信長(下)




 吉乃を失ってから四年後。

 信長は越前の大名・朝倉義景の討伐のため、隣国近江の大名である浅井長政と同盟を組んだ。信長が美濃から京へ上洛するにあたり、傘下にない越前の朝倉家は目の上の瘤であった。そのため、隣国を治める浅井と組むことで確実に朝倉を手中に収めよういう算段だったのである。

 信長は幼い日より、影で自分を虐げてきた妹を、半ば強引に嫁に出すことで、浅井を傘下に取り込んだ。幸いにも美貌の姫であるお市の嫁入りを長政は喜び、朝倉攻めへの加担にも文句ひとつ言わなかった。

 長政は近江でも広く『名君』と称される、優れた君主であった。武士も百姓も区別せず、誰の言葉にも耳を傾ける。

 意地の悪いお市には釣り合わぬ、素直で賢い漢―――。

 少なくとも信長の眼には、そう映っていた。

 自分の弟が信行でなく、このような男であったなら。

 そのようなことも、考えなかったでもない。

 しかし、その泡の如きわずかな夢物語も、長くはもたない。

 朝倉攻めに出、金ヶ崎に差し掛かったところで、長政が反旗を翻した。

 お市が余計なことを吹き込んだか、はたまた、浅井と朝倉との関係が強固なものであったか。いづれにせよ、信長は金ヶ崎にて攻め入られるその瞬間まで、信じていた長政に裏切られたのである。

 金ヶ崎から命からがら逃げ延びても、その先に希望はない。

 浅井は朝倉家以外にも、領内の百姓、伊勢長島の民衆、果ては本願寺や比叡山の僧侶どもとも結託している。もはや、その軍の力は織田家に匹敵しつつある。浅井を手を組む者が増えるほど、信長の首は、いつ取られてもおかしくはない状況になった。

 そしてとうとう、ひとりで武者隠しの間に籠るようになってしまった。

(俺が何をした)

 信長は唇を噛んだ。

 後世において『暴君』と称される信長であるが、その実、民からの必要以上の取り立てはしていない。商人の住まう町で物が売れず、その元を作っている百姓も困っている。だから楽市楽座を開き、人の出入りを増やした。そうしてようやく、町も村も潤ったのである。

 戦にしたって、刀や槍を使えば、兵もそれだけ多く死ぬ。ゆえに、鉄砲を用いて死者の削減に努めた。

 どれもこれも、民が苦しまぬように思案してきた結果のものだ。

 各国の大名たちの争いが続く乱世を終わらせようにも、誰かが筆頭になって納めなければならない。帝への忠誠などでは乱世を終わらせられなかったからこそ、天下を武によって統一するしか他はなかったのである。

 それがどうしたことか。

 誰もかれもが望んだはずの『泰平』を実現しようとすれば、各地の大名がこぞって、信長を悪人呼ばわりし、つまはじきにした。いまの浅井たちのように。

 ―――俺はまじめに、一生懸命に力を尽くしているのに。

 沸々と沸き起こるものは、怒りであった。両親も、兄弟も、浅井も、民も、そして散々勝手を許してきてやったのに、最後まで自分を許さなかった、吉乃にも。腹の底が煮えくり返るようであった。



 

 ―――確かに、俺はこのとき、だれかれ構わず殴ってしまいそうなほどに怒っていた。

 若き日の自分の怒りが、老いた信長にも伝わってくる。燃え盛る焔とは違い、黒く、粘りつくような怒りであった。

 しかし、この時はまだ、自分は“大丈夫”だった気がする。

 黒くうねる油のような怒りを感じる一方で、老いた信長は、あまり苦しみのようなものは感じない。

「御屋形様」

 その時、武者隠しの間の外から、男が声をかけた。

 ―――ああ、そう。この頃はまだ、可成がいたのだ。

 記憶の糸を紡ぐ中で、老いた信長の体は香の煙の如く空気に溶ける。

可成よしなり……」

 若き自分が、そう呟いていた。




 

 森可成もりよしなり―――信長の古い家臣の一人である。信長が二十歳の時より織田家に仕え、無双の槍術で戦場の猛者まで上り詰めた男だった。

 しかし荒くれる戦場の武人は、ひとたび戦から戻れば、花が咲いたようによく笑う。よく笑い、よく食べ、よく遊ぶ男だった。森家の息子たちで、可成を慕わぬ者はいないという。

「何をしに来た」

 唸って威嚇する信長の声にも、可成はひるまない。

 それどころか、板一枚挟んだ壁の先にいる信長の威圧を、

「はは!」

 と、笑い飛ばし、武者隠しの間の襖を開けた。

「そとは気持ちの良い快晴にございますぞ。いつかのように城下へ降りて、散歩にでも出ようではありませんか」

「―――は」

 大きな声で前向きな言葉ばかり吐く豪傑・可成に対して、信長の霞んだ笑いは、冷笑である。

「ほかの連中に言われてきたのであろう。浅井の勢力が強まりつつある中だ。呑気に引き籠っているうつけを引っ張り出して来いと、言われてきた。そうだろう」

 信長の言葉は暗い。いまや度重なる謀略と裏切りに疲れ果て、かつてのように城下へ降りる気力もないのであった。

 面倒な主に、可成も困った顔をする。

 どうせ信長の心情も知らず、

「面倒な男だな」

 と、呆れ果てているに違いない。信長はそう踏んでいた。

 が、

「どうか、そのような寂しいことをおっしゃらず―――」

 山のように大柄な可成は、信長の前まで四つん這いでやってくると、向かい合って対峙する。

「先の姉川での戦にて、束になった敵兵の進撃を食い止め、私も心骨を削り申した」

「何が言いたい」

「どうかその褒美に、私に城下を案内してはくださりませぬか。御屋形様が一人で回られたという町を、この可成も見てみとうございます」

「一人で行け」

「まさか!」

 可成は呵々大笑する。

「私は岩の如き体ではございますが、ひとりでは心細うてなりませぬ。御屋形様が推してくださる場所であれば、この可成、喜んで御供致しましょう」

 可成の眼は、四十路を過ぎた中年でありながら、まるで童のように艶が出ている。菓子をねだる童のように眉を下げ、声を弱弱しく出し、あたかも本当にそう願っているかのような物言いである。

 ―――内心では、可成が気を遣ってくれていることは察していた。

 しかし、幾度も謀反や裏切りにあい、多くの者から蔑まれてもなお、信長の心は諦めがついていない。可成の気遣いが、傷心の信長には嬉しかった。

「―――ならば、仕方がない……」

 信長は可成の言葉に甘える。

 まるで友でもできたかのように可成を連れ回し、安い衣を着て岐阜の城下を気の向くままに歩んだ。

「御屋形様にこうして付いて回れるお方は、さぞや幸せ者でしょうなあ」

 餅屋で買った餅を食みながら、可成はそんなことを言い出す。

「かように賑わった豊かな町を、御屋形様の案内で回ることができるのです。毎日が、楽しいことであふれてならぬでしょう」

 そこかしこに興味を惹かれた様子の可成であった。

 多少の世辞もあったろうが、このように無垢な男の喜ぶさまというのは、見ていて飽きぬ。

 ―――こうして楽しげにしている可成の横顔が、不意に、吉乃の面影と重なる。

 吉乃も、身籠る前に何度か、信長が岐阜の城下町に連れてきてやったことがあった。何事にも関心を示し、喜んでいたその顔を、信長は思い出していた。

「俺はつまらん男だぞ」

 信長は言った。吉乃を思い出せば、必ずその後ろを、吉乃の恨み言が付きまとうのだ。

「前にも、ここへ連れてきてやった女がいたが、そいつは最後には、俺を許さぬといって死んでいったぞ」

 信長の脳裏には、青白い顔で信長を睨む側室の顔ばかりが蘇ってくる。

「いかに取り繕っていようと、最後には欲が出る。そうして人も離れていくのだ」

「よもや、生駒の姫御前―――吉乃さまのことをおっしゃっておられるのか」

 童のような顔で、夢中になって餅に食らいついていたくせに、勘は鋭い男である。

 信長は歩きながら、黙る。まさしくその通りで、二の句も継げぬ。

「ならば、もう吉乃さまをお忘れなさってはいかがか」

 信長の沈黙を見守っていた可成は、突拍子もないことを言う。

「なんだと」

「御屋形様が、吉乃さまのことで今も気を病んでおられるなら、お忘れなさってみてはどうでしょう。御屋形様が吉乃さまを思い出すたび、その顔に影が差すのは、見ていて辛うございます」

「―――とんだ男よ。家臣の身で、主である俺の事情に口をはさむか」

「主が弱ったとき、救わんとするのが家臣ではございませぬか」

 長く織田家に仕えている可成の、忠誠は強い。この男の言い分も、分からぬでもなかった。それでも、少々口答えが過ぎる。

「……仮に、俺が地獄へ、お前やほかの連中が浄土へ行くとしよう。俺が地獄で一人寂しくしているとわかったら、お前はわざわざ、地獄へ苦しみに来てくれるのか」

 信長は言ってやった。

「無論」

 可成の返事は、清々しいほどの即答である。

「―――もし御屋形様が地獄へ落ちるとなれば、我ら家臣も喜んで、地獄へ御供致す所存。どうそ、吉乃さまに全てを委ねずとも、たまには我らに頼ってくださいませ。御屋形様は、御屋形様の思っているよりもずっと、慕われております―――」

 可成はその時、今までになく優しい顔になった。子煩悩で愛妻家だというこの男は、普段、我が子にこうして微笑んでやっているのだろう。信長の父も、母も、このような顔はしなかった。

「お前は、良い男だな……」

 年甲斐もなく、信長は目頭が熱くなった。この男の妻や、息子たちこそ、本当の幸せ者ではないか。




 ―――そう、彼はいい男だった。

 人の波の中に溶けていく、信長と可成の後ろ姿を、老いた虎は眺めている。

 最後まで嘘偽りなく、織田に忠義を尽くした。

 これほどに家臣としても、武人としても、父としても優れた男が、のちに惨い死を遂げるなど、若き信長は思いもしないはずである。





 ―――視界が、岐阜城の城下町から打って変わる。

 若き信長は、そこかしこから火の立ち上る山の中を駆け抜けてゆく。息を吸うことさえ忘れ、山岳では不利な馬を捨て、足が襤褸屑になるまで走った。

 走り走るうちにも、あたりに転がっている骸の数は増えてゆく。浅井に朝倉、さらに六角家の軍兵、それらの軍に加勢した延暦寺の僧兵、そして、この宇佐山城に立て籠もっていた、森可成率いる織田の兵の骸まである。

 この時、摂津にて野田城を攻め落としにかかっていた信長であったが、

「宇佐山城が、攻められ申した」

 との、知らせを受け、急遽摂津から大津まで舞い戻ってきたのである。

 浅井家と朝倉家を攻めるには、まず、南の本願寺や伊勢長島にまで広がる反織田の勢力に備えねばならぬ。そのためにも、信長は近江に位置する琵琶湖周辺―――ことに、京へ通ずる道に面した北国街道を手中に収める必要があった。信長の上洛には欠かせぬ場所に他ならない。そのため、信長は摂津に攻め入る傍ら、大津での宇佐山城築城を森可成に任せたのである。

 わずか一千ばかりの兵軍しか持たぬ城を、浅井が狙わぬとは、信長も思わない。だからこそ、勇猛と軍略、なにより武辺に優れた可成に任せたのだ。

 現に可成は宇佐山城の城下にある町の外れで、攻め入ってきた浅井・朝倉軍を迎え撃ったのち、撃退したのである。

 ―――しかし、その朗報が届いたすぐ後には、可成率いる軍が全滅したとの悲報が舞い込んできた。

「石山本願寺、顕如の要請により、延暦寺の僧兵どもが加勢を―――」

 すべてを、聞くまでもない。

 言葉を聞き終えるよりも早く、信長の顔は真っ青になった。

 韋駄天の如く馬を走らせ、寝食も忘れ、ようやく宇佐山城にたどり着いて、今に至る。

 しかし、後の祭りであった。

 延暦寺の僧兵も加わった浅井軍は、総勢三万を超える。可成率いる軍兵の、約三十倍の兵力だった。いかに武辺の優れた歴戦の武者であっても、数でもみ消されるのは目に見えている。

 それでも、信長には諦めがつかなかった。

 あの大岩のごとき男が死ぬはずがない。あの男には、妻も、子もいる。この世に残したものが多すぎる。なにより可成は、信長の家臣であり、友でもあるのだ。

 簡単に死ぬはずがない。

 信長は歯をきしませて、骸の山を飛び越えて、進んだ。

 ―――いいや、生きていなくたっていい。せめて武将らしく、美しい死にざまでいてくれ。そうすれば、残された息子たちも、父を生涯誇って生きてゆけるだろう―――。

 天にも祈る思いで藪をかき分けたその刹那、信長の瞳孔が、揺れる。

 宇佐山城のすぐ下の、開けた土地。

 そこに、なにか棒のようなものが掲げられている。

「あ……―――」

 瞬間、信長の息が止まった。

 掲げられていたのは、ただの杭である。

 が、その先端に刺さり、まるでカカシの如く掲げられていたのは、討ち取られた可成の首だった。

 地に埋め立てた杭の先端に、胴から切り離された可成の首が刺さっているのである。

 可成は目を見開き、かっと口を開けた、あたかも討伐された鬼の如き面構えで、事切れている。壮絶な死にざまだった。

『次はお前が、こうなるのだ』

 可成の首が、長政の声でそう呻いたように、信長には見えた。

 喉が熱い。それでも必死の思いで息を吸い、可成の首に近づく。

 近づき、その直前で崩れ伏した。

 ―――可成をこのように惨い殺した連中は、今頃、戦果に舞い上がり、喜びの宴を催していることであろう。

 それも、楽しそうに笑いながら。

 連中の下卑た笑い声を思い起こすと、信長の腹の底に燃え盛る焔は、とうとう限界を超えた。爆発し、黒煙を上げ、感情という感情の全てを飲み込んだ。

「――――‼」

 信長の咆哮が、天を衝く。

 否―――咆哮、というには、あまりに威厳に欠けていた。悲哀と、怨念と、憤怒と、そして殺意が入り混じったその咆哮は、おそろしく甲高い。普段の信長らしい、低く落ち着いた声など微塵も、思い起こさせぬ。

 それはまさしく、幼子の叫び声そのものであった。

 幼い日の、母の暴力と孤独に耐え忍んでいた自分が、大人になってようやく、叫び声をあげたかのような。

 

 

 可成の死を告げられ、最も悲しんだのは、次男の蘭丸だった。

「父上は最後まで、勇ましく戦いました。わたくしの誇りでございます」

 信長に直接死を告げられたその時だけは、蘭丸は涙ひとつ流さなかった。

 それでも、信長が森家の屋敷を去った後には、耳鳴りのような慟哭が、森家から響き渡っていた。

 ―――森家にとって、可成はなにより尊い存在であったことだろう。

 蘭丸の泣き声が遠ざかるたびに、信長の罪悪感は募った。吉乃を失った時と同じように、心の臓を縄で締め上げられるような、苦痛だった。

 それでも、その時の信長の胸には、罪悪感以上に燃え滾っている情がある。

「おい」

 信長は落ち着いた声で、すぐ後ろにいた重臣に声をかけた。

「―――すぐに軍を立て直すぞ。準備ができ次第、あの忌まわしい寺に火を放て」

 信長の胸を焼き焦がすその情の正体は、強い殺意だった。

 この決断が、信長を“魔王”と言わしめた大虐殺―――のちの『比叡山延暦寺の焼き討ち』につながる、最初の下知である。



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