cry for the moon

風岡なつ

cry for the moon

『今夜は海月が綺麗だよ』



 オルゴールのトロイメライに、午前一時半に叩き起こされたにも関わらず、私の機嫌はすこぶる良かった。君からの久振りのメールが、たった一行でも気にならなかった。〝海月〟がクラゲなのかカイゲツなのかわからなくても関係なかった。

 とにかく、海へ向かえ。

 本能が私にだだそれだけを訴えていた。

 お前はその人をどれくらい待っていた? その人が次また現れるという保証がどこにある? 逃したくないのなら、走れ。


 深夜と言えども夏の盛り。じっとりと暑い。

 急がなくてはならないけれど、君に会うなら少しでも可愛くしたい。急かされた乙女心は、白いワンピースで手を打った。手櫛で寝乱れた髪をまとめる。

 私の忙しい足音に、冷蔵庫だけが返事をする。

『お嬢さん、お嬢さん、急ぎなさいな』

 慌てる私を、DVDレコーダーのランプだけが見つめる。

 この世界はまるで、私と君と、冷蔵庫とDVDレコーダーしかいないように静かだ。というか今は、その四人しかきっと存在していないのだ。そんなことを思いながら、弟のマウンテンバイクの鍵を手探りで探す。馴染みの猫のキーホルダーを指先が捉え、玄関へと走る。

 この世界には四人しかいないのだからこっそりする必要はどこにもないはずだけれど、私は忍び足で進んだ。途中、母のバッグに躓く。

 冷蔵庫がまた言う。

『お嬢さん、お嬢さん、気をつけて行ってらっしゃい』

「行ってきます」

 小さく返事をしてドアを閉める。深夜なだけに、戸締りは入念に。

 暗闇に浮かび上がる、玩具のようなマウンテンバイクに跨り、コンクリートの地面を強く蹴る。白いワンピースで自転車なんて、と母が見たら卒倒しかねない。でも、心配ない。この世界はたった四人で構成されていて、そのうち二人は告げ口も出来ない電化製品だ。


 夜風を切りながら坂道を滑り、海岸へと向かう。ふと空を仰ぐと、青白い、まん丸なクラゲが一人ぽっかり浮かんでいた。

「そっか、今日は、」

 日付も変わり、十五夜。満月は青白く私を照らし、急かした。

 さっきのは撤回しよう。この世界の住人は五人だ。月と私と君と、それから電化製品たち。

 見慣れているはずの海岸線も、こんな夜には別世界に見えた。どこまでが砂で、どこまでが波かの区別もつかず、融けあっていた。どこからが空で、どこからが海なのかもわからない。全ては、もう融けてしまったから。

 融けていないのは、私と月と、それからーー見覚えのある後ろ姿を、瞳が捉えた。なで肩を覆う白いシャツが、ぼうっと浮かび上がり光っているように見えた。

 ガシャン。

 押して歩いていたマウンテンバイクが手からするりと離れて、抗議するような音を立てた。傷でもついていたら大変だ、という所まで思考が廻らない。砂浜へつづく階段を駆け下りる。下りた先が海だって空だって構わない、怖くない。

 君は足音に気づいたようで、振り向いた。その手には、私がいつかあげたカバーがかかった文庫本。

「……何、読んでるの」

 三年ぶりに会ったというのに、口をついて出たのはこんな言葉だった。まるで、あの頃となにも変わらないかのように。

「老人と海」

 少し低めの君の声が鼓膜を揺さぶる。

「嘘つき」

「やっぱりバレたか」

 残念そうに笑う君に並ぶ。三年前は追いつけるはずもないと思っていた。今ではすっかり目線が一緒だ。

「久振り、瑠璃」

君の瞳が月の光を受けて優しく光る。

「どこ行ってたのよ、バカ」

「そこは名前で呼んで欲しかったなぁ」

 へらっと笑い、君は波打ち際へ歩いた。

「贅沢言わないで! バカ颯斗! 」

私も急いで後を追った。君の足跡をなぞりながら。

君は足首まで水に浸かって、空のクラゲを眺めていた。隣に並び、君の手を取って私もそれを見上げる。

「ねえ、メールの〝海月〟ってクラゲ? それとも海に映る月の事? 」

「うーん、」

君は目を瞑って、背伸びをした。クラゲはますます蒼く光る。

「どっちも、かな」

「どっちも? 」

私と目を合わせずに、君は歌うように言った。

「クラゲってさぁ、死ぬ時、次の世代に栄養を与えるために、自分の身体を海に融かすんだ。それで、こんな満月の夜には、見られるんだよ」

「見られるって、何が? 」

私はなんだか不安になって、君の手を強く握った。あの時と一緒だ、君が遠い。

「ほら、始まった」

 君が見つめていたのは、海に青白い月が映っている辺りだった。最初は、何がなんだかわからなかった。が、徐々に、ぽうっと青白いものが浮かんできた。

「……クラゲ!! 」

 クラゲたちは大きな海月から生まれ、風船のように何の規則性もなく、ぷかぷかと空に浮かんだ。幻想的なんてものじゃない。

 青白いクラゲたちは濃紺の空に吸い込まれて行く。

「クラゲたちはどこに向かっているの? 大気圏に入ったら燃えちゃわない? 」

「大丈夫だよ、役目を終えたクラゲたちだからね」

空のクラゲを見上げたまま、君は呟くように言った。

 「あぁ、そうだ」

君は繋いでいた手を離し、ポケットから何か光るものを取り出した。

「これを渡しに来たんだった」

私の手首をとって、その何かを巻く。それは、しっとりとした気持ちの良い冷たさを持っていた。月に翳すと、涙型の小さな石が付いた銀色のブレスレットが光った。

「...ムーンストーン、かな」

「そう、月の石」

 君は嬉しそうに笑って、もう一歩、海へと踏み出した。

「じゃあ、行くね」

「え……待って! 」

 血の気が引いた。また、君が、君がいなくなってしまう。走りたい。走って君の手を掴み、引き止めたい。しかし足は、鉛の沼に沈んでしまったように言うことを聞かなかった。あぁ、あの時のように君は一人で行ってしまう。

 君はまっすぐに水面を歩いた。そしてクラゲの発生源まで行き着くと、青白い光を纏って宙に浮いた。私に笑顔で手を振っているのが見える。

「待って! 颯斗! 私も行くから、ねえ! 」

 叫んでも届かないことがわかる距離でも叫ばずにはいられなかった。クラゲが、月が、夜が、私から君を攫っていく。君の白いシャツが、無数のクラゲと混じってどれがどれかわからなくなっていく。クラゲがクラゲが、クラゲが...


 私はベッドのうえでもがいていた。携帯の光に顔を顰めつつ時計を確認する。再び、一時半。トロイメライの鳴らない一時半。

 私は夢をそっくりそのままなぞった。白いワンピース、ポニーテール、玩具みたいな赤いマウンテンバイク。空には相変わらず大きな月。憎らしげな月。

 もう一度やり直せば、君を止められる気がした。止められなくとも、連れて行ってもらえる気がした。

 砂浜をいくら探しても、君はいなかった。なで肩の白シャツを、見つけることは出来なかった。世界から一人、消えてしまった。残ったのは、私と月と電化製品。なんと味気ない世界だろう。

 私は泣いた、叫んだ。

 君を返せ、返せ、返せ。クラゲたち。私の大切な人を、どうか、どうか...。

走って泣いて、小石に躓いて転んだ。指先から鮮血が流れていく。痛みも感じる。こっちが、紛う事無き現実。夢はあっちだ。

 ふと、手首に冷たさを感じ、目を疑った。君のくれた、ムーンストーンのブレスレットが月明かりを受けて優しく光っている。君の瞳の光を閉じ込めたように。





 終わりゆく恋なら、海へと融けて欲しかった。形になって残ってなんて、いて欲しくなかった。君が未練を残すから、ほら、なり損なってしまった。私は海月になり損なってしまった。この身を海に融かすことが出来なかった。

 もう少し、月に泣いてもいいだろうか。君を忘れられないでいいだろうか。後少しだけ、君の好きだった、無い物ねだりの私のままで。

 波音に紛れて、オルゴールのトロイメライが、甘い甘い頭痛を私に残していった。

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