ペトリコール

 まだ、先客の熱が残った椅子に腰を落とす。先程まで幸せに満ち満ちていた空間が、名残惜しそうにその残滓を反芻している。僕もそれに倣い、大きく深呼吸をした。肺を侵す幸せを、僕の身体は吸収してはくれないが。

『またさっきの店にいるんでしょ。このストーカー』

 冗談交じりのそんなメッセージが僕の携帯電話を揺らしたのは、店員が蜂蜜梅酒を運んできたと同時だった。続けてもう一度、彼女からの悪態が机を揺らした。小振りなグラスの内側で、カランと氷が鳴る。

『彼氏が知ったら気持ち悪がるよ』

「告げ口する?」

『まさか』

 先の梅酒を喉に流しながら会話を続ける。その安っぽい味が、何とか僕に現実感を持たせてくれている。

 噂の彼氏は、自分の彼女が僕みたいなストーカーと関わっていると知ったらどんな顔をするだろうか。仄かに覗く酩酊が、僕に悪戯心を芽生えさせる。当然そんなことをする気など無いのだが。飲み干した酒に続いて僕は黒糖梅酒をオーダーし、暫しの間記憶の海に沈んでいた。


 彼女は美人ではないが附子という程でも無い。ただ、そこにいるだけで何となく雰囲気が優しくなるような、そんな空気を纏っていた。そしてその彼女を射止めたのは、どこまでも健気な同級生だった。

 僕はその話を彼女に聞いた時、成程、と一人納得したのを覚えている。それは僕に足りないものだった。恋なんてのはどこまでも独りよがりなもの、相手の幸福より自分の幸福だと考えていた僕には、彼の献身が酷く新鮮なものに見えた。

 そして、僕はそれを知りたいと思った。

 気が付けば僕はこうして、彼と彼女の残り香に誘われ夜を往くようになっていた。流行のデートスポット。期間限定の展示。穴場のバー。駅からすぐのラブホテル。そこに漂う彼等の香りが、僕を満たしてくれた。


「お待たせしました。黒糖梅酒のロックです。こちらお下げしますね」

 店員が空いたグラスを片付ける。僕は首肯して新しい酒に口を付けた。彼女も感じたであろう味だった。

 家に帰った時、時計は真上を指していた。消し忘れたテレビ。ふと天気予報が目に入る。ちょうど一週間後は、しばらくぶりの雨だそうだ。僕は思い立ち、鞄の中に折り畳み傘を忍ばせた。

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