第二部
「ん? なんだこのガキ」
オオカミの男が、苛立った様子で言った。
僕は一歩、後退る。
「あれ......坊主、お前六津さんとこの子じゃねぇか?」
続けて釘の男。
頭に釘が刺さってるというのに、この男は平気な様子で、僕に手を伸ばしてくる。
今度は二歩、三歩。
「来るな!! 来るなああああ!!」
「ちょっと叫び過ぎよ。近所迷惑になるじゃない」
口の割けた女が、後退る僕の後ろに回り、肩を押さえて言った。
冷たい感覚が背筋を襲う。
そこに温かみはなかった。
「あああああああ!! 離せ!! 離せええええ!!」
「近所迷惑なんて、俺らが言える話じゃねぇけどな! ガハハハハ!!」
角が生えた大男が笑いながら言う。
身体中が真っ赤で......まるで鬼。
僕を見るその目は、獲物を見つけて狂喜に笑っているように見えた。
「あああああああああ!! バケモノ!! バケモノ!!」
僕は必死に腕を振り、バケモノたちを寄せ付けないようにした。
もし捕まったら、僕もバケモノにされてしまう。
それとも、食べられてしまうのだろうか。
バケモノが生きる糧となるのだろうか。
嫌だ。絶対嫌だ。
それは僕自身がバケモノの一部になるのと同義だ。
僕はバケモノなんかになりたくない。
「っ! ってぇな......気ぃ付けろやクソガキが......頭イカれてんじゃねぇの?」
......と、振り回していた腕がたまたま下半身に当たってしまった。
下半身と上半身に分かれた男の、下半身にである。
同時に、上半身だけの方が鋭い三白眼で僕を見上げる。
怖かった。怖かったけれど......人間である僕がイカれていると言われるのは我慢ならず、つい口答えをしてしまった。
「ぼ、僕はイカれてなんかない! お、お前たちバケモノが狂ってるんだ......!!」
僕を見る目が、あからさまにキツくなる。
分かる。こいつらは今、僕をうざったく思っているんだ。
殺される......!
とにかく逃げないと。
誰も来ない、どこか安全な場所に。
「はぁ? バケモノ? 何言ってんだお前。俺らがバケモノなら、お前だってバケモノだろうがよ」
唯一冷静だった鋭い八重歯の男が、呆れたといった風に息をつき、諭すように僕に言った。
その男が他のバケモノの中でも一番人間に近かったからだろうか。
さっさと逃げればいいものを、僕はまた口答えをしてしまった。
「違う! 違う違う!! 僕は人間だ! お前らバケモノとは違う!!」
僕は普通なんだ!
ほら、皮膚の色だって肌色だ!
口も割けてない!
角だって生えてない!
八重歯も長くないし、釘だって刺さっていない!
下半身もあるし、ましてや腐ってもない!
お前らバケモノじゃない! 僕は普通の人間だ!
......言いたいことの幾つを言えたかは分からない。
多分、ほとんど言えなかった。
全て言ってしまえば、僕は死んでしまうような気がしたから。
「あ、ちょっと!」
暗い夜道を、僕は再び駆け出した。
叫んだせいで息が切れてる。
充分捕まえられる距離から走り出したのだけど、幸い、誰も追ってくることはなかった。
「――ぁー! ぁー!」
どれくらい走ったのか分からない。
とにかく、足が痛くなるまで走ったことは分かった。
息切れも気にせず走ったので、呼吸が苦しい。
でも、呼吸ができてるってことは、生きてるってことだ。
僕はあのバケモノたちに殺されなかったんだ。
気付けば僕は、見知らぬ路上に横たわっていた。
車なんかが来たら、せっかく逃げ切ったのに死んでしまう。
でも今の僕には、それを気にして移動するだけ体力がない。
何も来なければいいが。
......バケモノたちも。
「ぁー、ぁー、あー、はぁー、はぁ、はぁ......」
......なんで、僕はこんな目に遭っているんだろう。
ようやく呼吸が落ち着いてきた頃、僕は不意にそんなことを考えた。
今日は何もない、ただ普通で平穏な日常であったはずなのに......どうしてこんなことになっちゃってるんだろう。
自分が手に持つ絵本に目を落とす。
『へいわなにちじょう』
そうだ。こんな、こんな平和な日常が......今日まで続いていたはずだったのに。
どうして急に壊れちゃったんだよ......
「もう嫌だ。悪い夢なら覚めてくれよ......」
孤独。
そう、僕は今まさにそれを感じていた。
誰もいない。
誰かを頼ることはできない。
完全な闇の中、一人きり。
助けはない。
「うっ......う......」
僕はここで、初めて泣いた。
この一件が始まって、初めての涙。
緊張でひきつっていた涙腺が安心で緩んだのか、はたまたようやく冷静になってこれからどうすればいいのかを考えた結果、どうしようもないことに気付いたからなのか。
恐らく、そのどちらもなのだろう。
そして、しばらくそうして泣きじゃくっていたせいか......僕は、いつの間にか僕の直ぐ近くにいたその存在に気付くことができなかった。
「......っ......!」
なんとか、声を抑える。
叫び過ぎて喉が潰れていたのは幸いだった。
本能のままに叫ぶのは、今の状況ではただひたすら危険なだけだ。
僕の視線の先にいる生物......いや、バケモノか。
でもバケモノと呼ぶにはあまりに......知っている存在で、知っている存在の名で呼ぶには、あまりに大きすぎる。
バク。
動物園で一度だけ見たことがある。
このように鼻が象ほどではないくらいに長く、白と黒の混じったパンダのような柄の、カバのような体を持つこの生物は......間違いない。バクだ。
しかし、おかしいのはそのサイズ。
通常は精々大型犬より少し大きい程度の大きさでしかないバクだが、こいつは違う。
頭の位置が軽々とそこらの一軒家の屋根の上をいっている。
流石にここまでの大きさともなると、象とそう変わらない......というか、象よりも全然大きいのだけれど。
しかし......なんなんだ、この気持ちは。
恐怖を感じる。
ただ大きいだけのバクに対し......僕は今、何かを奪われる恐怖を感じていた。
でも何を......奪われるんだ?
もう僕には、奪えるものなど何もないはずなのに。
命......じゃない。それは何故だか分かる。
......いや、知っているんだ。僕はこいつが、僕の命を狙わないことを知っている......
目的が僕の命じゃないことを知っている......
――でも、なんで?
なんで僕はそんなことを確信できる?
それに、何故僕はこいつに対しここまで恐怖を抑えることができる?
心の中で......こう冷静に判断できる?
見た目で言えば、さっきいたバケモノたちの方が、人間の形を保っている者もいただけ、まだマシだった......それに、生き物は普通、自分より大きな存在を怖がるものじゃないのか?
どうして僕は、精々
どうして僕は、何かを奪われることを知っていることそれのみに対して恐怖を感じているんだ?
――どうして僕は、この生物に見覚えが......
「――おめぇ。見てるな」
大きな頭が、ぬぅっとこっちを向いた。
「見えてるな。オイラの存在を、認識してるな」
「ぁ......」
僕は咄嗟に、丸くしていた目を背けた。
これ以上、こいつを見続けていたら......
認識し続けていたら......
僕の大切な何かが、奪われる。
「......オイラは
頭の中へと直接流れ込んでくるメッセージ。
言葉は螺旋のようにくるくると頭の中で回り、回り、回り、響き続ける。
僕は言葉もなく、ただ背中をつたる汗を感じる。
世界はブレて網膜に映り、震える手が本を手放した。
立つことはおろか、指先一本、自分の思うように動かない。
さっきまでは酸素を求めてあんなに喘いでいたというのに、今では呼吸さえ、止まっている。
「こんな自己紹介も、もう必要ねぇか......おいおめぇ」
「......」
――あ、れ?
本は......どこだ?
そうだ。あの本が、本さえあれば、僕は僕でいられる。
本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本。
「契約は終了だ......って聞いちゃねぇか。まぁそれだけ本に固執するってこたぁ、まだ曖昧なんだろうけどな......」
あぁ、あった。
すぐ側にあった。
読まなきゃ。
今すぐに。
今日はまだ、読んでないじゃないか。
「そんなものに、もう効果はねぇんだが......しかし、中途半端な状態で終わっちまったんなら、まだ分かんねぇか。おめぇはまだ、引き返せるかもしれねぇ......いや、この場合は
神経を流れる電気が強すぎるなんじゃないかな。
あまりに手が震えるものだから......ページがうまくめくれないじゃないか。
本を読めないじゃないか。
これを読まなきゃ、僕は全てを失って......全てを
「ま、夢は大きなものほどうまいってな......ケケ。仕方ねぇ。明日の夜まで待ってやるよ。それまでにお前が引き返さずにいられたなら......オイラはもう、おめぇに手は出さねぇ。仮にも出すのは舌だがな」
ああああああああああああああ。
どうしてこんなに汗が噴き出すんだ。
手が滑って......ページが、ページが......
本を、本を......
読ま......なきゃ、僕、は。
「――ただまぁ、ちとーつ、今のおめぇに対する感想だけ言わせてもらうぜ......率直におめぇは」
へ、へへ。
本、本を、ページ。
めく、て。よん、で。
へ、ねが、へへ、かな、へへへ。
その時僕は、僕を覗き込む大きな瞳の中に......もう一人の僕を見ていた。
その僕は、よだれを垂らして瞳孔を開き、全身の肌が蒼白となった......
「――狂ってるぜ」
首の長い、バケモノだった。
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