おぞましきトロア その2

 対手を立てての鍛錬は出来ない。

 剣という形態が意味する通りに、魔剣の及ぼす作用はその大半が致死的であり、この鍛錬を何百回と行うのであれば、実剣の重量、大きさ、そして異能を存分に振るえる独闘が最も実戦に近いという矛盾がある。


 よって常人には確かな成果の見えぬ鍛錬であったが、自らの技が十分でないことは、聖域のヤコン自身がよく分かっていた。

 日が暮れるまで剣を振って、しかし彼の望むようには――父の振るう剣のようには、まったく届いていない。息はすっかり上がって、夥しい汗が顎から落ちている。


 父は近くの切り株に座っている。日が高い時から、ヤコンの鍛錬を眺めている。

 成果を全て見届けて、彼は苦笑した。


「魔剣を使う才能がないな」


 ……分かっている。父のようには一生なれないのだろう。

 ヤコンは山人ドワーフで、父は小人レプラコーンだった。種族すらも違う親子だ。

 力では若く体格に優れた自分が上回っているはずなのに、その実力の差は天地ほどにも遠く思える。


「お前は優しすぎる。だから魔剣の想念を受けて、お前自身の技を邪魔している」

「……なら、次の課題は……そうする。俺は……まだやれる。父さん。次だ。次に……見てもらうときまでには、必ず。絶対」


 荒い息とともに答える。これが何度目のやり取りであったか。

 いつも成果は散々なもので、父は魔剣士をやめろと言う。けれどヤコンは諦めたことはなかった。他の道を考えられなかった。

 父もそんなヤコンに、何かを強制することはなかった。


 ヤコンは杖を支えにして立った。鍛錬で力を使い果たしたときのための杖を、二年ほど前から用意するようになった。

 父の大切な魔剣を、支えに使うことはできない。


「……ゲホッ、ケホッ! 猪肉が、そろそろいい具合に漬かってると思うんだ。父さんの好きなスープを作れるよ。……帰ろう」

「お前が疲れてるなら、今日の夕飯はいらんさ。今日は風が寒いな」


 小さすぎる父は、ヤコンに肩を貸すことができない。

 彼とヤコンは、どこも似ていない。顔立ちも。力も。技も。

 だからこそ、何か一つでも彼の息子である証明が欲しいのかもしれなかった。


 ――魔剣士トロア。この地平で最強の魔剣使い。

 彼の息子であることが、聖域のヤコンの誇りであった。

 ……けれどその日は、自分がそうであれるかどうか、不安を覚えたのだろうか。


「……。父さんは、俺が魔剣士を継がなくてもいいのか?」


 その日の食卓で、ヤコンは尋ねた。

 父が何故この業深い略奪を続けているのか、自らの口で語ったことはない。

 けれど何か大切なことなのだろうと、子供の頃から感じていた。


「いい。こういうことは、俺で終わりだ」


 トロアは口数少なく答えた。

 ヤコンの半分ほどの大きさの小人レプラコーン用の器は、すぐに空になった。

 彼はすぐに、代わりのスープを注ぐ。


「……でも、魔剣は世を乱すものだ。もしも魔剣を巡って人が争うなら、最初からそんなものがなければ、争いが起こることもないって……だから父さんは」

「誰かからそう聞いたのか?」

「……いや……俺が……そう思っただけで」


 おぞましきトロアは、魔剣を持つ者を殺す。

 常人の三分の一にも満たぬ背丈の彼は、体躯と比べて遥かに長大な魔剣の数々を容易く操り、如何なる使い手であろうと慈悲なく斬殺する。

 そこに喜びも悲しみもなく、ただそのようにあるべき行いのように。


 ヤコンが見る限り、それは彼が自らに課す義務のように見えた。

 だからその義務が何を意味しているのか、彼はずっと考え続けていた。


「――そうかもな。最初はそう思ったんだろう。魔剣を奪うことで、いくつかの命を救えるかもしれないと」


 トロアは新しいスープに口をつけず、水面に映った瞳をじっと見つめている。

 彼は巷の誰もが恐れるような、理不尽な怪異ではなかった。

 ヤコンにとってはただ穏やかで、物静かな父親だった。


「……世界はそうじゃないんだ。魔剣が世界になくとも、人は争う。争いの手段のために魔剣を欲するだけで、魔剣がなくとも……その後に起こることは、より酷いことかもしれない」

「……そんなことはない! ガシン東西戦争。竜斧戦役。魔剣が使われなかったから終わった戦だって、いくらでもある……」

「俺はただ目撃しただけの者も殺している。罪のない民だ」


 トロアは、あくまで平静に呟いた。


「そうして、魔剣の不吉を恐れさせようとした。今から始めるのなら……俺は、そうはしなかったかもしれない」

「……」


 じゃあどうして続けているんだ、とは尋ねられなかった。

 彼は決して止めようとはしない。世に聞く爆砕の魔剣の持ち主からも、いずれ奪いに行くのだろう。


 父は、一つの納得のために戦い続けているのかもしれない。自分が始めたことを、自分が止めることはできないのかもしれない。

 ……だけど。だからこそ、あなたの息子が継げるのだと、休んでもいいのだと、ヤコンが答えてやりたかった。


 自分の無力がもどかしかった。

 偉大な父の技を見ているのに、何年をかけてもそれに追いつけない自分が。


「それでも……俺は、父さんの息子だ。父さんのやってきたことが、間違いだなんて思わない」

「そうか。ありがとう」


 ヤコンは、暖かな室内を後にする。あと少しだけ……もう一度、鍛錬のために。

 小月の明るい夜だった。

 父は人生の意味を思うように、スープをゆっくりと飲んでいる。


――――――――――――――――――――――――――――――


 あの夜から小三ヶ月が経った。運命の日。


(――上。違う。斜めに潜るように前方)


 トロアは、空の敵へと狙いを定める。

 前後左右、そして上下。それの機動の選択肢は地に這う者と比べ、極めて多い。

 しかもそれは他の鳥竜ワイバーンのように、本能と風向きに左右された動きではない。

 死線を潜り抜けた者にのみ備わる判断力で、こちらの手を読んでいる。


 力で意を押し通してきた者は、すべからくその宿命から逃れることができない。

 より力ある者が現れ、いずれ全てを失う。

 おぞましきトロアにとってのそれは、星馳せアルスであった。


(……撃つか)


 銃に引き金がかかっている。トロアは細剣を抜き打つ。

 神剣ケテルクといった。それは実体の刃の外側へと不可視の斬撃軌道を延長する、近接戦闘の間合いを乱す魔剣とされる。


 しかし、その魔剣をトロアが用いた場合。


「“啄み”」


 一点に集中された、針のような一撃が鳥竜ワイバーンを突いた。直線距離にして20mの上空である。翼膜に穴を穿たれ、アルスの空中姿勢が崩れた。


(まずいな。当たらぬよりまずい)


 敵の動きが速すぎた。上手く当てることは容易ではないが……致命傷でなければ、手の内を見せただけだ。しかも動作の動きの大きい“啄み”の突きは、連射することはできぬ。

 撃ち落とさねば撃たれると、焦りが先行したか。


 落ちながら、アルスの手の内で銃火が閃いた。それは山岳の巨石を抉って、魔剣を振り抜いた脇を潜る軌道で迫る。

 腰から吊り下げていた短剣が跳ねた。その刃は盾となって、弾丸を防ぐ。

 ファイマの護槍。鎖で繋いだこの短剣は飛来物の速度に反応するが、それは必ずしも、常に信頼できる防御ではない。


 彼は、地面に突き立てていた次の魔剣を取る。ヒレンジンゲンの光の魔剣。

 多数の剣を持てぬ小柄な彼は、そうする他にない。周囲はまるで魔剣の墓場だ。


「…………強いね……」


 鳥竜ワイバーンの陰鬱な呟きが聞こえた。思わぬ強者を、鬱陶しがっているようであった。


「ねえ……その剣……」

「……!」


 その時、トロアの頭上から、雨のような何かが振った。

 全てが泥で形成された、剣呑な刃である。


「チィーッ!」


 鋭角を描くような軌道で抜剣することで、光の魔剣の軌跡は上空よりの攻撃を防ぐ盾となる。その光は抜剣直後の僅かな間だけ煌めいて、消える。

 最強の魔剣の真価を知る彼のみが用い得る、“とや”と呼ぶ応用であった。


 アルスは既に飛び立ち、トロアの注視する視界から外れている。


「――“腐土太陽”」


 両手で抱える程の土塊の球体が落下する。これが泥の刃を降らせていたのか。

 違う。これに注意を惹くことすら、アルスの思惑の通りだ。

 ファイマの護槍が動く。到底防御は間に合わぬが、それでも、それでアルスが突撃してくることが分かった。

 光の魔剣を再び鞘に収める時間がない。彼は鎌型の刃の斧槍を取った。


 視線を向けることなく、左斜め後方を薙ぐ。アルスの体を掠ったのが分かった。

 鳥竜ワイバーンは最大の好機でトロアを仕留めることができず、その速度のまますれ違う。


(……この一瞬で、見切ったか)


 インレーテの安息の鎌。それは斬撃に伴う音の一切を無音とする、もっとも使い慣れた魔剣であったが。


 感触を忘れて久しい、恐怖の汗が滲んだ。

 敵は強い。長い経験が告げている。おぞましきトロアはここで死ぬ。

 死神として生き続けた半生にあって、彼のようにトロアの罪を裁くことの出来た者はいなかった。


「父さん!」


 遠くから声が聞こえた。ヤコン。まさか、こんな時に。

 運命の皮肉に歯噛みしながら、彼は斧槍を構える。


 アルスは旋回し、再び来る。右前方。いや真上からの強襲か。

 常軌の者には目視不能の速度を、欺瞞をも含めてトロアは認識している。


「俺も、俺も戦う!」


 トロアは笑った。――お前には無理だ。


 そこに銃弾が襲いかかった。前方への全力の加速の中で放たれた弾は、数倍の速度をもって心臓に突き刺さった。

 ファイマの護槍がそれを防いだ。賭けには勝った。

 そうだ。接近してくる。神剣ケテルクは二度喰らわぬように動くだろう。


 再びすれ違う、その時。

 地面に突き立てている光の魔剣を、


「も」


 ヂュイ、という音が、内耳に焼け付いて残った。


「――らった」


 ほんの僅か、指先が届く寸前――だが、そのような手を想像すらしていなかった。

 この魔剣の領域を、まさかアルスの側が、自らの剣として用いるなど。

 奪われたヒレンジンゲンの光の魔剣で、斬られた。


 全てに適性を持つ者など、どこにも存在しないはずだ。

 この鳥竜ワイバーンは……銃や、道具だけでなく。人族じんぞくの魔剣までもを使うというのか。


「父さん……! あああ、父さん!」


 もはやアルスの影はない。光の魔剣と共に飛び去ってしまった。

 ヤコンが駆け寄ってくるが、トロアの小さな体は、さらに腰から上の、半分に切断されていた。


「父さん! 死なないで、父さん!」


 自分より体の大きい息子が、涙を流している。

 長い人生の中、殺し続けることしか道を選べなかった、修羅のために。

 彼は手を握って、絞り出すように叫んだ。


「ごめん……ごめん、父さん……! 俺……すぐに、出てこれなかった……! 俺は、“星馳せ”が、恐ろしくて……俺なんかじゃ勝てないと思って……だから、駄目だった……!」


 いいんだ。

 俺はこの惨めな結末が似合いだ。

 お前は修羅ではない。そう言ってやりたかった。


 ヤコンは優しい子供だ。

 どうして、闇に生きる小人レプラコーンが、山人ドワーフの子を育てていたのか。

 彼の本当の両親が誰によって、どんな末路を辿ったのか。彼がとっくに分かっていることを、トロアは知っていた。


 それでも父さんと呼んでくれた。

 血塗れの理想に心をすり減らした男には、笑えるほど贅沢過ぎる人生だった。


「父さん……! 父さん! 俺がやる! 俺が、光の魔剣を取り返す! 父さんの後を継ぐ! 全部、大丈夫だから……!」

(……ヤコン)


 口しか動かすことができない。聖域のヤコン。

 一人の息子だけが、無慈悲なワイテの死神に一つ残った、人間性の聖域だった。


 ありがとうと伝えたかった。一日たりとて休まず鍛えたお前の力と技はもう、とっくに老いた俺などを越えている。だから魔剣士などを目指すなと、自分のようにはなるなと、全て伝えておきたかった。

 だけど。ああ。それなら、どうして――


 ならばどうして、トロアは彼の鍛錬を止めてやろうとしなかったのだろう。

 魔剣士に憧れる彼を、本気で引き止めようとできなかったのだろう。

 それは……ただ、ひどく簡単な。


 ――父さんのやってきたことが、間違いだなんて。


(……そうか。いくら俺の道が、間違った道だったとしても……)


 憧れられて嬉しかった。愛する息子が、人生を肯定してくれた。

 ……ただ、それだけで。


「父さん……!」


 おぞましきトロアが死んだ。

 伝説は誰も無敵ではない。


――――――――――――――――――――――――――――――


(……星馳せアルス)


 魔剣を帯びて、その男は山中を征く。

 おぞましきトロアが持て余したはずの魔剣の重量を、彼はゆうに十を越えて携えている。

 弛まず鍛錬を重ねた体は、伝説の魔剣士よりも遥かに大きく、屈強である。


(俺は、貴様から取り返しに行くぞ。もう何も奪わせない。何も俺は奪わない)


 このワイテの山の奥に、永遠に魔剣を眠らせておこう。父の望みどおりに。

 そして父の願ったとおりに、死神として人を殺すこともせずに生きよう。

 ……いつかそんな魔剣士になると、生きた父に誓いたかった。


 群れを成す野盗が、父の墓標へと押し寄せてくる。

 彼は剣を抜く。


 誰からも奪わせない。だからあるべきものを、あるべき場所へと。

 光の魔剣を取り戻すまで、彼の人生は彼自身のものではない。

 ――彼は自らの人生を捨てた。

 おぞましきトロアの成すべき仕事が、まだこの世に、一本だけ残っている。


「ネル・ツェウの炎の魔剣」


 盗賊の一団を斬って、彼は低く呟く。爆轟が声をかき消す。

 “叢雲”。剣閃と共に放たれる熱量を、斬りつけた敵の内に留めて放つ。

 父の技だ。この魔剣の、使い手の技。何度もそれを見ている。


「神剣ケテルク」


 魔剣の名を確かめる。遠く彼方の一人を、それで突き刺す。

 不可視の延長斬撃を一点に絞ることで超遠隔を穿つ、その技を“啄み”と呼ぶ。


「ギダイメルの分針」


 また一人を切断している。斬撃の発動を遅らせる技は、おぞましきトロアのみに可能な絶技だ。自分にも出来ることを、確かめるだけの一斬であった。“換羽”。


「ファイマの護槍。音鳴絶おんめいぜつ。ムスハインの風の魔剣。凶剣セルフェスク」


 ざくり。ざくり。

 無数の魔剣を、歩みとともに振るっていく。

 ――彼に魔剣を使う才能はない。


 優しすぎる気質が魔剣の想念を受け取って、彼自身の技を邪魔している。

 何もかも、父の見立てた通りであった。


「バージギールの毒と霜の魔剣。瞬雨の針。天劫糾殺てんごうきゅうさつ。インレーテの安息の鎌」


 全ての魔剣から、彼は想念を読み取っている。

 彼は自分自身であることを捨てた。だから今はその意志の突き動かすままに、それを最も上手く扱った者の――父の技を振るうことができる。

 幼い頃より、幾度も脳裏に焼き付けてきた技を。


 彼に魔剣を使う才能はない。

 使


「お……おぞましき、トロア……!」


 最後に残った頭目が、彼の名を呻く。

 そうだ。それが今の彼だ。


「さあ。どの魔剣が望みだ」



 それは同じ技量を持ちながら、かつての存在を遥かに上回る膂力を持つ。

 それは長き時代の全てよりかき集めた、無数の魔剣を所有している。

 それは自我すらをも模倣し、全ての魔剣の使い手の固有剣技を操ることができる。

 冥府の底よりなお蘇る、呪いの運命を取り立てる死神である。


 魔剣士グリムリーパー山人ドワーフ


 おぞましきトロア。

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