おぞましきトロア その1
おぞましきトロアが死んだ。
――そもそも彼が生きている様を、確かに見た者がいただろうか。
それでも彼が冬のルクノカと異なるのは、実在を疑う者がいないということだ。
その魔剣士は、存在する。
広大なワイテ山岳のどこかに居を構え、罪に裁きを下す時を待っている。
罪とは魔剣を持つこと。
彼が生きていた頃、魔剣とは強大な力と共に、死の宿命を呼び込むものであった。
「だが、テメエら! 今は違う!」
盗賊団としては決して小さい規模ではないが、冒険者や魔王自称者の兵を相手取れる質でもない。
故にこのような機会は二度とは訪れぬだろう。
「おぞましきトロアの百の魔剣――それは今、俺達のモンだ! 魔剣の番人は、もういねェ!」
魔剣を持った者は死ぬ。
その所有が知れた者の前には、いつか死神が現れる。
後に残るのは血海と化した所有者と目撃者のみで、怖気を震う殺戮の痕跡だけを刻んで、魔剣だけがどこかへと消えている。
……おぞましきトロアは、魔剣使いの善悪聖邪を問わぬ。ただ、それを殺す。
確かに起こった惨劇だけが、彼の実在を示している。
それは“本物の魔王”が現れる前から続く、明確にして絶対のルールであった。
「首将! トロアは本当にくたばったのか!? いくら相手が星馳せアルスでも、奴はおぞましきトロアだ……魔剣殺しの魔剣使いだぞ!」
「そうだユジ。今は誰もがそう考えている。テメエも、そして、他の野盗連中もだ! そうして考えている内に、どうなる? 言ってみろ」
「……魔剣は欲しい。だがな、秤に命まで載せられねえばっ!」
ユジの頭を銃弾が砕いた。エリジテの早撃ちの速度は、配下の誰もの反応を越えるものである。
煙を上げるフリントロック銃を、彼は再び懐へと収めた。
これは危急の事態だ。口のよく回る、惜しい部下ではあったが。
「――さァ、他に文句のある野郎はいるか」
魔剣の力は、今だからこそ手に入れる必要がある。
配下はそれを、高額で売り払える財宝としか見ていないだろう。しかし四十名単位のそれぞれが魔剣を備えた野盗は、一個の軍にも匹敵する力だ。
そして力さえあれば、その力を売り込むことができる。
これからは野盗の時代ではない。エリジテの第一の狙いは、参画者を広く招集する、旧王国主義者。北方のギルネス将軍の陣である。
(……“本物の魔王”の時代の隙間だったから、俺たちはやってこれた。王国が統合されれば、俺たちのような連中に未来はねェ。破城のギルネスの配下につく。たとえ旧王国主義者が敗北しても、
勝算は十分にある。トロアが倒れた以上、魔剣はもはや不吉の象徴ではない。
そして平和な時代における軍縮の流れに従えば、少数の兵で大きな力を保有し得る魔剣の需要は、むしろ高まるはずだ。戦いの中で釣り上げたその値で、
配下はざわめき、幾ばくかの混乱と喧騒があったが、やがて収まっていく。
ユジと同様の主張を行う者もいたが、捨て置き、議論が纏まるに任せた。
ユジの死を目の当たりにしている以上、それは本気の反駁ではないからだ。
「……いいか。どうして俺たちみたいなケチな山賊が、あのトロアの遺産を漁れると思う? 強いからか? 頭の巡りが良いからか? それとも数が多かったからか?」
彼が喋るのは最後だ。決意を後押しするだけでいい。
「違うよな。ただ、近いからだ。縄張りをワイテに構えていて、誰よりも山を知っているからだ。他の連中は、トロアがこの一帯のどの山にいて、どの山にいないのかすら知らねえ。俺たちが、先に辿り着ける。必ずだ」
「やりましょう……! 拾える宝だ! やれます!」
「魔剣の呪いなんざ知ったことかよ……ついてくぜ、首将ォ~!」
「ああよく言った! いいかァ! 迷信やら伝説の時代は終わった! おぞましきトロアが死んだのはその証拠だ! 行くぞテメエら!」
それは
一つだけ違ったのは、彼の財宝は全て魔剣だったということだ。故に星馳せアルスに奪われた。最強の一本のみを奪って、彼は飛び去ったのだという。
“本物の魔王”すら死んだ。伝説は誰も無敵ではない。
――――――――――――――――――――――――――――――
その尖塔は
人口密度の増加に従って区画整理事業の進みつつある中、
外からは分からぬが、内の階層は縦に貫かれ、壁面に沿う階段だけが残っている。
冷たく閉ざされた空気は、まるで天井の高い牢獄のようですらあるが、中に棲まう者は、この世で最も虜囚という言葉の似つかわしくない存在である。
「…………」
「大分慣れたか」
「…………」
沈黙ではあるが、この住居が不満というわけではないらしい。
そもそもこの特別の改築にしてからが、頭上に止まる一羽の
彼はいつも一拍遅れて、小さな声で話し始める。
「……ヒドウ」
「ああ、なんだ?」
「ハルゲントは……来るかな……? おれは勝負したいんだ……まだかな……」
「あー……どうかな、あのオッサンは……フッ! 仕事ほっぽり出して北の方まで駆けずり回ってるけど、まあ次の臨時会議にまでは戻ってくるんじゃないか? どんな候補を連れてくるか、分かったもんじゃないけどな」
「……そっか。それなら……いいや……」
一番下の階段に腰掛け、背中を壁に預けて、ヒドウはやや遅めの昼食を取る。
上等な白いパンだ。彼は物怖じのない、傲岸に満ち溢れた男ではあったが、食事だけは静かな環境を好んだ。アルスとはその点では気が合った。
「……ただ、アルス。お前……結局誰が来たところで、負ける気がしてないんだろ。お前はここまで全部の戦いを勝ってきた。
「…………。ハルゲントをバカにしてるの?」
「は? そんなわけないだろ。お前でも苦戦することがあるのかって聞いてんだよ」
ヒドウはすぐさま空気を察知し、それが別の話題であったことにする。
アルスの翼影は頭上高くに小さいが、その気になれば彼が次の一口を食べる間に、数え切れない回数殺すことができるだろう。
「……いたよ…………強いやつは」
「へえ。やっぱり
「……何言ってんの……? あんなの……年取ってるだけで、全然強くない……。トロアのほうが……
「おっ、おぞましきトロアの話か? やっぱあの噂はマジだったわけか。皆聞きたがるぜそれ」
「……これ」
「…………これが、ヒレンジンゲンの光の魔剣。トロアの……一番、強い武器だったから……欲しかったんだ……」
「ヴィケオンをぶった切ったやつか。本当に魔剣を溜め込んでたのか?」
「……まあね。でも……別に、他のは欲しくなかったし……荷物が重すぎると、飛べないから……」
「ははははははっ! そりゃ勿体ねえな!」
――笑い話ではない。
魔剣は、その一本が一つの街に匹敵するほどの価値を持った財宝である。
解析不能の異常存在。物言わぬ魔剣は、その起源すら明らかではない。
だが、“
この地平とは別の世界、強度の弱い現実法則では留めきれぬほどの神秘を得てしまった器物が、この世界へと放逐された存在。
それは剣に限らず、
……しかし象徴的な存在として、やはり『魔剣』は別格の意義を持つ。
遥か昔の時代から続く、唯一特別である武力の象徴。
例えば現代においては、破城のギルネスの爆砕の魔剣などが良い例であろう。
多くの勢力が魔剣を巡って争い、または魔剣の示す権力に群を成し、多くの魔王自称者が生まれては消えた。
故におぞましきトロアもまた、魔剣だけを求めたのかもしれない。
「おぞましきトロアは、どうだった」
「……うん。ものすごい……技だった。魔剣じゃなきゃ、できない技を……いくつも。あいつには……空を飛んでも、関係ないんだ。方向も……たくさんの魔剣が、まるで……生き物みたいだったな……」
「……」
「少しね……ほんの……少しだけ、引き金が遅れてたら、死んでたんじゃないかな……多分だけど…………」
ヒドウも、幼い頃から彼の怪談をよく聞かされていた。
魔剣を持つことはもちろん、魔剣を持つ者の近くにいるだけで、災厄が降りかかるのだと。だから誰も魔剣を持ってはいけないのだ。それは死を呼ぶ。
その伝説の存在は、
ワイテの山岳に、確かに存在していたのだ。
(……惜しいもんだな。勝ち続ける奴なんかいない……伝説はいつか終わるか)
アルスはその翼で、欲望のままに簒奪の旅を続けた。
あるいは歴史に名を残したであろう者たちが多く潰えて、守られるべきものは暴かれ、世界は“本物の魔王”の以前とは一切変わってしまった。
彼はこの世界の神秘の全てを覆しゆく、ただ一羽の開拓者だ。
「トロアを、どういう風に殺った」
「……心臓に……一発。近づきながら撃って、当てた……でも、まだ動くと思ってさ……すれ違うときに」
ふ、と軽く風を切って、アルスは鞘に収めたままの光の魔剣を振ってみせた。
「こいつを盗って、斬った。斜めに……真っ二つだったなぁ……」
「おいおいおい……どんな神業だよ……」
超高速の機動を持続しながら、即座に銃から剣へ。しかも敵の武器を略奪する程の器用さで。
聞きしに勝る驚嘆すべき技量だ。そしてそれを紙一重にまで追い詰めたおぞましきトロアとは、どれほどの怪物だったというのか。
「…………」
「アルス。強敵が欲しいか?」
「……別に」
「じゃあ、何が欲しい」
壁面を巡る階段に止まったまま、
尖塔の頂上の窓から差し込む光を、彼は眩しそうに見た。
「国」
――星馳せアルス。彼の欲望には限界がない。
だからこそ、
この英雄を勝たせてはならない。
――――――――――――――――――――――――――――――
「……用心しろ。俺たちより先に到着した連中がいる。ユジがぐだぐだ抜かしていた時間で、迷わなかった奴らが」
エリジテはフリントロック銃に次の弾丸を込める。一発を、配下を黙らせるために使わねばならなかった。
……山の西側を探しに行った四人が戻ってこない。
残る目ぼしい地点に向かった者たちが魔剣を発見できていない以上、おぞましきトロアの居住地は、西側にしか可能性はなかった。
「だが地の利は俺たちにある。もしも連中が先に魔剣を手に入れてるとしても、罠に嵌めて殺せばいいだけだ。剣を振らせる暇も与えやしねェ。簡単な話だろうが」
「そ、そうだな……首将!」
「場所は分かってんだ! さっさとやっちまいましょう!」
単純な連中だ。魔剣さえあれば無敵の力が手に入る。
今のエリジテは当初のその主張と正反対の言葉で彼らを煽っているが、それに気が付く者はいない。
いや、気が付かぬようにしている者も、いくらかはいるのか。
半数までならば許容ができる。二十名を使い潰しても、二十名の数の力と、それぞれが扱って余りある量の魔剣が残る。
山賊の首将へと登りつめた力で、彼は過去と未来の損得を計算する。
「おっ、おっ、首将!」
「どうした」
「……一人戻ってきますよ! あいつ、えーと名前なんでしたっけ」
「イビードか?」
遠くから、痩せた男がおぼつかない足取りで山道を歩いてくる。
開き放しの道具袋がブラブラと揺れていて、中身が一歩ごとに地面に落ちている。
目の焦点は虚ろだ。首将のエリジテが眼前に立っても、そうであった。
「……おいイビード。何か言うことがあるんじゃねえのか」
「……」
「そうか。俺をナメてるのか?」
銃口を突きつけ……それは起こった。
びちゃり、と湿った音が響いた。
イビードの右肩から脇腹にかけてが、斜めに滑り落ちたのだった。
続いて、腰。左腕の付け根。両眼を通って頭の水平。
触れてもいないのに、イビードは肉の断片と化した。
既に斬られている。だが、どうやって肉を繋いだまま歩いていた?
重力を考えても、あり得ない繋がり方だ。
「……こ、これは」
「――魔剣だ! 分かってただろうが。どこぞの野盗が使ってやがる! そういうこったろう、驚く話じゃあねえ! 西側に向かった連中が死んだ! それだけだ!」
「で、でも……こんな死に方ってよォ……!」
まずい兆候だ、とエリジテは思う。
ユジに使った手はそうそう何度も使えるものではない。この恐怖の波をどのように押さえつけるか。思案を巡らせようとしたときである。
「あれ」
エリジテの眼前、一番右に立っていた男が、頓狂な声を上げた。
その胸には針で刺したような、小さな赤い染みがあった。
それはじわじわと広がっていく。
「あれ、あれ」
男は困惑した声を続けながら、倒れた。
エリジテは奥歯を噛んだ。攻撃だ。今のイビードは釣り餌か。どこからだ。
「首将! これは……あぎゃアッ!」
遠くから駆け寄ろうとした一人の背後に影が過ぎって、それは炎上した。
まるで人体そのものが爆薬と化したかのように、明るく巨大な炎が周囲を巻いた。
炎の余波だけで、さらに二人の配下が死んだ。
「……ふざけやがって! 何者だテメエ!」
エリジテは、銃口を影へと向けた。
爆熱の陽炎に揺らいで、その姿は明らかではない。
「ネル・ツェウの炎の魔剣」
死神の如き低い声で、それは呟いた。
それは一歩ずつ、ゆっくりと踏み出した。エリジテの銃口が揺れた。
陽炎に狙いが定まらないことだけが、理由ではなかった。
タン、と次なる音が響いた。
エリジテのすぐ隣りに立つ副将が、先と同様の針の染みに眉間を貫かれて倒れた。
「神剣ケテルク」
影がすれ違った者が、ふらふらと歩いて、滑って落ちる。
その五体は、イビードと同様に……
「ギダイメルの分針」
ざくり、ざくりと、足音が近づいてくる。
野盗だ。ただの野盗。自分たちと同じ、魔剣を狙った野盗に違いない。
エリジテたちはただ少しだけ出遅れて、不運だっただけだ。
おぞましきトロアが、生きているはずがない。
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