第二部 六合上覧

黄都 その1

 金色の光だった。


 川の対岸に溢れていた灯りの海。

 それは馬車が橋へと向きを変えた時に、キアの見る視界を埋め尽くして、道の両側いっぱいに並んだ。

 イータ樹海道では見たこともなかった、星よりも力強い地上の光。


「すっごい……! まるで昼間みたい!」


 キアはその小さな体を、客車から落ちんばかりに乗り出していた。

 吊り気味の碧眼は、鏡のようにその夜景を映している。

 信じられなかった。とうに日の落ちた暗闇の夜に、これだけの光が浮かんでいる。

 皆起きているのだ。働いているのだ。一体、何をしているのだろう?


「はっはっは。どうだ嬢ちゃん! すごいもんだろう、黄都こうとは!」


 エレアならば咎めたような行いに対しても、年配の御者は上機嫌に返した。

 彼もまた、このきらびやかな黄都こうとが誇らしかったのかもしれない。


「あの光、何をしているか分かるかい。獣の脂とか薪なんかじゃねえぞォ!」

「――ガスよ! ガス燈! 熱術ねつじゅつがなくても燃える空気! すぐ近くのマリ地孔から、管を……鉄の管を通して! それを燃やしてるの! ねっ、そうよね!」

「おうおう、なんだ嬢ちゃん! ちっちゃいのに俺なんかよりずっと分かってるんじゃねえか! はっはっは! 俺もそこまで知らなかったよ!」


 金色の光。今まで通り過ぎてきた町並みのランプとは、こんなに違う。

 それはきっと、ガスの光だからなのだ。


「エレア……ん、腹黒先生にね、習ったの! ギミナ市で見送ってた人よ」

「おう、あの物凄え別嬪さんかい! そりゃ羨ましいなあ! 人生やり直せるんなら、俺もあんな先生に教わりたいもんだ!」

「別に、ぜーんぜん、ついてこなくてよかったけど! あの人がついてきてたら、絶対絶対、横でうるさいんだもの!」


 走り続けていた馬車は、ついに異世界のような光の只中へと飛び込んだ。

 土の道とは違う、整然と整えられた、まっすぐな煉瓦の道。

 きっと、これは市場だ。赤。緑。ガス燈の金色に照らされた色彩の数々が、人の声が、一つ一つを目に留められないほどにたくさん、キアの両側を流れていく。


「カイディヘイの特等羊肉は今日いっぱいまでだ! 今より安くは買えねえぞ!」

「ご存知ですか!? 正真正銘! “彼方”の最新機構! “双眼鏡”をお試しあれ!」

「さあさあ、今夜を“青の甲虫亭”で過ごしたい奴はいないかい!? ミナツ水源街からの本物の詩人が歌うぞ!」


 誰もがうるさいほどに声を張り上げ、自分が生きていることを主張している。

 静かで穏やかだった彼女の故郷とは正反対で、けれど素晴らしい喧騒。


「ねえ、これ……これって、全部、本物のお店なの!?」

「そりゃそうさ! 他の街じゃあ見たことなかったかい!」

「でも、こんなにいっぱい……お、お客さんが足りなくなるじゃない! 小一ヶ月かけても、全部見て回れないわ!」

「はっはっはっは! いるんだよ! ここにはなぁ、たくさん人がいるんだ! 小一ヶ月どころか――一年かけたって、黄都こうとの全部なんて、見て回れやしないさ!」


 馬車が止まった。再び身を乗り出して眺めると、小さな旗を横に突き出す鉄の柱が見える。

 格子模様の旗は、柱の振り子機構で、カシャン、という軽い音を立てて下がった。

 そのようにして、十字路を縱橫に行き交う馬車の流れを導いているのだった。


「あんなの、知らない……! 授業でも聞いたことない!」


 そうだ。キアの馬車だけではない。沢山の馬車が、路地を行き交っている。

 四台もの馬車がすれ違えるほどの道幅が、どこに行っても広がっている。

 稀に、馬の牽かない馬車が白煙とともにすぐ横を通り過ぎて、キアを驚かせた。


 見上げるような大きな住宅が立ち並ぶ一角に入っていく。

 市場ではないのに、やはり夜の街を歩む人達がいて、道は明るく照らされている。


 そこに暮らす人々の姿形は、どれも違っている。ただ、色とりどりの衣装のせいでそう見えるのではない。

 人間ミニア森人エルフ山人ドワーフ小人レプラコーン砂人ズメウ

 この黄都こうとには……世界最大の都市には、全ての人族じんぞくがいるのだろうか?


 授業で聞いた物事だけではない。信じられないくらい、知らないものばかりがここにはある。


「見ろ、嬢ちゃん! あれが王宮だ! セフィト様の王宮だよ!」

「王宮……!?」


 馬車は、一際大きい道へと抜けたようであった。

 その先には白く照らされた、とても大きくて、美しい城がある。

 眩い光が大きな堀に鏡写しになって、色とりどりの太陽が列を成したかのように、それは美しかった。

 “本物の魔王”の前に一度滅びに瀕した世界で、ただ一つ現存する王宮であった。


 ――人族じんぞくに与えられた、絶対の王権の象徴。

 この大海の如き人の営みを全て見下ろす、輝きと権威の歴史。

 ああ。エレアはなんてかわいそうなんだろう。夜の暗闇に浮かぶこの天上の御殿を、キアの横で見られないのだから。


「すごい……」


 そんな溜息だけが漏れた。


 キアはこれからの一年を、こんなに途轍もない都市で過ごすのだ。

 どれほどの未知が、どんな楽しみが待ち受けているのだろう。

 イータ樹海道を発つ前の自分は、今のような光景を想像していただろうか?


「――六合上覧りくごうじょうらん! 六合上覧りくごうじょうらん! 今からでも手配できます! 観戦席のお申し付けは、我らインサ・モゼオ商会へ!」

「どうよお姉さん! 勇者記念硬貨! 曾孫の代までの自慢の種になるよ!」

「さあ、一世一代の勇者の戦いぶりを残したくはないかい!? 銀板写真ダゲレオタイプの申し付けはメルオラ造影所に!」


 王宮前の大通りには、市場に負けず劣らずの商人が露店を構えていて、押し寄せる人波は馬車の通行を妨げんばかりだ。

 彼らの誰もの関心となっているらしいその言葉も、キアは初めて耳にした。


「ねえ……ねえ! 六合上覧りくごうじょうらんってなに!?」

「おや物知り嬢ちゃん、六合上覧りくごうじょうらんを知らないのかい!? こりゃ驚いた! 王宮が開く、一番でっかい王城試合だよ! 戦うんだ! 神話の時代みたいな、真業しんごうの大試合さ!」

「へえ……! それって、誰が出るの!?」

「はっはっは! “本物の魔王”を倒した、勇者だってよ!」


 御者の語り口は興奮の熱に満ちていて、それはきっと黄都こうとでも、なお特別なことなのだろうと思った。

 キアもその試合を見に行けるだろうか。エレアは、やっぱりそんな野蛮なものを見てはいけないと叱るだろうか。


(絶対、見に行ってやろう)


 こんな素晴らしい街でただ勉強するだけだなんて、本当につまらない。

 授業から抜け出して、この活気の夜を歩いて、見たことのないものを見よう。

 ヤウィカにもシエンにも、十年話しても尽きないくらいの、たくさんの物事を。


「勝てば何でも願いが叶う! 大金だ! だから最強の英雄が集まってくる!」

「そうなの!? ふふっ……じゃあ、あたしも出てみようかしら!」

「おいおい、はっはっは! 俺はちっちゃい英雄サマを乗せちまったかい! でも、十年後まではやめときな! 最強ってのは本物の最強さ! 絶対なるロスクレイだって出るんだからなぁ!」

「――でも、あたしは最強だもの!」


 様々な空気を孕んだ風が路地を通って、客車の中を通り抜けた。

 キアの金色の髪は、照り返す夜の光と風に、きらきらと靡いた。


 そして、破裂のような轟音が通り過ぎた。

 馬車を恐ろしい速度で追い抜いて、巨大な鉄の蛇竜ワームのような――

 蒸気機関で動く汽車というものを、キアは初めて見た。

 あれだけの機械が、毎日動き続けている。巨体の中には、沢山の人が乗っている。それを動かす燃料が、地平の全土から集まってくる。

 人が。全ての営みを動かす無数の人々が、この黄都こうとには暮らしているのだ。


黄都こうと……!」


 遥かな勢いで過ぎ去っていく汽車の背を見送りながら、キアは呟いた。

 きっと、想像もできないようなことが彼女を待ち受けている。


「これが、黄都こうと!」

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