第八試合 その3
戦術を立てる能力とは、選択肢を作り出す能力と言い換えても良い。
敵を正面から斬り伏せるのか。裏で策略を巡らせ、敵の勝利の道を封殺するのか。
それらの手段に優劣など存在しない。そしてこの
――だが、勝ち進むための選択肢を一つしか持たない者と、三桁以上の選択肢を準備して臨む者とがいる。
千一匹目のジギタ・ゾギはその後者にあたる。
彼は多数の兵力を用いて
ただ勝利するだけならば、その他の数十通りの手段でも可能なことだ。
化学兵器の仕掛けをこの試合に用いることには、多くの理由がある。
ホスゲンは戦闘不能と後遺症をもたらす兵器ではあるが、即座に治療を施す限りは、死に至る確率は低い。
後遺症を発症させたならば、オゾネズマを長く治療に当たらせる理由ができる。不言のウハクの肉体的な戦闘能力を奪い、同時に接触の機会を増やす。より容易く制御が可能となる。ジギタ・ゾギが必要とするものは彼の異能であって、
さらに、もう一点。
ホスゲンの比重は空気よりも重く、一度使用すれば空間に残存する。
……即ち、試合直後に彼らに近づく者に対しても、作用できる。
ならば治療の名目で、その者の体を調べる機会が生まれる。
――この戦術の標的は、不言のウハクのみではない。
――――――――――――――――――――――――――――――
(……あと一人は連れていくか?)
劇庭園地下。通路を回り込む中途で、荒野の轍のダントは足を止めた。
ジギタ・ゾギが事前に排除したはずであった、不言のウハクの擁立者――第十六将、憂いの風のノーフェルト。不審な帰還を遂げた彼の下へと向かう最中である。
(雲行きの怪しい事態と、ジギタ・ゾギは言ったな。……ならば。こちらの陣営の誰かを釣り出すための罠と、仮定してかかるべきだ)
少なくともその判断を任せられる程度には、ジギタ・ゾギはダントの能力に信頼を置いていると解釈する。
ダントの引き連れる精鋭は四名。
彼は僅かに思案し、巡回する年配の兵の一人に声をかけた。
「……第二十四将ダントだ。そこの者、いいか」
「はっ……! いかがなされましたか、ダント様」
「面映ゆい話だが、俺の兵はどうも外回りばかりでいかん。劇庭園の構造を誰も知らんようでな。案内を頼めるだろうか」
「ははあ、それはそれは! 何しろ改築に次ぐ改築で、地下は随分複雑ですから。どちらまで向かわれますか」
「第十六将の控室まで頼む」
二十九官に頼られて得意になったか、男はやや浮かれたように先に立って歩く。とはいえ、ダントとしても当然、この男を戦力として見なしているわけではない。
ノーフェルトの控室へと続く通路まで、彼はその老兵に前を守らせた。
やがて、控室前を警備する兵の一人が見える。これも劇庭園の警護を担う新兵のようである。老兵を背後に下がらせ、ダントは問い質した。
「……試合の直前に失礼する。ノーフェルトはこの中か?」
「はあ」
顔を上げた新兵の目に、ダントは言い知れぬ不安感を覚えた。
焦点が合っているようでいて、何かが違う。戦場で強い精神的ショックを受けた者の如き、胡乱な瞳だと感じた。
「どうしましたかあ、ノーフェルト様。もう試合が始まってしまいますが」
「何を言っている……」
「あー……。あれ。ノーフェルト様……ですよね?」
「……ッ! 強制捜査だ! これより控室に立ち入る!」
老兵以外の全員に、目配せ一つで戦闘陣形を組ませる。
立ちすくむ新兵を押しのけて、扉を開け放った。
……そのようなことが、果たして可能なのだろうか?
この控室に立ち入る者を、何らかの条件でノーフェルト本人であると誤認させるなどということが?
どのような技術や異能の為せる技か、ダントには想像することすらできない。
だが、この中にノーフェルト以外の何者かがいるのだとすれば。
「――誰だ!」
控室に佇む一つの影は、踏み込んだ一団へと視線を向けた。
一瞬。それは歯を見せて、ニイと嗤ったようであった。
「ダント様ぐッ」
石畳を割る、踏み込みの爆音が響いた。精鋭の一人がダントを守った――彼の喉は一撃で抉られて、その内奥の頚椎までもが削がれていた。
素手の、指である。
「ハイゼスタ……!」
「……フ」
護衛兵の影で剣を抜きながら、ダントは歯軋りした。
(なぜ、ここに――致命傷だ)
思考の一つを巡らせる間に、影は視界の右端に消えた。その速度で、
死に体の護衛兵の左肩を自らの肩で軽く押し出しつつ、ダントは右手に抜いた剣を振るおうとした。
その抵抗の動作も、途中で止まった。
「遅い」
(一撃で、致命傷を)
右指が、剣身を二指で摘んで停止せしめていた。
ハイゼスタほどの強者であれば、それが可能なのであろう。
ダントは低く呟いた。
「すまんな」
背後から左肩を押された護衛兵は、大きく右回りに態勢を崩しながら倒れる。
次の瞬間、恐るべき速度で射出されたハイゼスタの貫手への盾となった。
既にダントは右手の柄を離している。最初からそのようにするつもりでいた。彼は倒れゆく護衛兵の提げる剣の柄を掴んで、抜き打ちに斬った。
数本の肋骨を断って、肺の一つを切断したことが分かった。
「……!」
獣めいた笑みを浮かべたままで、第十五将は崩れた。
薄氷。閉所における近接戦では、勝ち目のない実力の開きが本来はあったはずだ。
「……なんだ、これは……!」
血溜まりに沈んだハイゼスタを見下ろして、ダントは奥歯を噛んだ。
ノーフェルトの存在を誤認するよう暗示された兵士。
ダントの到達を待ち構えていた第十五将、
誤認の条件は、恐らくは同じ
やはり、ジギタ・ゾギの策は完璧だった。憂いの風のノーフェルトは、最初から到達などしていない。ただ、そこに到達したかのように報告されただけだった。
そして戦術家の想定を覆すほどの、途轍もなく異常な事態が発生している。
彼は最後列に震える老兵を見やった。
「貴様、見たか!」
「そう言われましても……速すぎて細かいことはとても……それに……い、今の方は、ハイゼスタ様なのでは……!」
「――十分だ。貴様が証言しろ! 第十五将が突如乱心! 兵士の殺害に及んだため、俺がやむなく反撃したッ! 正当性はこの荒野の轍のダントにある!」
「ひ、わ、分かり……ました……!」
ダントの掛けた保険が功を奏した。私兵ではない第三者を証言者として連れる。
一撃で仕留める傷であれば、敵から先に攻撃を仕掛けたことの確実な証明になる。
敵は一人だった。恐るべきことに、この状況を仕掛けた者が狙った策は……間違いなく、ヒロト陣営の関係者の抹殺などではない。
その者に、第十五将殺害の罪を着せること。
「クソッ……気に食わない……! 何が起こった! 誰が、何をしているのだッ!」
荒野の轍のダントの、それが限界点なのだと分かる。
彼にはジギタ・ゾギのような戦術眼も、ヒロトのような大局観もない。
まったく時間がない。果たして、この事実が試合の最中に間に合うかどうか。
「すぐに伝えろ! 現在、第十六将ノーフェルト不在で第八試合が行われている!」
一切の我を見せたことのないというその
「不言のウハクは不正参加者だ!」
――――――――――――――――――――――――――――――
「皆の者。不言のウハクは生まれながらに、音の聞こえぬ枷を背負っている! それはウハク本人の咎ではなく、彼が人を喰らう
常のような試合条件に前置きして、囁かれしミーカはそのように告げた。
無論、ノーフェルトはそのように説明しているのであろう。不言のウハクは
彼は何不自由なく、人の発する音声を知覚している。
それを解釈するべき
恐らくは……この一つの事実が
十五名の内で誰よりも強力な鬼札は、同時に誰よりも脆弱な札でもある。
「片方が倒れ起き上がらぬこと。片方が自らの口にて敗北を認めること。この二つにて勝敗を定め、全ての武器と全ての技を、ここに認めます。二つに当てはまらぬ勝敗は、この囁かれしミーカの裁定に委ねさせていただく。各々、よろしいか!」
両者の間に立つミーカが、何度めかの
補佐の兵は一枚の書面をウハクに手渡し、彼の首肯を以て同意を確認した。
(……囁かれしミーカ。その挺身に、アタシは敬意を表しますよ)
陰謀渦巻く
それでも、勝敗に大きな決定権を有する彼女を狙った不逞の勢力は、二つや三つでは到底済まなかったはずだ。敗北した勇者候補者の恨みを買うことすらあり得た。
囁かれしミーカは、他の二十九官とは比較にならぬ脅威の矢面に立たされている。
そしてついに、彼女は尋常の状態ではなくなってしまった。
彼女を調べさえすれば、その証拠までを挙げることができる。
ジギタ・ゾギは、既にそのことまでを把握していた。
(けれど、アタシにはようく分かります。どうして、そこまでの危険を冒すのか)
他の者には任せておけないからだ。
自分の他の者がこの場に立てば、僅かな一つの失言が
ジギタ・ゾギにはそれが理解できる。それは、傑出故に抱える重責と危険だ。
彼らの種族は、この十年で驚くほどに賢くなった。しかし、それでも
勇者として表に立つ者は、如何なる取引にも屈することなく、判断を決して違えることのない者――即ち、自分自身でなければ。
「不言のウハクの合意を認めた! 千一匹目のジギタ・ゾギ! そちらは、この
「ええ。その条件で、やらせていただきましょう」
「楽隊の砲火とともに開始とする! 両者、備えよ!」
ミーカの大柄な体が、地下通路の奥へと消えていく。
ジギタ・ゾギは、右掌の内に金属の栓を握り込んでいる。
彼の戦術は反則ではない。それは、敵対勢力の付け入る隙となり得るからだ。
しかし、これは
楽隊の発砲音が響いた。ウハクの突進の初動が見える。
しかし栓を捻り、ガスの弁を開放するまで、瞬きほどの間も――
「……」
動けない。
(――アタシとしたことが)
筋肉は、完全に硬直していた。指先一本すら動かすことができなかった。
灰色の
その死に際の思考速度を以て、誰よりも優れた脳細胞を以て、彼は考えていた。
(さて。食事。傷。あるいは虫。しっくり来ませんな。ああ……なるほど。血。血の匂い。ならば前提が違っていた。予測できるわけもなしと……まったく。これが、敵さんの正体。ようやく……これで、勝ち目が)
彼は千一位匹目の、誰よりも傑出した天才であった。
その命の最後まで、戦術と対策を考え、そして。
(しかし、ああ。ヒロト殿にはどう伝えたものか。まったく、これはもはや――)
無骨な木の棍が、目前に迫っている。彼は一切の動作を許されていない。
誰よりも正しき解答に辿り着いていながら、それを伝える術は。
(――手詰まりです。すみませ)
野蛮な質量が、厚い鉄兜ごとその頭蓋を砕いた。
逆理のヒロトが待ち望んだ夢。
その頭脳はただの薄桃の血肉と化して、砂の地面に飛び散った。
――――――――――――――――――――――――――――――
試合終了を告げる悲鳴と歓声を遠くに聞きながら、リナリスは広場の時計を見た。
城下劇庭園ではない。いつかユノと食事を共にしたテラスの一席だ。
あるいはハイゼスタが、この席で城下劇庭園を見張っていたこともある。
最大の敵の喪失に笑むことなく、むしろ憂いを帯びて、令嬢は呟く。
「……さようなら。ジギタ・ゾギさま」
戦術を立てる能力とは、選択肢を作り出す能力と言い換えても良い。
“黒曜の瞳”が積み上げてきた、膨大な情報がある。
城下劇庭園の兵の勤務形態はどうであったか。候補者の内で、ジギタ・ゾギの陣営が利用する者がいるとすれば誰か。ジギタ・ゾギを確実に暗殺し、決して関与を疑われぬ機会はあるのか。
ジギタ・ゾギ程の策士に手を出したならば、その攻撃は必ず裏をかかれ、逆の道を辿られる。そうして、秘密であるべき彼女たちの正体にその手が届く。……ならば彼に手を下すべきは、“黒曜の瞳”ではない。
彼を確実に暗殺でき、それでいて関与を疑われぬ者は、ただ一人。
それは第八試合の対戦相手。不言のウハクに他ならない。
第三試合の最中に、全ての準備を完了させている。
鍵をすり替え、劇庭園に自らの洗脳した兵が出入りできるようにした。
詰めている兵の名と勤務形態を確認し、主だった者を
故にこの第八試合において、彼女自身は劇庭園に立ち入る必要すらなかった。
千里鏡のエヌには、そのために測量をさせていたのだから。
「これで、二つ」
それは賢しい手段である必要はない。
むしろジギタ・ゾギが裏をかけぬほどに、単純なものでなければ。
――同じ頃。
劇庭園の中では一人の兵が、それを暖炉の中へと放り込んでいる。
負傷の包帯の内に隠した……自分のものではない、真新しい血に浸った布。
空気を介してジギタ・ゾギを冒した、その病原を。
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