ぴんぽん
ぴんぽーん
少年は猛ダッシュで逃げた。
ガチャっとドアが開いて、おばあさんが怒鳴った。
「待ちんさい!」
その声を背中に聴きながら、少年は曲がり角まで止まらずに逃げた。
ぴんぽーん
次の日も。
ぴんぽーん
また次の日も。
少年は毎日チャイムを押した。
学校帰り。
黒いランドセルを背負って。
おばあさんの「待ちんさい」がいつも飛んでくる。
少年はいつも全力で逃げた。
“ぴんぽーん”と「待ちんさい」はセットだ。
呼び出せばいつだって呼びとめてくれる。
風の強い日も雨の日も。
日差しが暑い日もセミがうるさい日も。
鈴虫が鳴く日も木枯らしの日も。
夕焼けが真っ赤な日も雪で白く染まる日も。
一日一回。
涼やかなチャイムの音とおばあさんの怒鳴り声が響いた。
いつになっても少年はおばあさんの顔を知らなかった。
絶対に逃げ足は止めなかったし、おばあさんも玄関から先には出てこなかったから。
でもたった一度だけ。
いつものように猛ダッシュしたら、脇道から飛び出してきた車に轢かれそうになった。
キィ!ってブレーキ音が響いた。
少年はぶつからなかったけれど、驚いて尻もちをついていた。
どきどきしながら振り向くと、おばあさんが血相を変えながら初めて玄関を飛び出していた。
少年は慌てて立ち上がると、車の人にも謝らずに全力で逃げた。
次の日からも毎日、“ぴんぽーん”と「待ちんさい」はちゃんと続いた。
そしてまた、暖かくて風の強い季節が過ぎて、暑くてセミのうるさい季節が訪れた。
ある日の学校帰り、今日もいつものように身構えてチャイムを押しこんだ。
ぴんぽーん
すぐに全力で走り出す。
だいたいあの電柱を過ぎるあたりで「待ちんさい」。
だけど今日は、通り過ぎてしばらく走っても聴こえてこなかった。
少年は足を止めると、息を弾ませながら振り返った。
玄関のドアは開いていない。
おばあさんは出てきていない。
恐る恐る戻って、もう一度チャイムを押しこんだ。
ぴんぽーん……
学校帰り、おばあさんの家にさしかかる。
塀には白と黒の布がはりつけられていた。
小さな門にちょうちんがぶら下がっていて表札と同じ字が書かれている。
押し慣れたチャイムがなぜかとても遠くに見えて、少年はぼんやり立っていた。
すると、黒い服の女の人が気づいて近寄ってきた。
「ボク、もしかして昨日ご近所に知らせてくれた子?」
少年はおどおどしながら頷く。
女の人は目の前にしゃがむとにっこり微笑んだ。
「ありがとうね。キミのおかげで、最後に少しだけ母に逢えたの」
それはなんだか悲しそうな笑顔だった。
少しだけ待っていてくれる?そう言って女の人は家に入った。
戻ってきたとき、手にチョコレート菓子とサイダーを持っていた。
ちょっとだけお話していいかな?女の人はそれを差し出しながら言う。
少年は受け取ると、食べずに両腕で抱えた。
「母はね、三年前にお父さんを亡くしてから、ずっと一人でこの家に住んでたんだ。最初のうちは私達もよく遊びに来てたんだけどね、最近は全然来れていなかったの。きっと寂しかったと思うなぁ……電話でも、お客さんなんて来ないし…って言ってたし」
少年は何も言わないけれど、じっと女の人を見つめていた。
女の人はそっと見つめ返して、言葉を続けた。
「でもある日の電話でね、最近いたずらをする子がいるんだって言っていたの。毎日学校帰りにチャイムを鳴らして逃げていく男の子」
少年がドキッとした顔で身をすくめる。
女の人はくすっと笑って首を振った。
「最初はね、腹が立ったんだって。ひとりぼっちの老人をからかって喜んでいる悪ガキー!ってね。でもね、いつしかチャイムの音を待っている自分に気づいたらしいの、“そろそろかな?”って。そんなある日ね、いつものように逃げていくその子が車に轢かれそうになって、心臓が止まるかと思ったんだって。そしたら、自分がその男の子のことをどう想っているかちゃんと分かったらしいの」
あれが最後の電話になっちゃった、そう言って女の人は少しだけ顔を伏せて、ハンカチを使った。
「……母はずっと寂しかったけれど、最後はひとりぼっちじゃなかったと思うわ」
少し湿った黒目が少年の腕の中に落ちる。
「あの人はお茶とお饅頭が好きだったの。だから、そのジュースとお菓子はたぶん、キミのために買っておいたんだよ。いつかきっと、キミをお客さんとして家にあげたかったんじゃないかな…… その時のとっておきだったんだと思うわ」
少年は自分でもよく分からなかった。
よく分からないまま、チョコレート菓子とサイダーをぎゅうっと抱きしめていた。
女の人が優しく頭を抱いてくれる。
耳元で「ありがとう」って言っていた。
学校帰り、いつものように小さな一軒家の前にさしかかる。
もう誰も住まないし、近いうちに取り壊されてしまうと思うってあの人が教えてくれた。
少年は細い人差し指をチャイムに伸ばす。
-ぴんぽーん-
そして追いかけてくる「待ちんさい」。
おばあさんのことを思い出そうとすると、あの怒鳴り声と、一度だけ見た取り乱した顔しか知らないことに気づいた。
それがちょっと可笑しくて、少年は小さく笑った。とってもとっても久しぶりに。
止まる指先。チャイムまであと少し。
そのままゆっくりと手を下ろすと、ランドセルの肩かけをきゅっと握って前を向く。
溢れるセミの鳴き声と、真夏の強い日差し。
ずっと走り抜けていたこの焼けた道を、今日は一歩一歩大切に歩いた。
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