アリス・コンプレックス・ライブ

@kaikuraku

最終話 アリス・コンプレックス・ライブ(完)

 地べたに額をこすりつけ、ぼくは土下座をする。

みっともなく嗚咽を漏らし、泣きながら、心の底から謝罪し続ける。

「ごめん、ごめんよ、うぇっ、うええ、ごめん、ごめんよぅ……。うっ、げほっ、ごめん、ごめん、ごめん」

 額と手のひらに土がつくことなど構うものか。

 ぼくは、彼女にとてもひどいことをしたのだから。

「いいのよ。アンタは、そうしたいと願ったから、そうあるべきだと思ったから、そうしただけのこと。だから、アタシはアンタを許してあげる」

そう言って、彼女はうすく微笑んだ。

その微笑を見ると、ぼくはたまらなく胸が痛くなる。

 涙と鼻水で、きたならしくなったぼくの顔を、彼女はハンカチで柔らかく拭いてくれた。そうして、彼女はぼくの肩を抱いて、背中を軽くたたいてくれる。

「大丈夫よ、だいじょうぶ」

優しいありすちゃん。

ぼくは、きみを救えない。

ありすちゃんは十二歳の女の子だ。干支は午年。ぼくとおなじ。琥珀色の髪と、翡翠のような瞳が愛らしい。彼女のファッションは、いまどきの流行に詳しくないぼくには、少し刺激的だけどかわいい、という感想が先に立つ。最近流行りの春向けファッションに見を包んでいるが、今は冬だ。申し訳程度にピンク色のブルゾンを腕にかけているけれど、防寒着というよりはおしゃれの一種なのだろう。彼女のブルゾンは彼女を寒さからも守ってはくれないようだ。

彼女のファッションを見ていると、自分の服装が恥ずかしくなってくるくらいだった。なにせ、ぼくときたら白いボタンダウンのシャツにジーンズ、サンダルというとてもいい加減な恰好。しかも、どれもよれよれだ。

「そうだ。昨日、街頭テレビで素敵なアイドルが踊っているのを見たのよ。それで、その振り付けを覚えてみたのだけれど、見たい?」

「うん、興味あるな」

「じゃあ、昨日見た踊りと、アタシの歌を披露するわね」

ありすちゃんはすぅ、と息を吸って、はぁ、と吐く。

それは彼女が歌う前にいつもする、準備運動のようなものだ。

それから始まるのは、シークレットライブコンサート。

小さな公園での公演。観客はぼくひとり。

準備はないので、コールもサイリウムもなしだ。

 ありすちゃんがステップを踏む。踊りだした彼女は、遠い国の言葉で歌を紡ぎだす。聞くものの心を揺さぶるようなその旋律に、ぼくの心も踊りだす。どきどきする。

 愛らしいしぐさを要所で挟みつつ、歌と踊りは最高の盛り上がりを見せる。ステップ、ターン。そしてポーズ。

ありすちゃんはかわいいと、ぼくは思う。

微笑ではなく、底抜けに明るい笑顔を見せて欲しい、という小さな願い。

でもそれはきっと、今のままでは叶わないんだ。

ありすちゃんの故郷は、とても遠いところにある。彼女は帰るつもりはないようだし、簡単には帰ることができない。

 ありすちゃんの歌に聞き惚れ、踊りに見とれているうちに、空の色が変わっていた。青空でも、曇り空でも、夕焼け空でも、夜空でもない、薄い灰色に。

 ぼくは嘆くように悲しむように、息を吐く。

「それじゃあ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

「止めないんだね」

「それが、アンタのしたいことで、するべきことでしょ」

「うん」

 ありすちゃんと穏やかな微笑を交し合って、ぼくは頭の上に手を伸ばして、何もないように見える空間から、黒いとんがり帽子とほうきを取り出した。

 これは薄い灰色の空の下でしかできないこと。

 この空の下で、ぼくがやらなければならないこと。

 ほうきにまたがって、とんがり帽子の位置を直して、ぼくは空へと浮かび上がる。ありすちゃんはその様子を泣きそうな、それでも愛らしい微笑みで見送った。

 風を切って、空を疾駆する。ぼくのほうきの通る軌跡は、まるで流星のような光の尾を残している。もうちょっとマシな恰好をしたまほうつかいならばよかったんだけれど、残念ながらぼくはただの二十四歳の大学生だ。よれたシャツとジーンズとサンダルがチャームポイント。

まったくチャームできる要素じゃないけれどね。

今回のぼくの目的地は、近所の神社へ至る長い階段の途中だった。そこに、デフォルメされた真っ黒い人型がたくさん現れていて、周囲の木、境内の中ではないから御神木ではないのだろうけれど、長い樹齢を経ているであろうそれらを破壊している。

それらの名前は、クラヤミ。ぼくが名づけた。

それらは薄い灰色の空の下でだけ活動している。

空から飛来するぼくに気づいたのか、小さなクラヤミが群れを成してぼくに襲いかかってくる。そこらに転がっている小石の影を拾って、投げつけてくる。

でも僕はそんなものは気にしない。ほうきで空を飛んでいれば、当たりやしないし、当たったところで、すごく痛いだけで済む。この先にいる誰かの痛みに比べたら、大した問題じゃあ、ない。

小さなクラヤミを蹴散らして、一番大きなクラヤミに接近。それまでにかすり傷をたくさん負ったようだけれど、どうせ後で治るとわかっているから、多少の無茶は気にならない。クラヤミを放置すると、世界がほろんでしまうから、それと比べたら小さなことだ。

そうして一番大きなクラヤミの影に、泣いている男の子を見つけた。僕は彼に用がある。

「やぁ。君はどうして泣いているの?」

「来年はもう受験だというのに学校内でやった模試で、数学だけ一番になれなかったんだ」

「具体的には、何位だったの?」

「七番。学校で七番目だよ。僕は僕が許せない」

「そっか。つらかったね」

「両親も先生もわかってくれない。もっとがんばれとか、逆に、十分がんばっているよ、としか言ってくれない」

「きみはどうしたいんだい?」

「わからない。もう十分な気もしているけれど、志望校に落ちたら、と思うと不安で押しつぶされそうになる。だから、もっともっとがんばるしかない」

「そうしなければいけない理由はあるの?」

「きっと無い。でも怖くてたまらないから、がんばるしかない」

しゃくりあげる男の子の影の顔をティッシュで拭いた。

「だから、全部壊してしまおうと思うんだね」

「本当は壊したくなんかない。この神社は、昔から僕が悩んでいる時に来る場所なんだ。僕の、居場所なんだ」

「そこに、きみのクラヤミがあるんだね」

そう言って僕は、彼の影にそっと触れる。そうすると、彼の心に住むクラヤミが、姿を見せる。クラヤミは鎖の形をしていて、影の男の子をがんじがらめにしていた。

ぼくがそれにそっと触れると、クラヤミはふるふる震えて、少年の右腕にゆっくりと集まって巻きついた。

鎖は、地面に打ち込むで安定を得ることができる。

不安の鎖もまた同じ。

クラヤミは誰の心にもあるものだから。

灰色の空の下では、クラヤミは過剰に人の心に作用してしまう。そのままエスカレートしていくと、こうして世界を壊してしまおうという気持ちになっていく。

ぼくらは、いつだって世界をほろぼすことができる。

「ねえ、きみ。ぼくがきみを許してあげる。だからもう、泣くことはないんだ。泣かなくていいんだよ。自分を罰さないでいいんだよ。それで、きみはどうしたい?」

男の子の影は涙を袖で拭って、クラヤミの鎖に触れる。

「七位で悔しいから、もっと勉強する。でも、他の科目では一位をとれたし、苦手な数学でも学年七位。そんな自分をちょっといい感じだと思う」

「実際、すごいことだと思うよ。ぼくは学校ではいつも十番くらいだったから」

「そうかな」

「そうだよ。さぁ、笑顔になろう。いい感じな自分を見つけたら、きっと素敵なそれを作れるはずさ」

「こうかい?」

 男の子は口角を上げて、目を細める。こうしてみると、なかなかの美少年だった。

 ぼくの身体は右足がもげて、左足がぐにゃぐにゃになって、おなかには大きな穴があいている。

 それでもぼくは生きている。

クラヤミは、世界をほろぼす力がある。

単純な破壊行動だけではなく、そのクラヤミの鎖を、悪意を伝染させることができるから。そうして伝染した悪意は、いつかこの世を覆い尽くして、がんじがらめにしてしまう。誰もが小さくて大きな悩みに押しつぶされて、何かに追われるように生きるようになる。

それは、あまりいい感じではないとぼくは思う。

だからぼくは、クラヤミが現れると、その影になってしまった本当の誰かの悩みを聞いて、そのひとのクラヤミを見つけて、その人の力にしてしまう。

ぼくはまほうつかいで、がんじがらめにこんがらがったクラヤミを、それなりにいい感じにすることができる。

他にこれができる人は、見たことがない。だからこれは、

ぼくにしかできない仕事だと思っている。

 ぼくは世界を守る。見たことのなかった誰かの笑顔を守る。そんな役目を、いい感じだと思っている。

 薄い灰色になった世界が元に戻っていく。

 破壊されたものが元通りになっていく。

 さぁ、あの公園に帰ろう。


そうして僕は、額を地面にこすりつけて、土下座する。

相手はいつも通り、ありすちゃんだ。

穏やかな微笑をもって、彼女はぼくを迎えてくれた。

「お疲れ様」

「ごめん、ごめん、ごめんよぅ。うぐっ、げほ、ごめんなさい、ごめん、ごめん、ごめん……」

「いいのよ」

 そう言って、ありすちゃんはぼくの肩を抱いて、穏やかに微笑む。でも、それは心の底からの笑顔ではない。

 ぼくは世界を守れる。誰かの笑顔は守れるけれど。

一番大切な笑顔は守れない。

だって、ありすちゃんはクラヤミで世界をほろぼさなければならないから。

ありすちゃんは、遠い場所からやってきた。

彼女は、ぼくらの世界をほろぼしにやってきた。

ありすちゃんが歌うと、どこかで誰かのがんじがらめになったクラヤミが暴れだす。ぼくにとって美しく心躍らせる歌は、誰かのクラヤミに作用して、がんじがらめになったクラヤミを活性化させる。

それを放っておくと、世界はほろぶ。

ぼくはコンビニのアンパンを明日ありすちゃんと一緒に食べたいから、世界を守る。

ぼくはぼくの願いのまま生きている。

ありすちゃんは彼女の使命のために生きている。

ぼくの願いと彼女の使命は、競合する。

だから僕は彼女に泣いて許しを乞う。

彼女には時間があまり残されていないことを、ぼくたちはわかっている。だから僕は彼女に謝らなければならない。彼女の使命を、ぼくの勝手な願いで壊してしまう。

ありすちゃんは優しい子がから、許してくれる。

いつか、こうやってありすちゃんに肩を抱いてもらえなくなる日が来る。ぼくは、それがたまらなく不安で。

とてもいやだった。

でも、いやだいやだと言っていても、それでも最後の

時はやってくるものだ。

ありすちゃんはとうとう歌うことができなくなった。

あの美しい声を聴くことも、愛らしいダンスを見ることもできなくなった。

誰かのクラヤミを暴れさせる力も、失われてしまった。

だから彼女は自分のクラヤミを暴れさせることにした。

今までにない大きな影が、ぼくたちの街を壊していく。悪意を少しずつ伝染させて、これまでとは比較にならない速度で、緩慢に世界がほろんでいく。

これ以上ないほどの泣き声が、ぼくの耳をたたく。

ぼくが泣かせてしまった、小さな女の子。

ぼくはずっと、彼女を救いたかった。

彼女に微笑んでもらうのは、肩を抱いてもらうのは、背中を軽く叩いてもらうのは、うれしかった。

だけど、ぼくは彼女の、心の底から湧いてくる笑顔を見たかったし、守りたかった。聞き分けの良い子供じゃなくて、無邪気な笑顔を見せてほしかった。

穏やかな、子供を見る母親のような微笑みを向けられるのはとても安らかな気持ちになれるけれど。ぼくは、誰かと誰かがおいしいものをはんぶんこしたときに浮かぶような、満ち足りた笑顔を見たかったんだ。

とおくからひとりぼっちでやってきて、がんばっていた女の子。僕の半分しか生きていない女の子。

クラヤミに囚われた鳥が、獣が。ぼくに襲いかかる。僕はちょっとした自慢のほうきさばきでそれを避ける。

頬をくちばしがかすめたり、爪が足を裂いたりする。

とても痛いけれど、きっと彼女の方が苦しいし、痛みを抱えて生きてきた。たった一人のおひめさま。遠い所から一人ぼっちで、誰にも頼ることができなくて。

「だからぼくは、彼女を救いたいんだ」 

決意を込めて呟く。でもそれは、きっと。

右腕に穴が開いて、左腕は骨が折れたのか関節が逆方向を向いていて、左ひざの皿は割れているようだ。

 そのまま僕は大きなクラヤミに正面から衝突する。

 怖くはない。だって、これは……。

「ありすっ!」

ただの虚勢、張りぼてのクラヤミは、ぱふん、と小さな音を立ててはじけて割れた。

 その中には、泣いている女の子が一人。

 ぼくは彼女に精いっぱい手を伸ばす。

「ありすちゃん。帰ろう」

「どこにも、帰る場所なんてない! パパもママも、アタシにはいない!」

「居場所が、ないんだね」

「うるさい、アンタには、何もわからない!」

その言葉を聞くと、胸が痛くなる。

だってそれは本当のことだから。

いつだってわかったふりで、ぼくはぼくを押し付ける。

誰かを守った、救った、なんていうのは。きっと。

だからだろう。彼女は僕の手を、振り払った。

 それでも。

「ねえ、ありすちゃん」

「なに?」

「ぼくはきみを台無しにしてしまうよ」

「うん」

「きみをただの女の子。小学六年生にするまほうをかけてしまう」

「こわい」

「きみのクラヤミを、きみの力、勇気、知恵、愛情にしてしまう。きみをこの世界に縫いとめてしまう」

「そうすると、どうなるの?」

「きみは遠いところからひとりぼっちでやってきた、最後のクラヤミの支配者ではなくなってしまう。心優しい、ただの女の子にしてしまう。それはきみではないかもしれない」

「でも、あんたはずっとそうしてきたんでしょう?」

「うん。ぼくは誰かの悩みに介入して、勝手なことを言うだけだったよ」

「そう」

「ぼくはぼくの独善を押し付けてきたにすぎない。ぼくの願いを、強引に受け入れさせてきた」

「でも、アタシはアンタを許してあげる」

「ありがとう。これがぼくの最後のまほうになるよ。ぼくはただの大学生になって、きみはただの小学生になる」

「それでも、アタシが救ってきた人のことを、あなたがやってきたことを、覚えている。胸を張りなさいよ。それに、アタシはアンタのことを忘れない」

「ぼくも、絶対にきみのことを忘れない」

ぼくは笑った。彼女は微笑んだ。

そうして、ぼくは華奢で簡単に壊れてしまいそうな彼女を柔らかく抱きしめて、その頭を撫でた。

これでぼくのまほうつかいのお話はおしまい。

そうして季節は過ぎて、春から秋になった。

ぼくはいつもの公園でのんびりの缶コーヒーを飲みながら、泣いている。二人の思い出のつまった、コンビニのアンパンをはんぶんこした公園で泣いている。

謝る相手は、もういない。

今までは僕の肩を抱いてくれる誰かがいた。

彼女の名前はありすちゃん。

とても優しい女の子。

 こつん、と小石を蹴る音がした。

 そちらに振り向くと、琥珀色の髪、ではなく。翡翠の瞳でもなく。長い黒髪を左右に振り分けて結んだ、いわゆるツインテールの女の子が立っていた。その瞳は、まるで何かに挑むような、強い意志を持った黒い瞳だった。

「ひさしぶりね」

「ひさしぶりだね」

「新しい友達ができたわ。習い事のダンス教室でね。明日のお休みに一緒にハイキングに行くの。女子だけで。女子力、高いでしょう?」

「とてもいいことだと思うよ。僕も、就職が決まったよ。うれしくてうれしくて、泣いてしまった」

「いい感じになっているのね」

「うん。いい感じだ。まほうが使えなくても、とってもいい感じだよ」

「あたしも、世界をほろぼせなくても、いい感じよ」

「それじゃあ、笑おうか」

「ええ、そうね。笑いましょう」 

ぼくは笑う。ありすちゃんは笑う。

こんなぼくたちを、ぼくはいい感じだと思っている。

「そうだ、この間のアイドルのダンスの振り付け、全部覚えたのよ」

「へぇ、それは、見てみたいな」

「それじゃあ、アタシがこの世界で生きている証として。この国の言葉、この国の踊りを見せてあげるわね」 

 彼女はすぅ、と息を吸って、はぁ、と吐く。

 ありすちゃんはそうして踊りだす。

 ぼくの心も踊りだす。

 彼女の笑顔は、とても愛らしい。

 ステップ、ポーズ、ターン。

 小さな公園での公演。

 アリス・シークレットライブ。

 彼女の複雑な生は、まだまだ続く。

 生きている限り、ずっと。

                おしまい

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