催眠クリニック 

「あの…… 記憶、消して欲しいんですけど……」

 

 ――ではそちらにお掛けになってお待ちください

 

 私はメモリー。ここの主治医です。

 当病院に来る患者様は誰しも大きなトラウマを抱えています。

 

 

 

 

  『催眠クリニック』

 

 

 

 

 ――消したい記憶はいつ頃のものですか?

 

「小学校の頃です」

 

 ――どのような内容かお伺いしてもよろしいですか?

 

「その……」

 

 ――話しづらいのでしたら構いません。このまま始めましょう

 

 消したいほどのトラウマは皆様なかなか口にできません。

 大抵はそのまま催眠療法にとりかかります。

 ソファーに横になっていただき、ライターの炎を見つめていただきます。

 やがて私の合図と共に浅い眠りに落ちます。

 

 

 ――子供の頃の一番嫌な思い出を教えてください

 

「……私は…… 苛められている……」

 

「あの目… あの口調… あの手… あの足… どれも怖い……」

 

 ――ひとつだけ忘れられるとしたらその事が良いですか?

 

「……私を、助けてくれた……」

 

「けれど……彼女は私の代わりに苛められている……」

 

「私は……怖くて……」

 

「苛める側に混ざっている……」

 

「ごめんなさい… ごめんなさい… ごめんなさい……」

 

 ――その事を忘れたいですか?

 

「……はい」

 

 

「――先生、ありがとうございました。なんだか胸のわだかまりが取れた気がします」

 

 退院時の患者様の表情は一様に明るいです。

 人生において大切なのは自分に自信を持つことです。

 大きな負い目を取り除くことで胸を張って生活に戻れます。

 そんな姿を見るのが私の喜びです。

 

 

 

「すみません。記憶を……」

 

 ――ではそちらにお掛けになってお待ちください

 

 この日来院された男性は、これまでにない特別な患者様でした。

 

 ――消したい記憶はいつ頃のものですか?

 

「今日までの嫌な記憶を全てです」

 

 ――それはできません。当病院のルールで『消す記憶はひとつだけ』となっております

 

「お金はいくらでも払います。お願いします」

 

 ――金額の問題ではありません。これは決まりなのです

 

「私の人生は耐え難いことに満ちていました」


「何度も何度も自殺を図り、何度も何度も失敗してきました」


「私にとって過去を振り返るということは地獄を覗くのと同じことです」

 

 ――どなたにも必ず良い思い出があります。当病院では最も辛い思い出をひとつだけ消すことをお奨めしています

 

「昨日母が死にました」

 

「地獄のような日々をずっと温かく支えてくれた母でした」

 

「私にとって良い思い出は母の笑顔だけです」

 

「ですから……それ以外の嫌な記憶は全て忘れさせてください。そうでないと心の支えを失ったいま、私は生きていけません」

 

「もし叶えてくれないのなら……帰りに、電車に飛び込みます」

 

 ――……わかりました。ではそのまま横になってください

 

「ありがとうございます……」

 

 そして長時間にわたる施術を終えました。

 目覚めた時、私は彼に訊きました。

 

 ――どうですか? 何か辛い思い出はありますか?

 

「いいえ。ほとんど思い出せる事はありません」

 

 ――良かったですね。では受付でお支払いになってお帰りください。貴方に良い未来がありますように

 

「先生……消したのは嫌な思い出だけですよね?」

 

 ――ええ、もちろんです

 

「……ならどうして、母の笑顔が思い出せないのですか?」

 

 ――え……?

 

「どんなに思い出そうとしても母の顔が浮かばないんです……」

 

 彼にとって母の笑顔が輝いていたのは傷みを癒してくれたからだったのです。

 その傷が消えた時、彼の中にあった唯一の良い思い出は色を失ってしまったのでした。

 退院時の患者様の顔が来院時よりも生気を失っていたのは初めてでした。


 その帰りに彼は電車に飛び込んでしまいました……

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

「……つまり、その日の記憶を消したいのですね?」

 

 はい、この失敗を忘れさせてください。

 そうでないと私はこの仕事を続けていけません……

 

「分かりました。同業者としてお気持ちはよく解ります。貴方に良い未来があることを祈ります」

 

「one two three ……」

 

 

 

 

 

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