沈まぬ傷
普段はピンと直立している両の耳を頬に付けるように垂らし、白い毛皮を濡らして、枕元に座る友は言う。
「食べてよ、ねえ… あの日から何も食べてないでしょ。ほら、これはただの野菜だよ。肉なんかじゃないよ。美味しいよ。だから、頼むから、食べて。じゃないとおじいさんまで…」
分かっている。何か食べないと友を苦しめ続けてしまうことも、私自身も生きられないことも。
だが、すまない。もう何も食べられないんだよ。
あの日、家に帰ると妻はいつも通りに私を出迎え、暖かい汁物を出してくれた。
汁物には、肉がたくさん入っていた。
私は尋ねた。
「うまいな、これ。何の肉だ?」
「ばあさんだよ」
顔を上げると、目の前にいたのは妻ではなく、あいつだった。
「じいさんがばあさん汁食ったぞー!」
あいつはそう言って笑いながら外に飛び出していった。
手にした器に目を落とした。1枚の薄くて白い楕円形の、見慣れた…手の爪が浮かんでいた。
そこまでは覚えている。
その後は、よく覚えていない。
気がついたら、友が優しい笑顔でこちらに話しかけてきていた。
「敵はちゃんととったよ。あいつはもういないから、だから、もう大丈夫だよ」と。
その光景も言葉も間違いなく記憶に残っている。
なのに、何も食べられない。
私はあの日、妻を食べて「うまい」と思ったんだ。
私はあの日、妻が死んだことで喜びを得たんだ。
あれから、「食べる」ことが怖くてたまらない。
誰よりも大切な人が殺されたことで、結果的に一時幸福になるという罪を犯した。
これから先、「食べる」たびに自分の許されざる行為を思い出してしまうから。
友は、妻を殺したあいつを泥船と共に暗い水底に沈めてくれた。
だが、この傷まで沈めることはできなかった。
きっと、誰にも沈められないんだ、この傷は。だから、きっと私はもう何も食べられない。
こんなことを言ったら、友は赤い目をさらに赤くして泣いてしまうだろうから、言えないがな。
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