(=近代)が世界の大勢を決している以上は、現代においても自由の発展史(=自然の制圧史)は続いていると見なくてはならないだろう。たしかに、ポストモダニズムが吹き荒れ、近代は自省を迫られた。しかし、それはあくまで自省であり、近代は放棄されなかった。近代を乗り越える試みは失敗したと言わねばならない。

 ところで、ヘーゲル左派の流れを汲むフランシス・フクヤマは二〇世紀終盤に「歴史の終わり」を主張した。フクヤマが言うには、ヘーゲルが観念したところの「自由」は遂に達成されたというのだ。つまり、自由民主主義リベラル・デモクラシーが全体主義に勝利したことによって、歴史は遂に終着点を迎えたのである。しかし、彼と同時期に、彼とは異なる判断をサミュエル・ハンチントンは「文明の衝突」において下した。ハンチントンによれば、歴史は終焉しておらず、文明の衝突が続いているというのである。つまり、自由民主主義が受け入れられるのはあくまで西洋文明の影響下にある地域のみであり、それ以外の地域、特に中東ではそうした価値観は受け入れられず、結果として西洋文明と中東文明との間に「文明の衝突」が引き起こされるというのだ。

 これら二つの説は人口に膾炙し、大論争を引き起こした。しかし、アメリカで起きた同時多発テロによって「文明の衝突」説の方がより現実に適合していると判断されるようになった。だが、現代においては、フクヤマの「歴史の終わり」がより現実に適合するようになると言わざるをえない。なぜなら、これから「文明の衝突」は沈静化するであろうからである。

 つまり、「文明の衝突」は結局のところ歴史を「価値観の対立」に還元しているが、今後はそうした「価値観の対立」は窮乏の改善と自給圏の確立とによってある程度は沈静化されると考えられるのだ。確かに「価値観の対立=文明の衝突」はある程度残るかもしれないが、より事実に適合する表現を用いようとするなら、それは「価値観の並立=文明の並立」となるだろう。「金持ち喧嘩せず」という諺が存在するが、サンドスターの登場はこの世に窮乏者(貧困者ではない)を消滅させ、揺らぐ主権国家体勢を昔日の姿にまで回復させるだろう。


……(中略)……


 サンドスターは人類に三つの革命的事態をもたらした。一つは環境破壊の無力化であり、二つは農業革命であり、三つはエネルギー革命である。これらの革命性は二〇世紀後半から社会一般に語られていた言説の前提を殆ど変えてしまった。つまり、環境・食料・化石燃料において限界が克服されたことによって、それら限界性を前提とした言説は意味を失ったのである。サンドスターの実用化黎明期に、「我々人類は自らの手で『楽園』を作り上げた」と語った高坂政孝の洞察は正しい。つまり、我々は限界の終焉を目撃しているのである。

 化石燃料がサンドスターとの結合によって無限に培養・増殖が安価に可能になったとの報道が世界を変えた。二一世紀最初期にダニ・ロドリックが『グローバリゼーション・パラドクス』で、グローバリゼーション・国家主権・民主主義は同時に満たすことができないと喝破したその時から、国家主権は苦渋の道を歩んでいたが、ついにその苦悩から国家主権は逃れる術を見つけ出した。つまり、国家は需要と供給を自弁することが可能となったことで、グローバリゼーションに頼らずとも己の生存が図れるようになったのである。今までは自国が発展するためには、自国だけでは使用される資源の調達がほぼ不可能であったがゆえに、世界大の貿易網に頼らざるをえなかった。しかし、サンドスターは資源という限界を消滅させた。もはや国家主権はグローバリゼーションに頼る必要はないのだ。今までは忌避されていた保護主義的政策も可能なのである。つまり、国家は自国内で全ての供給を賄い得る。さらに、国家は自国内で全ての需要をも賄い得ることも出来る。なぜなら、人口という限界も、食料と環境との限界の消滅によって実質的には消滅したからである。我々は永遠に続く成長の中で生きることを許されたのだ。我々の前途に限界は存在しない。


……(中略)……


 従って、限界を唱える二一世紀的言説は今をもって終焉した。ホブズボームの見解に倣えば、ソ連という一大実験国家の崩壊によって二〇世紀は終わりを告げ、二一世紀が始まりを告げたわけだが、その二一世紀は短いながらも、敢え無く終焉したのである。ポストモダニズムは、「限界」によって近代に執拗に攻撃を加えたわけであるが、その限界も消失した今、近代は自省する必要すらなくなった。自然の制圧は完了し、人間は遂に「自由」になった。「『楽園追放』より積み上げられた人類の多年に亘る努力と進化は、ここにおいて遂に神の領域――つまり安定と幸福の永続化――にたどり着いたのである」(高坂政孝)。つまり、「歴史の終わり」(=文明の並立・限界の終焉・短い二一世紀の終焉)が訪れたのである。

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