雲と白、青の世界

タツロ

第1話「蝉時雨」

 蝉時雨はたいへん幻想的で、インイン、ジイヨジイヨ、うずまくそばから生と死の境い目をもその音で削ぎ落していくようである。青々とした植物を草葉の陰に変え、入道雲をうらんと手招きする坊主に見せる。春が生き急ぐ季節なら夏は死に急ぐ季節だ。


 少年は空といふ字がきらいだ。肉といふ字に似ていて気味が悪いし、かんむりが窮屈だ。かたちがないのにことばにしようとしたのが間違いなのだ。しかし窓から落ちる風の影は見えないものにもかたちがあることをつたえ、ことばにしたから得ることの出来たかたちが目の前にあった。

 みやは美しい少女だった。反射する光が青く見えるほどの黒髪と、唇は陶器に紅を塗ったやうにつやつやしていて、張りつめた皮にためらいなく剃刀でを線を引いて開いた穴に目玉を滑らせ、しつとりとした睫毛が大人びた印象を与える。

 風になぜられるカーテンに目をやり「今日はまだ涼しいね」

「夏は朝がいっとう好きなの。この話、ゆきにはしたことがあったかしら」

「いいえ、ありません」

 少年ゆきが答えるとみやは笑った。美しい。真白いセーラー服が鶴の花嫁衣装のようだ。

「林檎があるわ。一緒に食べましょう」

 ゆきは寝台から体を起こし、林檎の皮を剥くみやと目線を合わせた。いまだこの少女と自分が交際をしていることが信じられなかった。不細工で、貧相で、教養もなく、ついには病がちになり、両親が見舞いに来ることもなくなった。もしもの次男坊がこれでは意味がない。ゆきはすっかり用済みになったのだ。劣等感のかたまりになり下がった自分がどうしてこんな葵も振り向くまばゆい少女に恋なんぞをしてしまい、それを告白してしまったのか、そしてどうして彼女が受け入れてくれたのか不思議でならなかった。


 ああ、不思議で、とても、とても嬉しかったのだ。僕の恋人。いのちは死ぬために生きるが、生きるために生まれてきたというに、死すら興味を持たれなくなった僕を看取ってくれる、最後の愛する人。静かなサナトリウム。みやがいれば穏やかな死を迎えられる。彼女が死神であったとすれば願ってもない話である。ゆきはこの数カ月、心から彼女を愛し、他愛もない会話をして過ごしてきた。

 あっとみやがちいさな声をあげた。果物ナイフですこし指を切ってしまったようだった。ゆきは大丈夫かいと手をのばした。人差し指から血が滲み出る。その血さえ甘く芳しいチョコレイトウのかおりがしそうだと思った。みやは心配ないわと言い、ゆきの手が触れることはなかった。触れられるはずがない。死んでいるのだから。みやは先月に病で死んだ。ここにいるのは、少年の恋心で繋ぎとめられた少女の魂なのだ。

 幽霊といふものは、死者に未練があって、この世を去れずにさまよう魂のことだと少年も思っていたが、違ったのだ。死を認められない生者に、この世に縛られた魂のことだったのだ。登校前に現れ、下校の時間に再び訪れ、夜にどこかへ帰ってゆく。みやのいのちは自分の死に気付いていない。


 少年と少女は、ゆきとみやは、蝉時雨に削ぎ落されたこの一室で穏やかな日々をただただ過ごしている。

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