その手に栄光を その1
日の出前の薄明。誰もが寝静まったこの早朝から発たなければならない。
木の椅子に座って、右膝を曲げ、伸ばす。左膝を同じように。
(……万全には程遠いな)
おぞましきトロアは、僅かに嘆息した。
この
両膝の関節を腱と骨ごと破壊したサイアノプの一撃には、一切の容赦がなかった。
後の試合の趨勢を聞く限りは、トロアはまだ幸運の部類にあったと言える。
柳の剣のソウジロウは右腿以下を切断し、絶対なるロスクレイは両脚が捻れた。
……剣士である以上は、必ずそこを狙われる。
特にトロアにとっての脚は、尋常の剣士が間合いを捌く以上の生命線であった。
「だが、八割」
ワイテでの暮らしでは、常に自分のことを自分自身で行わなければならなかった。
おぞましきトロアには味方と言えるものがなく、彼の父も、しばしば酷い手傷を自らの
まだ、成さねばならないことがある。故に他の試合を意に介さず、治療のみに専念した。第一回戦の最終日である。この日までかかった。
これだけ動けるのならば十分だろう。彼は全ての荷物を持って自室を出た。
「……」
廊下に並ぶ扉の一つ。擁立者であった第二十二将、ミジアルの部屋を見る。
魔剣使いを殺す怪物――おぞましきトロアに無邪気に憧れ、手を差し伸べた少年。
嘘偽りなく。政争や義務とは無縁の、ただ無邪気な好奇心のみで全てを決めてしまえるそのあり方を、羨ましいと感じていた。
父がトロアに託した生き方は、あるいはミジアルのような生き方だっただろうか。
ならば、いつかはそうでありたいと思う。
素直な心の赴くままに。死人ではなく、生者として生きたいと願う。
「……行くの? トロア」
扉越しに声が聞こえた。起きていたのか。
「ああ。俺はワイテに帰る。今まで世話になったな」
「ふーん……そっか」
不満げな反応が返った。それはそうだろう。勝手過ぎると、自分でも思う。
トロアは苦笑した。
「トロア。また、魔剣を集めに来るよねー?」
「……いいや。もう魔剣使いを殺したりもしない。俺はワイテの山に帰って……菜園の世話をしながら、静かに暮らそうと思う。最初から、自分のやりたいことは分かっていたんだ。こういうことは、俺で終わりだ」
「……」
「がっかりしたか? ミジアル。――本当のことを言う」
暗い廊下には、扉越しの沈黙がしばらく続いた。
何も言わずに姿を消してしまったほうが、きっと良かったのだろう。
怪談の存在らしく。おぞましきトロアの幻想を、守ったままで。
「俺はおぞましきトロアじゃない」
「……」
「体を大事にしろ。家政婦のハギワさんに作ってもらった料理、野菜を残しているな。しっかり食べろ。勉強熱心なのはいいが、夜遅くまで本を読んでいるのもよくない。お前は我儘で、誰かに迷惑をかけるかもしれない。それでも……ああ……」
トロアは、ようやく悟った。
――父が願っていたのは、そんな当たり前のことだったのだ。
「……お前らしくいろ。他の誰にもならずに、自分を、誰よりも大切にしてくれ」
「…………。ありがとね」
ベッドに横たわったままで、彼はその別れを告げた。
「まるで、本物のトロアみたいだったよ。……無茶ばっかり言って、ごめん」
「本当にな」
「ワイテに帰っても、友達でいてくれるかな」
「当たり前だ」
これが、おぞましきトロアの旅の終わりだ。
朝一番の長距離馬車で、彼は
――――――――――――――――――――――――――――――
「――奇遇だな。おぞましきトロア」
馬車の斜め向かいの席には、知った相手がいた。
それは定まった形を持たぬが、生やした仮足で小さな書物を開いている。
「“
「口もまた、筋肉と同じだ。常に動かさなければ鈍り、必要な時に必要な言葉を発せなくなる。知性ある者なら、その武器を鍛えぬ理由はない。砂の迷宮にいた頃は、書物の意味を口に出して、動かし続けるよう努めたものだ」
「今の言葉は……“
「ならばたった今。次の拳を交えても僕は構わん。やるか」
「そんな余裕は到底ないさ」
「僕もだ」
彼は次を見据えている。故にトロアと同じように、そこへ向かうのだろう。
トロアは、サイアノプの第二回戦の相手に思いを馳せた。
試合を勝っていれば、代わりにトロアが戦う筈であった敵である。
――冬のルクノカ。地上最強種たる
人の目前に初めて現れたそれは、全ての想像を絶する災厄であったと聞く。
必ず勝ち進むと思われた星馳せアルスすら……おぞましきトロアを一度殺した、彼にとって最強にして絶対の目的ですら、伝説の
「ルクノカに勝てるつもりでいるのか?」
「奴の強さの話は重々承知だ。それをこの目で確かめに行く」
「俺ならば棄権するだろう。何のために戦う。サイアノプ」
「……」
父の仇を討ち、自分自身として生きるために、最後の仕事を成し遂げる。
おぞましきトロアは、そのためだけに戦っていた。
無限の拳打と全種の魔剣。それぞれが孤独に鍛え上げた技の頂点が同質のものだったとすれば……もしも
饒舌な
「……意地だろうな」
「それは、誰もがそうだ」
「誰もが持つ理由だからこそだ」
トロアは、彼の過去を知らぬ。
最強を目指す理由も、命を削るほどの
「だからこそ、それで負けたくはない」
――他の十四名の勇者候補はどうだったろうか。
彼の知らぬ理由を、彼の知らぬ生き様を抱えて戦う者が、きっといるのだろう。
地上最強を目指す修羅なればこそ、自らの命の結論を探し続けている。
もはや戦う理由もなくなった、“本物の魔王”の死んだこの地平においてすら。
「……さて。無駄話をしている間に着いたようだ」
サイアノプが、書物を開いたままで呟く。
窓の外は一面の白に染まっていた。
馬車の壁越しに冷気が染み込んできていた。ひどく唐突な、気候の激変。
それは自然現象でもなく、長い歴史の結果でもない。
ただ一個の存在が、息を吐くほどの一瞬で変えてしまった光景だった。
トロアは溜息を吐いた。滅びの景色。
「マリ荒野。……ここが」
彼は一人で行くつもりでいる。
ここにおぞましきトロアの遺した、最後の仕事がある。
――――――――――――――――――――――――――――――
……そうして、一人で奈落を降りていく。
無論、尋常の縄梯子が届く高さではない。魔剣を用いている。
無数の楔状の鋲で構成された剣身を持ち、柄の一振りで磁力めいて配列を動かす魔剣、凶剣セルフェスク。
地割れの岸壁に鋲を突き立て、足場とする。そうして上方の鋲は再び柄へと回収していく。本来の使い方ではないとしても、殺し合いに用いるよりは余程良かろう。
「……余程良い」
一度呟く。果ての見えない地の底までの探索であったとしても、治癒したばかりの膝が悲鳴を上げているとしても、凍える大地にただ一人であったとしても。
誰かを殺して奪い取るよりは、そちらの方が余程良かった。
第二試合。星馳せアルスは冬のルクノカに敗れ、地の底にまで墜ちた。
彼が地平全土よりかき集めた、数多くの財宝と共に。
トロアの目的は……最初から、その一つ。ヒレンジンゲンの光の魔剣の他にない。
「寒いな」
孤独でいれば、むしろ饒舌になる。
サイアノプへの指摘は、他ならぬトロア自身にも当てはまるのかもしれない。
彼は孤独を厭う性質ではなかったが、これからはそうではなくなるのだろうか。
……やがて、長く続いた断崖の終わりが見えてくる。
かつてのマリ荒野には、深い地の裂け目を通って川が流れていて、その名残で、地の裂け目の底には平坦に削られた道があるのだという。
まるで地獄の最果てのような、誰も立ったことのない大地。
「……」
視界と呼吸を塞ぐかのように視界の左右に聳える壁。
細く曲がりくねった道を、トロアはしばし歩んだ。
彼には時計を持ち歩く習慣がなかったが、時刻は昼に近づいている。日が沈む前に光の魔剣を見つけ、地上へと帰還せねばならない。
ランタンに火を灯し、太陽の光届かぬ深淵を往く。
凍土が靴底でザリザリと音を立て、狭く阻む壁面の隙間を潜り。
結末を伝え聞いたミジアルの話で、その位置の目星はついている。だが、真に辿り着く保証まではない探索でもあった。
……そして。
「……見つけた……」
茶色くくすんだ鞘と、同様に薄汚れた木の柄を持つ、細身の剣。
僅かに鍔が欠けてはいたが、それは大地に投げ出されたままでいた。
ヒレンジンゲンの光の魔剣。竜鱗すらも一撃で絶つ、絶対の刃。
父が失ってしまった最強の魔剣。
そして、おぞましきトロアが求めた、自分自身の人生の最後の一欠片。
トロアは近づいた。そして、曲がりくねる道の先。
岸壁の影にうずくまるもう一つの存在を見た。
それはまるで本物の
……死をもたらす魔剣士が、最後に殺すべき敵であった。
「…………」
「……また会ったな。俺は、おぞましきトロアだ」
それは生きていた。その半身が真鍮めいた輝きの金属機械に置き換わり、生物として当然備えるべき内臓すら失い、この凍土と化した地の底で……あらゆる全てに打ち捨てられていたのだとしても。
体内で増殖し、生体を模倣し、無理矢理に駆動させる。
生命活動すら必要とせず、身体機能を使用者の意志に関わらず維持し続ける。
その冒険者が用いた魔具の一つを、チックロラックの永久機械という。
「光の魔剣を、取り立てにきたぞ」
「…………おれの、宝に」
無数の伝説を踏破した、
――星馳せアルスは、生ける翼と、金属の翼を広げた。
「さわるな」
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