第八試合 その2
“本物の魔王”の時代。
その時代の終わりに、男と魔獣は一年の旅を続けた。求めるものを見つけ出せる確証すらない、行き先の当てもない旅だった。
それでも、決して辛い旅ではなかった。移り気なオゾネズマには脅威を寄せ付けぬ力があり、漂う羅針のオルクトには心を癒やす歌があった。
「――斯くて地平に慈雨注ぎ/兵の剣は今こそ落ちる/ああ誰ぞ疑いあらん/命とかえた姫の至心/康寧なる世/そのうつくしき願い……」
オゾネズマは目を閉じて、楽器の最後の余韻が終わるまで、彼の歌を聞いた。
戦闘のために生まれ、ただ殺戮を続けてきた獣が、その音色だけで救われるように思えた。
まるで魔法のように、歌が恐怖を癒した。
「……。猪がいるな」
「アア」
森の只中である。街道脇を下った木陰で休む獣の気配に、危機に鈍いオルクトも気がついていたようだった。
オゾネズマには数すら分かる。四頭。あるいは、親子の群れなのだろう。
「攻撃意思ハナイ。放ッテオクガイイ」
「フ! 自慢じゃねえけどな? ……獣だって俺の歌を聞く。なら、もしかしたら魔王にだって勝てると思わないか?」
「アリ得ナイ」
漂う羅針のオルクトの歌には、確かに力があった。
心持たぬ獣すらも調べの美しさに魅せられ、彼らの足や翼を止める。明白に敵対意思を持つ者の攻撃が、それで緩んだ様も見た。
魔の域に手をかける音楽の素晴らしさを認めつつも、彼の試みを無謀だと思う。
もっとも、その試みにこうして付き合っているオゾネズマ自身も、彼と同様の無謀であることは変わりなかった。
「コノヨウナ方法デ、本当ニ見ツカルノカ? 君ノ求メテイルヨウナモノガ――」
「本当のところは、
「……到着ハ夕刻ダ。少シバカリ足ヲ早メタ方ガ良イナ」
一つの街から、また一つの街へ。オルクトは歌で路銀を稼ぎ、成果を確認した後に次の街へと向かう。
流れ者の詩人が常に歓迎される街ばかりではない。オゾネズマがこうして傍らで守ることのできない町中の方が、道中よりも却って危険であることが多かった。間一髪で助けが間に合った状況も、一度や二度ではない。
誰もを驚かせる歌の才能と引き換えにしてか、戦士としてのオルクトは、呆れるほどに弱い。恵まれた体格を持ちながら、技も判断も絶望的に遅いのだ。そのような男が“本物の魔王”を倒すための旅を続けているというのは、誰の目からもひどい冗談のように思えただろう。
「オルクト。モシモ見ツカラナカッタラ、ドウナル」
「その時は、俺たちはおしまいかもしれないな。全部が無駄足になって……でも、それだけで済む。それとも他の誰かが、“本物の魔王”を倒してくれるか? 俺たちみたいにバカなことをやってる連中は、他にもいるだろうさ」
「……マトモデハナイ方法、カ……」
「知ってるか? どこかの頭のいい奴が、毒で魔王を倒そうとしたんだとさ……。“本物の魔王”に挑もうとした英雄の荷袋に揮発する毒を仕込んで、その野郎ごと殺そうとしたって話だ。英雄が何も知らないうちに近づけば、それだけで魔王が死ぬようにな」
「……。ドウナッタ」
「夜のうちに、そいつは自分で荷袋を開けた。罠にかけようとした英雄ごと、同じ建物の連中を巻き込んで死んだらしい」
魔王の恐怖は、それに抗おうとする意思こそを摘む。
憎むべき全ての敵を倒してしまうことを、彼ら自身が恐れるのだ。たとえ
遠隔操作であれば良いのか。“本物の魔王”を知覚せねば良いのか。この二十五年間、人の思いつくありとあらゆる手段が尽くされてきたに違いなかった。
“最初の一行”すらも敗れたのだ。オゾネズマを創造した色彩のイジックまでもが。あの時の七人に勝てなかったのならば、どれほどの強者であっても、“本物の魔王”に指一本触れることは不可能なのだろう。
だから実際のところ彼らの探索は、敵を打ち倒す方法が見つけ出せぬまま、得体の知れないまじないに縋るようなものだ。
追い詰められた弱者がそうするようなことを、彼らはしている。
(不思議ダ)
道を往くオルクトの背について歩きながら、オゾネズマは思う。
生まれて初めて仲間と共にした旅は、決して辛い旅路ではなかった。
(コレホド無謀ナノニ、絶望ノ探索デナイヨウニ思エル――アルイハ本当ニ……)
――果たして一年の終わりに、彼らはそれと出会う。
他の誰にも見つけることができなかったであろう存在を、オルクトは見つけた。
彼の自信の源は、歌唱の才能が与えた天啓の一つであったか。
あるいは、残酷な運命の一部だったか。
今となっては誰にも分からないことだ。
――――――――――――――――――――――――――――――
ただ二人の旅の仲間は、今は三人に増えていた。
それを伝える術を持たない彼は、本来はどのような名を持っていたのだろう。
あるいは、最初からそのようなものを必要としていなかったのか。
彼が自ら何かを主張することは、一切なかった。
それでも、彼は何も言わずにオルクトの旅に同行した。
心持たぬ獣ですらそうであるように……
危機に際してはオゾネズマと共に邪悪を討ち、
「……クタ白銀街。ここが、クタだ。間違いない」
焼け残った店の看板の一つを見て、オルクトは引き攣った笑いを浮かべた。
人と活気に溢れ、訪れるたびに新たな建物が建つ、“形の変わる街”。
確かに、そうだったのだろう。今は変わり果ててしまった。全てが。
「カツテハ、駒柱ノシンジ、トイウ男ガ持チ堪エテイタ。彼ヲ喪ッタ以上ハ、コノ失陥モ必然ノ結果ダ。“本物ノ魔王”ノ脅威ノ前デハ、街ノ規模ナド全ク関係ガナイ」
「分かってる。分かってたつもりだったが……こうして目の前にすると、やっぱり相当クるな……」
変わり果ててしまった街の様相のみが原因でないことは明白だった。
陰惨な血に塗れ、死苦の痕跡が至る場に残され、全てが終わってしまった街。
ここに魔王がいる。地平を暗黒の恐怖に追いやろうとしている、その元凶が。
「……オゾネズマ。魔王がどこにいるかは、分かるか……」
「……」
オゾネズマは冷静だ。足を止めて動かずにいる。
恐怖の根源が分かる。死の沈黙の只中で、ただ一つ佇む生命の気配。
そちらを向きたくない。近づきたくない。
生まれて以来敗北を知らぬ獣は、勇気の機能だけは持たされていなかった。
傍らにはオルクトがいて、セテラは油断なく背後を守っている。
それでも恐ろしかった。
「セテラ……」
「…………」
その
心を蝕むこの恐怖の中にあって、呻き声一つ上げずにいる。
彼は自らの意志で、あらゆる
明らかに
物理法則という一つの法の外にある全てを否定し、
全てを否定する力。何も起こさない力。
果たして、その程度で“本物の魔王”を倒すことなど可能なのか?
「……オルクト。ヤハリ、コノ試ミハ、無謀ダ」
「ははは……なんだ、オゾネズマ。今更怖気づいたか」
「――ソノ通リダ。君ハ、ソウデハナイノカ」
足を止めて動かずにいる。それ以上を進むことができなかった。
発汗。鼓動。呼吸。隣に立つオルクトが恐怖していることも分かっている。
戦士ならぬ彼にとって、それだけで命を脅かしかねない恐れであるはずであった。
……何も見なかったことにすればいい。
彼らの旅路が無駄であったことにすればいい。
それは旅を始める前の彼らと何も変わらない暮らしに戻るだけで、誰にも非難される謂れはない。そもそも、彼らの方法が本当に魔王を倒せるものかどうか、確信すら持ててはいない。
ただそうするだけで、死よりも恐ろしい絶望を味わうことはない。簡単なことだ。
いずれこの世界は滅ぶかもしれないが、彼らが背負う義務などどこにもない。
「…………ウ、ウゥゥ……」
――ここまで辿り着いたのに。
木漏れ日の街道で、オルクトの奏でる曲を聞いた。
市民の歓声を遠くから眺めて、自分自身のことのように誇らしく思いもした。
彼ら自身すら信じられていなかった不可能の探索を、ついに成し遂げた。
血と殺戮の責務から解き放たれて、初めて見ることのできた、美しい世界。
冒険の日々がこのような結末のためにあったと、信じたくはない。
この先には絶望しかない。
「セテラ……!」
苛立ったように、彼に視線を向ける。彼に
彼は沈黙を保ったままだ。静かにその場に佇み、やはり進む様子はない。
ならばきっと、彼らの探索は間違っていたのだ。
セテラが恐怖の前に動かずにいるということは、その証明ではないのか。
「は、ははは……いつか……いつか、言ったよな。オゾネズマ」
死ぬのだ。この先に進めば死ぬのだと、明白に理解できる。
それをオルクトが理解できていないはずがない。
「今は進まずにいても、いつか戦いに来る。お前に言ったその強がりを……じゃあ、今の俺が守れなくて、どうする……」
「駄目ダ……! 待ッテクレ……待ツンダ……! 勝チ目ナドナイ! 最初カラ、全テ失敗ダッタ……!」
先頭に立って踏み出すことで、オゾネズマたちが進む勇気を与えようとしていると分かった。戦士としての力も持ち合わせない、彼はただの詩人だというのに。
「私ハ、行ケナイ! スマナイ……スマナイ、オルクト……!」
「そうか。そうだな。そりゃそうだ。……まあ、いい。俺には分かってるさ……オゾネズマ。俺の勝手に付き合わせて、悪かったな。セテラをよろしく頼む」
伏せた巨獣の頭に手を置いて、詩人は笑った。そして歩いて行く。
足を止めて欲しいといくら願っても、オルクトは止まらなかった。
多くの……あまりにも多くの英雄が、そのようにして死んでいった。
ああ。どうして、人は勇気を出そうなどと思ってしまうのだろう。
「――お前には勇気があるよ。ずっと一緒にいて、それが分かった」
「……ッ」
オゾネズマは進もうとした。前に二歩、よろめくように進んだ。
それ以上を動けなかった。彼が追いつかなければ、オルクトは死ぬ。
「これも最初に言ったよな! もしもお前らが来なくたって、やってやるとも!」
死の只中の光景で、彼は両手を大きく広げた。
無敵の
後姿が遠ざかっていく。遠い。ただの
「俺の音楽で、“本物の魔王”を感動させてやるのさ!」
あまりにも荒唐無稽な言葉に、男自身が笑った。
――――――――――――――――――――――――――――――
……その最後の戦いは、“最初の一行”とは異なっている。
“本物の魔王”には、ただ一人だけが挑んだ。
漂う羅針のオルクト。その男は、武器を提げていない。
明白過ぎる恐怖の気配を追って、彼はこの一戸の家にまで辿り着いていた。
何の変哲もない住宅だ。赤い屋根。白い壁。そして緑の庭。
とうに住民の姿は絶えて、荒れ果てた住宅街にあって、その家だけがむしろ小奇麗といってもいいほどの姿を保っていた。
庭には細く干からびた誰かの死体が倒れているようだったが、それだけだった。
それが、魔王の最後の城。
「……何食って生きてんだかな。まったく」
オルクトは皮肉げに笑おうとしたが、くぐもった掠れ声が漏れるだけで、表情筋は到底追いついてはくれなかった。
“本物の魔王”の恐怖に狂わぬままここまで到達できたのならば、英雄たる資格が自分にもあるのだと、そう思い込もうとする。共に歩む仲間がいない今、自信に満ち溢れた虚勢を張る意味もなかったが、他でもない自分のためにそうする必要があった。
震える手で、扉のノブへと手をかける。
もしも鍵がかかっていたのなら、十分に彼が引き返す理由になっただろう。
だが、そうはならなかった。
「ぐぶっ、うう」
オルクトは嘔吐した。あまりの恐怖に、立ってすらいられなかった。
“本物の魔王”は姿を現してすらいない。英雄ならぬ彼の心は、それで折れた。
逃げたい。すぐにでもこの場から離れようと思った。
「う、うう……はっ、ははは……はは……」
諦観の笑いだ。引き返すことすらできなくなっていることに気付いたからだ。
一度そこに辿り着いてしまった彼に、もう他の道はないのだ。
倒すこともできない。逃れることもできない。
何故なら、恐ろしいから。
すぐさま逃避すべき危機に対して、肉体は硬直する。考えてはならない事柄に、むしろ思考は埋め尽くされる。その一つの理不尽に、合理性など欠片も存在しない。
忌避すべきものを、受け入れてしまう。すべきでないことをさせられる。
恐れなければならないと思う者などどこにもいないのに、その心の機能を持たぬ者はいない。
――世界の何よりも身近で、逃れられない、ありふれた矛盾がある。
“恐怖”という感情。
「……こんなに、はは、こんなに……どうしようも、ないのか……じょ、冗談だろ……はっ、ははは……くはははは……」
絶望と情けなさで笑いながら、それでもオルクトは家の廊下を這って進んだ。
それが最も凄惨な末路に繋がることを分かっていながら、そうせざるを得ない。
「ああ……声……ちくしょう、声が……掠れちまって……」
その廊下は、ごく一般的なリビングに通じている。
家具はそのまま残されている。テーブルを囲む椅子と、一回り小さな木製の椅子。
きっと幸せな家族だったのだろう。それが分かる。
一つの椅子に、それが座っていた。
黒く、長く、艶やかな髪。
何をするでもなく、それは窓の外の青空を見ている。
「いい天気だね」
ゆっくりと振り向く頬の動きに遅れて、髪はさらさらと流れる。
ほつれ一つない、黒のセーラー服。彼女はあり得るべき存在ではない。
全ての光を吸い込むような目がオルクトを見て、笑った。
「名前を聞かせて?」
オルクトは、呼吸の仕方を思い出そうとした。ごぼごぼという音だけが漏れた。僅かに血の混じった泡が漏れた。筋肉のひどい緊張で、喉の奥のどこかの血管が破れたのだと分かった。
「あ、あんた」
――そうだ。最初から分かっている。
“本物の魔王”は、本人は無力な、ただの少女だ。
オルクトの歌は、恐怖に狂った者を僅かに……ほんの一時、癒やすことができる。
恐怖の中では決して語ることのできない真実を語らせることができる。
オルクトの旅は、“本物の魔王”と直接相対して帰還したごく僅かな
他の誰も思いもよらない、“本物の魔王”を倒すための旅だった。
「……歌……歌は、聞いたことがあるか……」
「……」
彼は覚えている。
全ての生命を震わせる歌の力で、“本物の魔王”を倒すべき勇者を探す。
彼の荒唐無稽な計画を、ただ一体笑うことのなかった、オゾネズマとの旅路を。
幾度とない危機を、その強さに救われてきたことを。
そして……まるで奇跡のように、求め続けた可能性に出会ったことを。
誰よりも多くの歌を、オゾネズマに聞かせたことを。
ただ一人で音楽を紡ぐだけでは、詩人は救われはしない。
ならばそれを聞く者がいつでも傍らにいた、オルクトの旅は――
「……それとも……なあ……? う、歌なんか……忘れちまったか……」
震える指で、彼は床に転がる食事用のナイフを手に取っていた。
自分が何をするつもりなのか、オルクトは理解している。
恐怖に涙が溢れた。歌を聞かせたいと思う。
ただ歌いさえすれば、この少女すらも感動させられるのかもしれなかった。
「かわいそうなやつだ」
そして自身の喉笛を引き裂いた。
地平の誰よりも優れた歌を紡いだ喉は、心持たぬ獣にすら通ずる声は、鈍い刃に引き破れて、醜い筋繊維として絡んだ。
気道からは無残な笛のように呼気が漏れて、それは歌ではなかった。
「歌……ああ、歌か……」
自らの最大の誇りを喪い、絶望と苦悶に死にゆく男を、ただ見下ろす。
皮肉なほどに綺麗な声で、少女は上の空で呟いている。
「……また、聞きたいな」
オルクトの旅は、それで終わった。
何一つ残すことなく。一切の報いを与えられず。
ただ一つを除いて。
「――オルクト!」
詩人の死を前にして、それは遅きに失した。けれど青空を映していた窓に影が差し……破砕とともに巨体が飛び込んできたのは、一瞬だった。
巨大な狼のようでもあるが、蒼銀の光を灯す毛並みは自然のそれではない。
致死的な質量を持つ巨獣は少女の細い体を自ら避けた。
そして恐怖に硬直した。
その
それでも、彼はここまで辿り着くことができた。
「ウ、アアアッ……アアアアアアアアッ!」
彼は覚えている。
その詩人が、誰よりも多くの歌を歌ってきたことを。
伝説の英雄が強大な魔獣を倒す、偉大なる物語を。
無力な者が力ある者に立ち向かうことのできる尊さを。
勇気の歌を。
「魔王……! 貴様……貴様ダケハッ! グ、ウウウッ……!」
とうに恐怖に折れた心で、それでもオゾネズマは進もうとした。
今やその足は、一歩も進まなかった。
“本物の魔王”は彼を見てすらいない。既に息絶えた詩人を見下ろしているだけだ。
「ウ、ウウ……ウ……!」
瞬きの間に、この少女を裂断できる。ありとあらゆる手段で殺すことができる。
けれどオゾネズマには……永劫、その機会は与えられない。
最初からそのように定まっている。
殺す手段がどれほど備わっていようと、その引き金を引く意思が恐れるのだ。
全てを忘れるほどの衝動も、果てしない計画も、絶大量の爆薬も、小さな短剣も、“彼方”の全ての手段も、この地平の全ての手段も。
「アアアアァッ! 貴様ヲ……魔王……! 倒シ……倒シテ……!」
……だが。彼らは果たして、真に無力なままだっただろうか。
誰もが、その一つのことだけはできた。
誰もが、明らかにそう願うことができた。
「ああ……ああ、歌……」
「――倒シテクレッ! セテラ!」
オゾネズマにもそれができた。
誰かに託すということ。
自分ではなく……勇者が魔王を倒してくれるのだと、ただ信じるということ。
灰色の
“本物の魔王”は、初めて振り返った。
信じられないほどに美しくて、そして悲しげな顔。
どの世界にも、存在を許されなかった“
少女は唇を開いた。
「――」
無骨な棍の質量が頭部を割った。
セテラの振り下ろした一撃は、床板すらも砕いた。
グジュリ、とおぞましい水音が散った。
地平の全てを恐れさせた全ての敵がいた。
誰も抗うことのできない、恐怖と惨劇だけを世界にもたらす、ただ一人の敵。
“本物の魔王”は――今や頭頂から腰までが、混然とした骨肉へと変わっていた。
まだ床に立っていた白い両脚が、くたりと遅れて倒れた。
「ハァーッ、ハァーッ! ア……アアア……」
息を荒げて、オゾネズマは怯えた。怯え続けていた。
セテラが、“本物の魔王”を殺した。
誰もが恐れ、誰もが成し得なかった、真に称えるべき偉業を。
「ソンナ、マサカ……! セテラ……」
それでも、恐怖していた。
理解してしまったからだ。セテラが何者なのか。オルクトが何を成し遂げたのか。
“本物の魔王”の最後の一言は、オゾネズマの知らぬ言語だった。
ならばオゾネズマの背から飛び出したあの時に、セテラは異能を否定していたはずだった。その一瞥で、全ての法則は正しく働くはずだった。
“本物の魔王”の恐怖は持続し続けていた。今も。
――原因の存在しない恐怖を、打ち消せるはずなどない。
「セテラ……君、君ハ……」
静かで、深い思慮を湛えて、哀悼しているかのように、見える。
――実験は成功だ。
オルクトは何を試し続けていたのか。
彼の歌は、遍く存在に届く音楽だった。
魔王の恐怖に狂った者。心持たぬはずの獣ですら。
もしも……“本物の魔王”に恐怖する心と、感情を揺るがす歌を感受する心が、同一の根源を持つものなのだとすれば。
ただ街を渡り歩き、人々に歌を聞かせ続けてきた彼が、真に求める存在があったとすれば……それは決して、あらゆる異能を打ち消し、絶大な身体能力で敵を打ち倒す、無敵の
彼はずっと観察していた。歌への反応ではない……その逆。
歌が聞こえていながらも、心の奥底でまったく反応していない者を。
「オルクト……ア、アアア……! スマナイ……スマナイ……!」
とうに死したオルクトへと向かって、オゾネズマは詫び続けた。
間に合わなかった。
自分には勇気などなかった。否。この世界の誰も、“最後の一行”の誰も、“本物の魔王”に抗う真の勇気など、持ち合わせられるはずがなかった。
そうでなければ、そんな恐ろしい考えが過ぎるはずがない。
「ウ……嫌ダ、アアッ、アアアアッ! 嫌ダ……嫌ダ……ッ!」
オゾネズマの視界の先に、壁際まで千切れ飛んだ白い腕がある。
無残に潰れ果てた体とは違って、とても状態のいい、綺麗な腕だ。
接合したとしても……きっと、動かすことが、できそうなほどに。
「アアアアアッ……コンナ、コンナ……冒涜ヲ……オルクト、スマナイ……!」
セテラが、“本物の魔王”の死体を貪り食っている。
自分自身の手で殺したものを、食らっている。
少しでも恐怖を感じる者ならば、決して不可能なことを。
それは紛れもなく、独立した一つの存在であった。遠隔操作の機械でも、使役される
だからこそ彼らは、魔王を倒すという願いを託すことができた。
だが……それはこの地上に、本来あり得ないはずの存在だった。
――外なるセテラ。哲学的な意味で、死者に等しかったのだ。最初から。
「…………」
「セテラ! セテラ! ハーッ、ハァーッ……キ、貴様ハ……!」
その言葉は、永遠に誰の心にも届かないと分かっていた。
「貴様ハ、何ナンダ!」
……三年前。漂う羅針のオルクトという名の男がいた。
暗黒の時代。“本物の魔王”によって惨殺された、数多い英雄の一人である。
歌声を響かせることすらできず、彼はその名を残さず死んでいくことになる。
しかし。彼はついに、勇者を見つけた。
全ての心を通ずる
――――――――――――――――――――――――――――――
――あいつ本当は……全部憎んでるよ。この世の全部。
――いや。あんたは、そういうこと考えたりはしないか。
――ウハク。あなたには心があります。私達と何も変わらない、心が。
――――――――――――――――――――――――――――――
それは生まれつき
それは自らの見る現実を他者へと同じく突きつける、真なる解呪の力を持つ。
それは厳然たる現実としての強さと大きさを持つ、ただの
そして、それは最初から――
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