影呼び
*
吉法は、夕立の問いに答えない。
それがますます、夕立の疑念を増長させた。
事の発端は、まだ山道に入る前の、町の中でのこと。
店の支度をしていた女が、吉法を、
「老けているけど、男前ねえ」
と、言った。
それに続けて、その隣にいた女が、こう口にしたのである。
「かの信長さまも、あのような美男であったとか」
「女には困らなかったでしょうねえ」
それは、何の変哲もない、女の会話である。
しかし、夕立の胸に落ちた影を濃くするには、それだけで十分であった。
『あの男が、信長だよ』
御影の言葉が、糸を引いて、夕立の耳孔に落ちたようである。
思い返してみれば、確かに吉法は、信長に対してやけに肯定的であった。信長を討つといいながら、まるで庇っていたようである。そう考えれば、吉法が信長であると考えるのに辻褄が合う。
しかし御影の言葉一つでは、夕立が吉法を疑う理由には、ならなかった。
吉法は確かに、信長のような思想の持主かもしれない。冷たく、合理的で、容赦がない。
それでも吉法は、夕立を受け入れてくれた。
夕立の不幸を悲しみ、怒り、優しく抱き留めてくれたのだ。しかも、何の見返りも求めることなく。
だからこそ、夕立は疑うよりも、信じたいのである。
が、吉法への情が募るほど、疑念も強まった。
吉法が夕立の僧衣を竈へ投げ込んだ刹那、吉法は、何者をも斬り伏せんばかりの、冷徹な眼であった。それはまるで、高僧が寝物語に語ってくれた信長像と一致する。
冷徹で、人を人とも思わぬ男。
それまで夕立の目に映っていた優しい男が、一瞬で、炎をまとった第六天魔王そのものに見えたのだった。
(消えないで)
夕立は神にも仏にも祈った。
信長の想像図と重なったこの男が、どうか、魔王ではありませんように。私の信じている吉法さまが、胴か本物でありますように、と。
しかし、一晩明けても疑念は消えない。
それどころか、疑惑の煙は、女たちの会話を聞いてからさらに肥大し、夕立の心を曇らせた。
そのうえ、吉法は夕立のことは掘り下げて聞いてくるくせに、自分のことを話そうとはしてくれない。質問をすれば、考えたように間をおいてから、心のこもらぬ返事を返した。
吉法のその態度が、夕立の水面に波を立たせ、次第にそれを激流に変える。
そしてとうとう、
「吉法様が、織田信長ではないのですか?」
秘めていた一言が、口から飛び出した。
吉法は、瞠若したまま黙している。
暫時口を閉ざすと、吉法は目を逸らし、
「何を言う、そんなわけがあるか」
と、小さな声で答えた。
これまで物申すときは、しっかりと夕立の眼を見て、答えてくれた。
それなのに、なぜこの時だけ、目を逸らしたのか。
理由は、夕立でも容易に想像できる。
―――吉法が嘘をついた。
―――私を騙そうとした。
夕立の中で小さく灯っていた明かりが、次第に小さくなり、最後には音もなく消えたのだった。
―――どうして嘘をつくの。
夕立の中で初めて、他人への怒りが湧く。
嘘をつかなくたって、いつものように目を見て、
「そうだ」
と、言ってくれればよかった。
「ちがう」
と言うにしたって、そんなに後ろめたい顔で言わなくたって、いいではないか。
それだけで、夕立は吉法の全てを知ることができる。
昨晩の吉法のように、夕立も吉法の全てを受け入れる覚悟だった。
それなのに、吉法は夕立に嘘をついた。まるで、まだ夕立を心から信じていないとでも、言うように。
夕立の顔が、凍った。
吉法への計り知れない怒りは、悲しみを孕んで、剣になる。
―――多くの人を死に至らしめた男は、とうとう、私まで騙そうとしたのか。
―――騙して、利用しようとしていたのか。あの僧たちのように。
その剣の矛先は、まっすぐに吉法へと向かう。夕立の眼の裏が、かっと熱くなった。
私を受け入れてくれた人が、そんなことをするはずがない。私の考えすぎだ。
そう信じても、もう夕立の眼には、吉法が信長であるようにしか映らない。
刹那、夕立の瞼の裏に、御影の顔が浮かぶ。
『もし彼が信長だと思うなら―――』
御影の言葉を、一つ一つ、思い出す。
もしここで、彼が来たら、吉法はどんな目に合うかわからない。夕立の選択ひとつで、吉法の生殺与奪を自由にできるのだ。
―――それでも、夕立の口は、その時すでに動いている。
自分の信じた人が偽ったものであれば、目の前にいる男はもう、吉法ではない。
「―――吉法様、明るい場所に来ましたね」
ついに、口走った。
夕立の眼前を、黒い影がかすめる。
*
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