特別編「鳥の話」

特別編「鳥」




 吉法師は、穏やかな気性の持主であった。

 好戦的でもなく、利のない抗争を避け、過剰に怒り狂うこともない。平淡な水面の如きこどもである。そんな吉法師であったが、一度だけ、この地をも焼き焦がさんばかりに、怒り狂っている

 ある夏めいた日のこと、手負いの野鳥を、吉法師が恩情で助けた。雅な声で夏の始まりを知らせる鳥であったが、その鳥は一声だって鳴きやしない。それでも、吉法師は文句の一つも言わず、その野鳥を開放し、餌を与えていたのである。

 しかし、それを知った、吉法師の実の弟・勘十郎が、ある日、その鳥を籠から取り出し、格子窓の外へと投げ捨ててしまったのだった。

 理由は、襤褸の弊履よりも軽薄なものである。勘十郎が鳴けと命じても、鳥が鳴かなかった。たったそれだけのことなのだった。大雨の日に外へと投げ捨てられた手負いの鳥は、飛ぶこともできぬ。飛べぬのだから餌もとれぬ。

 鳥がいなくなったことに気が付いた吉法師が、鳥を探しているその数日の間に、寒さと飢えで、鳥が死んだことは言うまでもない。

 吉法師が、弟のしでかしたことだと気が付くのは、

「あんなもの、兄上が棄ててしまいました」

 妹のお市の口から、それが語られた時のこと。

 お市は、嫡男である吉法師を「兄上」とは呼ばず、「あれ」と呼ぶ。母が、そうだからである。お市が「兄上」と呼ぶのは、勘十郎ただひとりなのだ。

 勘十郎が、身勝手で鳥を捨てた───。

 吉法師がそう気づくのに、時間はかからない。その時ばかりは、吉法師は怒りを抑えることなく、母の目が離れた隙を狙って勘十郎を殴った。

 父に似た六角顔に小柄の勘十郎と違い、吉法師はすらりと高いなよ竹の如き痩躯だった。いかに痩せていようと、元服も済んでいない子どもであろうと、吉法師には少なからず、腕力があった。

「何用ですか、兄上」

 息を切らし、勘十郎のもとへ現れた吉法師に、勘十郎はそう、品行方正な言葉を放った。しかし、その眼の奥では、勘十郎から吉法師への嘲笑の色が浮かんでいる。何があろうと、母が助けてくれる。吉法師如きに臆することはない。吉法師と違い、母に守られ、愛されて育った勘十郎は、そう確信していたらしい。吉法師の険しい形相を目の前にしても、まるで、鼻先で嘲笑うような態度をとった。

 しかし、その刹那、勘十郎のいびつな微笑みに、鉄拳が食い込むことになる。

 部屋に籠り、外へ出るのを嫌った勘十郎と、毎日のように野山を駆けまわり、百姓町民の子らと狩りをして帰ってくる吉法師では、力の差がありすぎる。それは子供同士の兄弟喧嘩というよりも、吉法師の一方的な攻撃であった。

 これまでどのような意地悪を受けても、大人しくしていた吉法師が、これほどまでに苛烈な暴力に出た。その事実への狼狽と、あまりの痛みへの恐怖が、幼くも悪賢い勘十郎の思考力を鈍らせる。

「助けてーっ!」

 勘十郎の悲鳴は、清州の城の本丸中に響き渡った。

 無論、愛息子の声が、母である土田御前の耳に入らぬ訳はない。

 他の家臣や下女たちを引き連れたは母が飛んできた頃には、すでに、互いに傷だらけであった。勘十郎が必死にもがき、突き立てられた爪が、吉法師の肌を傷つけている。髪を引っ張られ、その艶めく黒髪も、いくらか抜け落ちていた。しかしそれ以上に、勘十郎は痛々しい。そこかしこに血が飛んで、勘十郎の顔には無数の痣がある。

 鮮烈な光景であった。

 真っ先に母が飛び出し、吉法師を突き飛ばした。

「勘十郎に何をするか!」

 母はそう叫ぶ。甲高い怒鳴り声であった。

 すぐさま下女に命じて勘十郎を吉法師から離させ、血眼になった母は、鴨居に飾られていた茶器をとっさに手に取ると、

「この、けだものめ!」

 と、投げた。

 大人の男の、拳一つ分はある茶器が、宙を舞う。それは浅い弧を描くや、まるで流星のように、吉法師めがけて飛来する。

 陶器の割れる音がした。


 *


 弥生の半ばに差し掛かり、大気も徐々に春めいてきた。

 春の香りが夕暮れに溶ける。美濃の山中でそこらの木々が、花を咲かせるために蕾を膨らませ、春爛漫を待ち構えている。

「ひゅっ、ひゅう、ひゅう」

 夕立が不意に、口笛を吹いた。

 切り株に腰を増えて休んでいた信長にも、それは聞こえている。

「どうした」

 口数の少ない傾向にある夕立が、口笛を吹くなど、珍しいこともあるものだ。そこらの子どもの口笛なら気にも留めない信長であったが、夕立の場合、それが不思議と物珍しく感じられる。

「鳥さんを呼んでいるです」

 夕立は山中の獣道に沿って、歪に生えている木の枝を見上げて、また、

「ひゅっひゅ、ひゅう」

 と、口笛を吹いて見せた。

 鳥の鳴き真似をして、意思の疎通でも図っているらしい。

(餓鬼か)

 否、夕立は年端もいかぬ小娘に違いはないが、ちと、その様は年相応でない。幼稚に見える。

 夕立の視線を追ってみれば、馬酔木の花が実る豊かな枝に、丸々と太った鶯がとまっていた。夕立はあの鶯を狙っているらしい。

 が、

(鶯の鳴き方か?)

 夕立の声真似に、信長は一抹の、違和感を覚える。

 鶯は声を長く発し、最後に短く切る。「ほうほけきょ」と、鳴く。

 夕立が口笛で真似ている鳴き声は単調で、一つ一つが短い。

「ひょっ、ひょっ、ひょっ」である。

そのようにして鳴く鳥は、杜鵑である。杜鵑は春より少し時のたった夏の初めにやってくる。まだ杜鵑が鳴くには早い。

鶯と杜鵑の区別が、夕立にはついていないのであろう。

「お夕よ、それは……」

 違う鳥の鳴き方ではないか? 

 そう教えてやろうとした信長よりも早く、夕立が目先の太枝に手をかけ、一歩、踏み出した。逞しく地に根を張る馬酔木の幹に足を掛け、空いた片手で、草餅のような丸い鶯を、きゅう──と、掴んだ。

「捕まえました」

 夕立が声高に言うや、木から降り、両手で鶯を包む。

 その顔には、表情が薄いながらに、笑みが灯っている。

「嬉しそうだな」

 このような小鳥一羽で一喜一憂できるのは、やはり、幼さゆえか。

 信長も幼少期こそ、町の子らと狩りに出ては、雉を捕えてよく食べた。しかし、鶯ほどの小さな鳥なぞ、捕えたところで食べられやしない。夕立の喜びようが、信長には理解できぬ。

「可愛らしい小鳥さんです」

 夕立は両手で包んだ鶯の、柔らかい羽毛に、頬を摺り寄せる。

 たしかに京の都の貴人らは、娯楽の類として小さな獣を飼うのを好むと聞く。狩りなどしたこともないであろう夕立には、雉を刈るより、小鳥を眺めていたほうが楽しいのかもしれない。

「旅のお供に連れて行きましょう」

「馬鹿をいえ」

 無茶を言い出す夕立を、信長はたしなめる。

 犬でも猿でも雉でもなく、鶯とは、わずかな戦力にもならぬ。

 夕立ひとりに手を焼いているというのに、小鳥まで世話をしていては、信長は今よりもっと、疲労で老け込んでしまう。

「鳥なぞ、どうせすぐに逃げる」

 夢のない大人の言葉に、夕立は目を丸めて笑みを消す。

「吉法さまは、鳥が嫌いなのですか」

「連れていけぬ。その手を離せば、鳥も逃げるであろう」

「逃げますかね」

「それに、怪我をすれば飛べなくなる。飛べるうちに、放してやれ」

 信長は説き伏せてやる。

 いつのことだったか、遠い昔に、信長が怪我をした小鳥を捕え、自室で養生させてやったことがあった。しかし、そこへやってきた弟の信行が、身勝手で小鳥を外へと捨ててしまったことがある。結局、今年は死に、信長の恩情が無駄に終わった。

「……吉法さまは、よもや、小鳥に怪我をさせたことでもあるのですか?」

 夕立がそう問うた。

「それは、ないな」

「そうですか」

「けがをした鳥を拾ったことがある。それだけなのだ」

 そう、たったそれだけの、些細なことであった。

 鳥よりも人を殺した数のほうが多い信長にしてみれば、鳥の一羽や二羽など、カスの内にも入らない。

「……その鳥さんは?」

 夕立はさらに追及する。

 単なる子供の好奇心からであろう。夕立は目を丸めたままである。

「──弟が棄て、そのまま飛べずに死んだ。足のない者が、早死にしやすいのと同じよ」

 信長は言いながら、不意に、左のこめかみに触る。

 今となっては思い出せもしないが、あの時は天地がひっくり返るほどに腹が立ち、いまだかつて手を上げたことのなかった弟を、完膚なきまでに叩きのめした。そのような記憶だけが残っている。

 その後すぐに母が駆け付け、信行を庇った。そして信長の事情を聴くまでもなく、偶然にも身近にあった茶器を、まだ幼い信長めがけて投げつけたのだった。

 その茶器が、信長のこめかみに当たり、砕け散り、その破片が皮膚を裂いた。その裂傷の痕跡が、今なお、残っている。

 当時のことを思い返せば、耳の奥では母の甲高い声が蘇り、裂傷の跡が疼いた。

 そういえば、あの時に拾った小鳥のほうが、杜鵑であったような気がする。

「……」

 夕立はしばし、黙った。信長の顔と鶯とを交互に見ながら、迷っている。

 そして、暫時考えるそぶりを見せてから、鶯を包んだその手を、信長の前に差し出した。

「───この鳥さん、吉法さまにあげます」

 そう、言った。

「なに?」

 逃がすでもなく連れていくでもなく、信長に差し出すとはどういうことか。

 夕立から小鳥を献上された信長は戸惑う。

「なぜその発想に至るのだ」

「吉法さまが欲しがるかと思って」

 その言葉に、信長はわずかに呆れる。

 幼子でもあるまいに、このような娘が持っているものを、欲しがるなどありえない。放してやれと言ったのだ。

 しかし、夕立がまっすぐに信長を見ながら、ずい、と鶯を近づける。

「吉法さまの手から逃がしてあげてもいいです」

 言われて、信長はたじろいだ。

「……」

 信長の話を聞き、同情でもしたか。

 むむむ──と、唇を曲げながらも、夕立の視線から、目を逸らすことができない。

 夕立は無垢なのだ。無垢なうえに、自他ともに優しい。夕立にしてみれば、そのまま鳥を放すのも気が引けたのだろう。

 子どもの優しさは、扱いづらい。

 どう対応すればよいかもわからぬまま、信長は恐々と、武骨な手を夕立の前に差し出す。その手から解放され、自由になった鶯は、僅かに信長の手の上に乗った刹那、すぐに飛び立った。

「あっ」

 信長が放すまでもなく飛び立った鶯を見上げ、声を上げた。

 怖や怖やと飛び去る鶯の、逃げ足は速い。その活力有り余るさまを見て、信長はむしろ、安堵した。これほどに元気であれば、あの杜鵑も、きっと生き延びていただろうに。

「逃げられてしまいました……鳴きもしないで」

 夕立は呟く。

 理性を持たぬ鳥が、人の命令で鳴くはずもない。

「あれだけ太っていれば、どこぞで元気に鳴くであろう。鶯など、どこにでもいるものだ」

「んん──」

「歩いていれば、そのうち聞ける。それを待っていればよい」

 信長は切り株から腰を上げると、背を伸ばした。呑気に鳥が鳴くのを待っている暇はない。人間のほうは、成る丈早く、安土に戻らねばならないのだ。

 しかし、

 ───ひょう、ひょうひょう。

 どこからともなく、春色の声がこだまし、山中に溶ける。

「聞こえました」

 夕立が嬉しそうに、耳を澄ませる。

 対して待ちもしないうちから鳴くとは、せっかちな鳥である。

 信長は一息つくと、笠を深くかぶった。春も深まる気配がする。



 ───了───



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