どこかへいく
屋上の青空は澄み渡っていた。背もたれに首を預けながら、私はそれを見上げる。吸い込む空気は冷たく、冬の訪れを否応なしに感じさせた。
「気分はどう?」私の後ろに立った彼が、視界の上から顔を覗かせた。だから私は応える。「うん、消毒液のにおいが身体から抜けていくみたい」
「一日中病室にいたんじゃ、気が滅入るよね」彼の言葉は優しい。でも、私はそれに素直に頷けるほど素直ではない。「気が滅入るとかはないよ。だって私はずっとここに住んでいるみたいなものだもん」
彼は、ごめん、と謝った。胸が痛んだ。どうして私はこうなのだろう。
私の憎まれ口に彼は困った顔をした。だから私は耐えきれなくなって、わざと震えた。
「寒くなったわ」「そっか。じゃあ、戻ろうか」
彼は優しく笑む。私の腰掛けた車椅子の取っ手を掴み、押し始める。そして病院の屋上、そのドアを開け、病室へと私を連れて戻った。
——階段を一段ずつ、慎重に、私が車椅子から、転げ落ちないように。
私が「空が見たい」と我が儘を言う度に、彼は車椅子を押して階段を上り、帰りは車椅子を支えて階段を下りる。それはもう、何度も繰り返された行為だった。私がここに入院した五年前から。私の足が動かなくなった、五年前から。
あの時小学生だった彼も、もう中学生になった。最初は一時間近くかかっていた階段の上り下りも、今では十五分とかからない。鍛えている、と彼は言ったことがある。リコちゃんを屋上に連れて行くために鍛えてるんだよ、と。
けれど私は、それが、その時間の縮まりが、たまらない。——かつて一緒に走り回り、遊んでいた私を置き去りに、彼はどんどん成長していく。手慣れてきた? 筋肉がついた? 違うよ、りょうくん。それだけじゃない。私は……歩けず、やせ細っていくばかりの私が、軽くなってるんだ。
そして十分後、私たちは病室へ着く。彼は私を抱えてベッドに座らせ、窓のカーテンを開ける。椅子に腰掛けて他愛ない話をして、見回りにきた看護婦さんの「こんにちは」という挨拶ににこやかに笑う。午後五時、日が暮れかけた頃に彼は帰った。いつもの時間。私はひとりになる。
違う。ひとりになる、ではない。改めてひとりだということを実感した、だ。
だって、彼は——彼には彼の生活があって、私への週三回のお見舞いはその一環でしかなくて、でも私にとっては、そうではないのだから。彼と一緒にいる時間が、私の生活のすべてなのだから。
最初はよかった。来てくれるだけで嬉しかった。顔を見ると安心した。話を聞くのが楽しかった。学校のこと、勉強のこと。一緒にゲームをしたり、リンゴを剥いてくれたり、そのすべてで私の入院生活は華やかなものに感じられた。
いつからだろう? 私がりょうくんの来訪を、心から喜べなくなったのは。いつからだろう? 彼が帰った後は、彼が来ない日よりもずっとずっと気分が沈むことに気付いたのは。いつからだろう? ーー歩けない自分に、引け目を感じ始めたのは。
彼が駆け込んで来る月曜日の夕方。彼が来ない火曜日。彼が来ない水曜日。彼がお菓子や果物を持ってくる木曜日の日暮れ。彼が来ない金曜日。彼が一日中いてくれる土曜日。彼が来ない日曜日。その繰り返し。ずっと。今までも。これからも、だろうか。
わかっている。私はたぶん日を追うごとに痩せていき、彼は日を追うごとに逞しくなっていく。私は日を追うごとに彼の来訪を疎ましく感じ、彼は日を追うごとに機嫌の悪くなる私に手を焼き始める。日を追うごとに、私たちは、駄目になっていくんだ。
なんとかしなきゃ。ずっと思っていた。解決策はわかっていた。一年くらい前からずっと考えていた。なかなか勇気が出なかったけれど、いつかはやらなくちゃいけない。私がこれ以上やせ細ってしまわない内に。彼がこれ以上、私に愛想を尽かさない内に。
その日、私は決心した。期日は今から二週間後。彼が屋上に連れて行ってくれる、土曜日。晴れたら、やろう。
そして、二週間後。
彼がお見舞いに来た。私はいつものように「外の空気が吸いたい」と言った。彼もいつものように頷き、私の車椅子を押し、車輪を階段に一段ずつ乗せ、屋上へと連れて行ってくれた。
幸運なことに、空は晴れていた。幸運なことに、初冬の刺すような空気と暖かい太陽の光、干されたシーツがそこにあった。幸運なことに、看護婦さんはいなかった。すべてが私を祝福してくれているようだった。
しばらく外の空気を吸った後、私は車椅子の車輪を自分の手で回し、進んだ。屋上の縁、手摺りの方へと。彼は疑っていなかった。たまにそうして階下を見下ろすのが私の習慣だったから。
もちろん彼は、私がいつもそうしていたことの真意を知らない。私は想像していたのだ。地面と屋上との距離を。それは、だいたい同じに見えた。
……私がかつて落下し、下半身を麻痺させた、アパートのベランダと。
私は地面を指さし、言った。「りょうくん、あれなに?」彼はこっちへ来て手摺りから身を乗り出す。「ん、どれ?」「あれだよ。そこの……」「どれかな」彼は私の曖昧な指示に首を傾げながらどんどん身を乗り出していった。足を屋上の床から離す。
子供の頃の公園を思い出した。鉄棒。彼の前転を私が手伝う。足を持ち上げて勢いをつける。彼はぐるんと回転する。私は懐かしさとともに、それと、同じことを、した。
彼は、回らなかった。だってここは屋上で、手摺りは鉄棒なんかではなかったのだから。彼は悲鳴をあげる。車椅子から身を乗り出した私の視界から、消えた。
階下の地面から、どさり、と音がした。私は初冬の冷たい息を吸った。シーツの向こう、階段へと叫んだ。「いやあ、誰か来てええええ!」
落下する彼に合わせて窓の外を見ていた入院客がいた。悲鳴を聞きつけた看護婦さんが屋上へ駆け上がってきた。私は狼狽えながら説明する。——「りょうくんが手摺りで遊んでいて手を滑らせた」というようなことを、しどろもどろに。
病院は大騒ぎになった。彼の両親が呼ばれた。手術室のランプが点いた。私は大泣きした。彼の両親の前でごめんなさい、ごめんなさい、と。おじさんとおばさんは私を抱きしめた。リコちゃんのせいじゃないのよ、と。でも、本当は私のせいだった。
ただし、嘘泣きではない。私は本当に怖かったのだ。もし彼が死んでしまったらどうしよう。そうならないことを祈った。大丈夫、私の計算ではそうならないはずだ。病院の高さは私がかつて落下したアパートのベランダと同じくらいだ。
だったら、彼も。
彼も私と、同じになるはずだ。両足を麻痺させて、歩けなくなるはずだ。車椅子になって、入院して、私とおんなじになるはずだ。彼はお見舞いから帰らなくなる。私は寂しくない。引け目も感じない。彼だって私に苛立たずに済むようになる——それが、私の目的だった。
いつしか私は泣き疲れて、祈り疲れて、寝てしまう。そして起きた時にはもう、彼の手術は終わっていた。
目を覚まし、上半身をがばりと起こす。横に看護婦さんがいた。
「リコちゃん……」私は尋く。なによりも早く。「りょうくんは?」
「あの、リコちゃん……」「りょうくんは!?」私に気圧されたように看護婦さんはたじろぐ。そしてゆっくりと、慎重に、話し始めた。
「落ち着いて聞いてね、リコちゃん。りょうくん、助かったよ。ううん……手術はね、しなかったの。必要なかったの」「それって……」「外傷はかすり傷だったし、内臓にも異常はなかったから」「……え」「……でもね」
その続きを聞き終わると、私は車椅子に乗った。押してくれようとする看護婦さんを睨み付けて制止し、病室がどこかを問いただし、もどかしくドアを開けて部屋を出て行く。五つ隣。二〇六号室。看護婦さんは追ってこなかった。私の頭に、さっきの彼女の言葉が反響していた。
あのね、でもね、リコちゃん。りょうくん、脊髄に大きな損傷を負ったの。手術室に入って、でも、ちょっと手術じゃどうにもならないことがわかって……。ごめんね、リコちゃん。リコちゃんの時とおんなじ、だったんだ。
リコちゃんの時とおんなじ。リコちゃんの時とおんなじ——だったら。私は歓喜していた。「だったら……」私は、成功したんだ!
私は歓喜して、二〇六号室のドアを開けた。それでも喜びを隠しながら、叫んだ。「りょうくん!」彼の両親がこっちを向いた。それを無視して、ベッドに寝ている彼に注視する。彼は目を覚ましていた。頭はこっちを向いていた。そして、彼は言った。
「いお、あん」呂律の回らない、左半分が奇妙に歪んだ顔で。たぶん、私の名を、呼んだ。
私の思考が、止まった。
彼の両親が言った。苦しげに、血を吐くように。「脊髄が……傷付いたんですって」「……半身不随だそうだ」「ごめんね、リコちゃん」そこで彼らは泣き出した。私は意味がわからない。半身不随? でも、だって。だったら……私と同じになるはずなのに。
違う。違う? 違った。
下半身じゃなくて、左半身。彼の顔は歪んでいる。悲しそうな右目と、焦点も定まらなければ感情も読み取れない左目が、私を見ていた。
私は急に怖くなった。醜くなり果てた彼の顔を反射的に気持ち悪いと思い、そんな嫌悪感を覚えてしまった自分がたまらなく汚らしいものに感じた。自分のしたことがどういうことなのかを一瞬で理解した。熱が冷めるようだった。全身が震えていた。——麻痺して動かない足を、除いて。
「 」彼の父親がなにかを言っている。「 、 」彼の母親が泣きながらこっちに歩んできた。私を責めるような顔ではなかったように思う。私は呆然としたまま、唇をわななかせ、ゆっくりと首を振り、呟く。「……厭」
車椅子を反転させる。背中にりょうくんの視線。耐えられなかった。自分でも気付かない内に泣きじゃくっていた。それでも必死で車椅子の車輪を回す。後悔だか罪悪感だかよくわからないものが、両手を動かしていた。たまらなかった。私は、病室を出た。……死のう、と、思った。
死のう。死んだ方がいい。りょうくんが私と同じになればいいのにと、そんな考えを持ってしまった私なんかもう厭だ。思い通りにならなかった現実なんてもう厭だ。耐えられない。耐えたくない。だから死のう。死んで、罪を償おう。死のう——。
外はもう夜になっていた。病院の蛍光灯だけが私を照らしていた。私はりょうくんと同じ目に合おうと思った。屋上から飛び降りて、死んでしまおうとした。廊下を進み、そして階段へと辿り着く。
屋上へ行こうと、車椅子を押す。がたり。車輪が階段にぶつかった。あれ、おかしいな? もう一度。がたり。おかしい。どうしてだろう。どうして上れないんだろう。いつもは上れるのに。今日はまだ土曜日、いつも屋上へ行っている日なのに。がたり。がたり。がたり。がたり。がたり。がたり。何度も何度も試して、ようやく気付く。「あ、そっか」
「りょうくんがいないから、のぼれないんだ」
ひとりじゃ、階段は上れない。りょうくんに押してもらえないと、上れない。でも、りょうくんはもう、車椅子を押せない。二度と、押せない。がたり。がたり。がたり。何度やってもやっぱり駄目。駄目。死ねない。空は遠い。
※ ※ ※
そろそろ零時、日曜日。もう次の月曜日は来ないのに、放課後の彼は病室に駆け込んできてくれないのに。それを確かめるように、私は階段へと車輪をぶつけ続けた。先に進めない私。最初から先に進めなかった私。後戻りはもう、許されない私。
がたり、がたり、がたり。もう涙は出なかった。私は笑った。小さく、さっきのりょうくんの顔みたいに唇を歪めて笑った。
階段の先ではなく、床を見詰めながら。
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