明智光秀謀反綴り






「敵は本能寺にあり」

 そう叫んだ瞬間のことを、明智光秀は覚えていた。

 倒れた光秀の頭上では、禁欲を殺意に変えた伏見の百姓たちが、光秀を討ち取ったことに歓喜している。

 伏見の山中にて落ち武者狩りにあった光秀は、すでに虫の息であった。

(御屋形様)

 己の最後を悟った光秀は、無念から眼を閉じる。





 織田信長という男を初めて見たのは、世の十三代将軍・足利義昭の下に仕えていた日のことだった。

 終わりの大ウツケと呼ばれていたにしては、その立ち振る舞いに一切の無礼はなく、悠々としたさまが信長の鋭利な美貌をさらに際立たせていたのを覚えている。

 しかしその傍ら、信長という男は、おびえのない瞳の奥に、何の動揺もない不気味な静けさを湛えているのだった。

 その後、光秀は足利家と織田家の両属の家臣となり、織田家の一武将として働いていた。

 信長は良くも悪くも気が短く、竹を割ったような性格の男である―――そう風の噂に聞いたように、信長は表情に富み、苛烈ながら正義感に熱い男だった。

 ―――が、日が経つにつれて、光秀は信長のその心豊かさに、違和感を覚えていたのである。

 怒れば喝っと吠えるくせに、短く叱責したらそれ以上に追及はしない。一度怒った人間というものは、それ以降も怒りを引きずり続けるというものだが、信長にはそれがない。すっきりとした性格―――と言ってしまえば、それまでである。それでも光秀にしてみれば、まるで、信長がさして相手に興味を示していないようにも、見えるのだった。

 光秀が信長を異様に感じる瞬間は、そこだけでは留まらない。

 信長が人と笑っているときは、その声は快調で、童子の如く穢れのない笑顔になっている。しかし、信長が下唇や客人に背を向けたその刹那を、光秀は見たことがある。

 見て、ぞっとした。

 先ほどまで大口を開けて笑っていた男の貌から、表情が消えている。笑いの余韻も、寂しさも、怒りも、心という心の全てが、その時の信長の貌から失せていた。

なんと冷たい顔であろうか。

 あれほど人と楽し気に接していながら、去り際に疲弊したため息をつく信長の姿は、光秀の眼にも鮮明に焼き付いている。

 信長という男は、心豊かなのではない。

 恐れも、好意も、嫌悪も、関心も、あの男の心にはないのだ。必要な時に、必要な面を使いこなし、芸者の如く、その面を被って、偽りの姿を人に見せる。

なにをするにもつまらなさそうな信長は、光秀にとっては恐ろしい男だった。しかしそれでいて、ひどく哀れに思えたのである。

 自分の許可なく城を抜け出た女中を処刑と称し、生かして城から出させた時も、茶坊主に扮した隠密を返り討ちにして斬殺した時も、信長が心の底から怒り狂い、喜びに舞った姿は、見たことがない。

 金ヶ崎において浅井長政の裏切りを受け、その命が危うくなった時でさえ、

「そうか―――」

 長政の裏切りを聞いた信長が見せた反応は、それきりであった。

 ただ、その時ばかりは悲しげな面差しになって、ふん、と、騙された己を嘲るかのように鼻で嗤ったのだった。

 その後には伊勢長島の一向一揆、比叡山の延暦寺など、浅井の傘下に加わったものを悉く一掃していった信長であったが、これといって、激しい復讐の念を見せることはない。

 自分を裏切った報復には違いないが、その時の貌はあまりに冷たく、虫を踏み潰す程度の感慨しか覚えていないような―――そんな冷徹な表情であった。

 光秀とて、感情を優先する男ではない。何事も合理的に考え、計算に基づき、もっとも目的に向かって有利になる方法を選ぶ。そのためであれば、手段も選ばぬ覚悟であった。

 しかし、そんな光秀であっても、信長が見せる冷たさというものには、恐怖とも道場ともつかぬものを感じているのだった。

 訊けば信長は、蝶よ花よと育てられた弟妹と違い、母親から陰湿な差別を受けて育ったという。人に愛も慈悲も、まして関心も示さぬのは、そのためではないか―――。それが、光秀の考察した信長の事情だった。

 しかし、本人にそれを聞いたところで、信長が誠のことを離すとも限らぬ。まして光秀は、信長の家臣である。興味こそあれど、口をはさむことはできぬ。

 光秀もまた、情よりも実質的な利益を重視する男である自覚はあった。利益にならぬ関係は築かず、要領よく生きていける自信もある。

 そんな光秀であったが、どうしても、信長が時折に見せる空虚な貌は、幾年の時が過ぎても、光秀の瞼の裏にこびりついているのだった。気が付けば目先の利益より、主である信長の反応を追い、いつ何時もその顔をよく見るようになった。

「不気味なお方じゃ」

 足利義昭の没後、織田家のみに従うこととなった光秀と同じく、織田家直属の家臣であった木下藤吉郎は、そう言葉にしている。人の心を読み、察し、操ることを得意とする狡猾な藤吉郎にとって、心の奥底が読めぬ信長は、さぞ恐ろしかったに違いない。

「喜んでおるのか、なんとも思っておらぬのか、分からぬ」

 藤吉郎が愚痴をこぼすように、そう語っていたのを聞いたことがある。

 信長が見せる表面上の豊かさは、多くの衆に「破天荒な人物」としての印象を植え付ける。しかし、こうして藤吉郎や光秀のように、信長がわずかに垣間見せる冷徹さを見抜いたものにとっては、信長という男ほど言葉の真偽が分からぬ人物はいなかった。

 そんな、ある日のこと。

「光秀」

 織田家直属の家臣となって、幾年の時が経った頃、珍しく信長のほうから、光秀に声をかけたことがあった。

 ちょうどそれは、大雪の降りしきる冬の日のことである。光秀が信長に呼び出されたのは、小姓も家臣もいない、完全に二人きりの密室だった。

 この部屋に招かれた時から、光秀はすでに、身構えている。

 荘厳な美しさを好むと評され、もっぱら大広間にて胡坐をかいているように世間では評される信長であったが、暇なときの信長は決まって、狭い部屋にひとりで籠っている。

 信長が、正室の帰蝶に毛嫌いされていると聞いたことがある。心の許せぬ家臣に、冷たい妻。信長の立場になって考えてみれば、光秀には、信長がひとりで部屋に籠りたくなる思いも理解できた。

 要するに、織田家の支配するどこの城にいても、実質、信長の居場所は限られてきているのだろう。

光秀が襖をあけてみれば、その先には六畳一間ばかりの小さな空間がある。信長と光秀、互いの座る座布団の脇には、もうもうと湯気の立つ白湯が置かれている。

 大衆どころか家臣の前でさえ突飛な行動を見せ、家臣たちにすら策略を明かさぬこの男が、密室に他人を呼ぶなど珍しい。それだげに、光秀も緊迫した。

 固唾を飲む光秀をよそに、信長は先にその場に坐して、悠々と白湯を口にした。

 続いて光秀も信長の向かいに坐し、その様をうかがう。

 普段、大げさなほどに多彩な表情を見せる信長にしては、異様なほど、この時は人前でありながら無表情であった。

 美男の無表情ほど、冷たく冴えわたるものはない。

 尾張の大ウツケと称されていた少年時代から、信長は絵に描いたような美男子だったという。

 その話は真であったようで、愁いを帯びた美貌は、年を重ねても衰えることはない。光秀に衆道の趣味はなかったものの、その不気味さと、顔かたちの良さに、背筋の毛が逆立ちそうになった。

「光秀、貴様は」

 唐突に、信長は白湯の器から口を離し、その色のない眼で光秀と対峙した。

「俺が周囲に対する見せしめのために貴様を利用したいと言ったら、貴様は怒るか」

 その言葉が、のちに光秀を『反逆者』にせしめる大事件の、一端となったのである。







 信長が秘密裏に、光秀に頼んだこととは、つまるところ“やられ役”であった。

 織田の勢力が増すのに伴い、信長を危険視する大名も少なからずいる。反織田の勢力が生まれれば、それまで織田家の中で息をひそめていた大名が、寝返る可能性もあった。

少しでも歯向かえば、ただでは済まさぬ―――。

 信長の破天荒さをより際立たせ、家臣たちを織田家に縛り付けるには、理不尽な暴力を見せつけるのが最も効果的である。少なくとも、信長はそう考えたのであろう。

 しかし、何も知らぬ者に対し不条理な仕打ちをすれば、逆に、その者に寝返られかねぬ。

 ゆえに、信長は光秀に秘密裏に相談し、“やられ役”に選んだのであろう。少なくとも光秀は、そう慮っていた。

 光秀は信長の言葉に応じ、その過酷な役を買って出ることとなった。

 表面上は信長に冷遇され、毎日のように差別的な扱いを受ける役割である。あくまで見せしめのためといえど、心穏やかではいられぬ。

 それでも光秀は、信長から冷遇を受ける哀れな家臣となることに、抵抗はない。

 それまで誰にも、己の腹の内も策略も明かさなかった男が、初めて、一家臣である光秀に、策略に加われ問いうのである。その密会が、光秀の中では大きな意味を持つ。このとき光秀は、信長が、ほかの家臣の誰よりも自分に信頼を置いたに違いないと、感じたのであった。

(御屋形様が、私を信じている)

 それが、光秀には嬉しいのだった。初めて、信長の瞳に自分が映ったと思うと、光秀はどのような褒美を受け取った時よりも格段に、喜ばしいのである。

 それからは事あるごとに信長に呼び出され、魚が腐っていると因縁をつける、光秀の言葉に突っかかる、などと、あたかも物事を進めるにあたり予定を立てるかのように、信長から光秀への理不尽な仕打ちを見せる、口裏を合わせた。

 信長の思惑通り、光秀が信長から冷遇されるほどに、家臣は怯え切り、より張り詰めた。

 光秀がどのような仕打ちも快く呑み込むからであろうか、信長も、密会の際には口数も多くなり、

「貴様の働きがあってこそだ」

 と、褒めることまであった。

 普段から信長がほめたたえ、重く用いるのは小姓の森蘭丸であるが、その時ばかりは、信長に最も信頼されているのは、ほかでもない自分自身であるようにさえ、光秀には思えていたのである。

 






 信長と口裏を合わせるようになり、しばらくたったある日。

 信長は四国の大名・長曾我部元親の攻略のため、家臣の羽柴秀吉を備中に送っている。四国では信長の進攻を聞きつけた各大名が立ち上がり、織田に一矢報いんと息巻いているのだった。

 このとき安土では、甲州征伐の戦勝祝いのため、信長が家康を城に招きもてなしている。

 安土を訪れた家康への接待を行う中で、秀吉から、

「援軍求む」

 との旨の文が、信長のもとへ届けられたのだった。

 秀吉が危うい―――。文の内容からはそう感じられるが、どうにも、不穏である。

 しかもその内容は、百余りの兵さえいればいい、と言っているも同然のものだった。

 助けを求めているにしては、あまりに、求める兵の数が少なすぎる。

 戦況を凌駕させるためには、百の兵では到底足りぬ。信長はいつだって、自分が加勢する際には幾万の兵を率いた。

 秀吉の援軍要請は、どことなく疑わしい。

 というのも、この文が送りつけられる少し前、備中から馳せ参じた秀吉の使者からは、

「戦況は羽柴軍の優勢」

 と伝えられている。

 高松城を攻め落としたかも同然のように書かれた文が届いてから、戦況不利の文が届くまでの間は、わずかなものであった。これでは、一度目の報告と二度目の報告とで、大きな齟齬が生まれる。

 当然、光秀は秀吉の思惑を疑う。

 以前より人に取り入り、騙し、欺く小鼠のような男である。

 その男が、幾千を超える軍がひしめく中で、百余りの兵しか率いていない信長を呼び寄せるなど、どうも不自然な話であった。

「すこし、疑わしゅうございます」

 無論、光秀は信長との密会の際に、そう訴えた。

 光秀が疑っていることであれば、家臣に一切の信頼を置いていないであろう信長も、きっと秀吉を疑っているに違いない。そう考えてのことであった。

 しかし、

「猿が負ければ、織田家の負けにもなろう。猿が危ういというのなら、俺は備中へ赴く」

 いつもであれば真っ先に否定から入る信長が、この時、秀吉の要求をあっさりと呑んだ。

 これには、光秀も愕然とする。

 なぜです―――そう光秀が言葉にするよりも早く、信長は光秀の肩に手を置いたのだった。

「うぬのことは、狡猾で汚い男だと思っておったが、実際は、辛抱強く、俺にここまでついてきてくれたであろう。―――次は猿のことも、信じさせてはくれまいか」

 信長は、大衆の前で出す甲高い声とは対照的に、低く落ち着いた声色で、そう語った。

 一度は疑った光秀を信じることにした。ならば、ほかの武将も、もう少しだけ信じてみてもよい。

 信長は柄にもなく、そのようなことを言ったのだ。

 懐疑心の強い信長が下唇に信頼を置けたのは、大きな成長であろう。しかし、それまで信長に重用されてきた数少ない地位にいた光秀だけに、自分以外の家臣が同じように信長から信頼されるようになったと思うと、どことなく、光秀の胸に空虚な闇が広がるのだった。

 結局、光秀の言葉を聞き入れることなく、信長は後日、百余りの兵を連れて備中へと赴いたのであった。

 信長の後に援軍に加わることとなっていた光秀もまた、一万以上もの兵を率いて備中へ行く準備を要されていた。

 そんな、信長と秀吉への不信感を募らせたままの光秀が、丹羽亀山城にて信長からの指示を待っていたある日の、夜のこと、

「明智光秀殿ですな」

 眠る光秀の枕元で、男の声が、そう優しく囁いた。

 目を覚ました光秀の眼前には、顔に布を巻いた、男とも女ともつかぬ影がある。

「隠密か」

 光秀は息をのみ、問う。

 影は己の素性を離すことなどなかったが、その布で隠した口元を、闇の中で薄らとほほ笑んだ。

「光秀殿は、信長公を疑っておいででしょう」

「問いに答えよ」

「信長公は、人が変わったとは思いませぬか」

 隠密の言葉は、休まない。

 光秀の言葉を追い払い、追撃せんばかりに、隠密は囁く。

「どこの手の者か。そうたやすく信ずるわけがない」

 無論、隠密ごときの言うことなど、はなから信じてはいない。

 光秀は当然のごとく跳ねのける。

 しかし、隠密は形のよい花唇を谷なりに曲げたままであった。

「―――信長公とその嫡男は、すでに死している」

 そう、隠密は言った。

「信長公は家臣たちの知らず知らずのうちに暗殺されておりまする。いまいる信長公は偽の影」

「そのような大法螺、信じるわけが―――」

 光秀は言いかけて、口をつぐむ。

 確かに、信長は変わった。光秀の知る当時の面影が、今の信長には塵芥ほどもない。

 以前よりも、織田家内ではうんと丸くなり、穏やかに笑うことが多くなった。隠密の言うことなど、信用するほどの価値もないはずである。それなのに。隠密の言葉は鉛のように、重く光秀の胸にのしかかるのであった。

「―――よもや、本当に」

 わずかな懐疑心が、光秀の中に生まれる。

 それを見計らったかのように、隠密は闇の中、ふふ―――と、優し気に嗤うのだった。

「偽の信長公を、貴方様が討つのです」

 刷り込むように、隠密はそう言った。

 拒みたい言葉の一つ一つが、光秀の肝に休む間もなく刻まれてゆく。

 





「敵は本能寺にあり」

 光秀が反逆の下知を下したのは、それから間もない時のことである。

 光秀は一万六千もの大軍をもって、百兵あまりの兵しかいない本能寺へと攻め入った。

 しかし、本能寺を巻く炎の中から見えた信長の姿は、まぎれもない、信長本人であるように見えたのだった。

「――――」

 炎の中で、信長と目が合った。

 信長は暫時、悪善と開眼していたが、その後は、諦めたように目を細めた。

「是非も、なし―――」

 信長が、そう言ったようであった。







 

 その後、光秀は異様な速さで備中から舞い戻った秀吉により攻められ、山崎の戦で配送した後では、伏見の山中にて落ち武者狩りに、死している。

 死ぬ間際の光秀は悔し涙を流し、

「私は、なんと愚かな」

隠密の言葉に流され、不安に目がくらみ、あろうことか主を手に欠けた己を、光秀は呪った。信長の顔を思い起しながら、光秀はその息を引き取ったのである。

 







 【了】

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