冬のルクノカ その1

 イガニア氷湖の名を知らぬ者はいない。だが、現実に氷湖に足を踏み入れた者の実在となると、歴史上に数えても、その総数はどれほどになるか。

 ……少なくとも、今は二人がいる。鉄鋲靴の足跡が二つの列を成して、果てしのない大氷海の上へと、曲がりくねって伸びている。


「フッハハハハハ! 寒い! これは寒いぞ! 思ったよりも寒い!」


 常に先を進んでいるのは、上半身をはだけた、隆々たる大男である。

 自らの身長ほどもある巨剣を背負い、二人分の荷物すら抱えながらも、その気力衰える気配はまるでなかった。


「――が、負けん! ロスクレイはこの程度の寒中行軍で音を上げたりしまい! ならば俺はそれを越えるまで! そうでしょう、武官殿!」

「はあ……?」


 残る一人は、息も絶え絶えの足取りであった。

 先行く男の四半量にも満たぬ荷で、体を幾重もの防寒装備に包みながら、そのような有様である。


「私の……知ったことではないが! それよりも君、私と第二将を比較するのは、その……配慮が足りなくはないか! やはり私を軽視しているのではないか!?」

「ふうむ配慮! しかし武官殿がロスクレイに劣ることは事実でしょう! その程度のこと、誰もが知っている!」

「ハァ、ハァ……そういうのが……配慮が、ないというのだ!」


 巨漢の名を、屠山崩流とざんほうりゅうラグレクスという。

 大仰な二つ目の名の通りに、絶大な功名心と行動力に漲った、若き剣士であった。


 一方で後に続く者も、絶大な功名心に突き動かされていることは間違いない。

 名を、黄都こうと第六将。静寂なるハルゲントという。


「しかしこのような寒冷の地にも、獣、獣! よくぞ生きていられるものです。しかも砂漠の獣よりデカい! 先の白銀熊を見ましたか!?」

「……うむ。それはだな、ラグレクス君。体表面積が関係するところだ。すなわち、小さな鼠などは低温環境下ではすぐに冷えてしまうが――」

「おおっとそこまで! 俺は聞いても分かりませんのでな! 重要なのは、奴の餌も豊富にあるということ!」


 イガニア氷湖の名を知らぬ者はいない。正確な意味合いは、多少異なる。

 ただ一柱、イガニア氷湖に存在するドラゴンの名を知らぬ者はいない。


「冬のルクノカに、本当に挑む気でいるのか」

「無論! 地上でただ一つ、ロスクレイに並ぶ相手があるとすれば……それは冬のルクノカをおいて他に非ず。そして、俺が真にロスクレイであれば」


 ――『俺がロスクレイであれば』。この言い回しを、ハルゲントは幾度か聞いている。


「勝てぬはずはない。ロスクレイは、ただ一人、ドラゴンを討った人間ミニアなのだから」

「……それは」


 実情を知る者からすれば、あまりにも滑稽な目標意識と言える。

 だがどれほど奇天烈で……さらに言えばハルゲントとの性格相性が劣悪な相手であったとしても、この過酷な雪中に案内を任せられる同行者は、このラグレクスをおいて他にはいなかった。


 もしもハルゲントが竜騎兵団を失っていなければ、万全の雪中行軍でこの地を進めただろうか。

 今はそうではない。ラグレクスの豪剣なくば、ハルゲントがこの氷湖の巨獣に幾度殺されていたか計り知れない。

 加えて言えば、この地上で冬のルクノカに挑もうと夢想する冒険者の内で、彼のように実力と行動の伴う者は極めて希少である。


「ロスクレイはどんな将軍なのでしょうな! 剣を交えたことはありますか!」

「う、うむ? まあ」

「さぞかし強い当たりだったのでしょう! 最低でも、剣を切り折って胴当てごと両断できる一刀のはずです。さらに加えてその速さたるや、稲光の如く!」

「まったく分からんが、何故君は見たこともないロスクレイの技をそんなに自信満々に語れるんだ……?」


 黄都こうとより遠く離れた南方の辺境、ハキィナ小州の出身と聞いている。

 ただひたすらに我流の鍛錬を積み、それが冬のルクノカに通ずると信じて、ここにいる男だ。


 進む内、氷の中から突き出た岩肌を、鈎と縄を使って登攀する必要があった。

 ラグレクスは意気軒昂の気力のまま、あろうことか素手で起伏を掴み、ましらのように駆け上がっていった。

 ハルゲントにとってのそれは、まったく遠い道のりだ。

 かじかむ手の一手の確かさを願いながら、ラグレクスの下ろす縄を頼りに登る。


「……グッ……待て……これしき……! グムッ……私とて無数の武功を……第六次鳥竜ワイバーン掃討……第八次鳥竜ワイバーン掃討……あの第二十二次鳥竜ワイバーン掃討に比ぶれば……!」

鳥竜ワイバーン狩りばかりですな」

「言うなッ!」

「加えて言えば、武官殿は貧弱ですな!」


 老いているのだ、と叫びたかったが、それは余計に自身を惨めにするだけだと思い、ハルゲントは言葉を抑えた。

 ――その上、今は部下も失っている。

 精鋭の大半が、ふすべのヴィケオンの討伐遠征で失われてしまった。

 惨憺たる敗北を晒した彼が未だ黄都こうと二十九官を更迭されていないのも、きたる王城試合に向け、新たな第六将の選出会議を開く余裕がないという以上の理由はない。


 静寂なるハルゲントは、無能である。

 権力の維持に憂き身をやつす小人物であり、“羽毟り”の戯称を受けるほどに、惰性の如き鳥竜ワイバーン狩りの繰り返しのみで功績を主張してきた。

 故に、これが最後の機会であろう。


(確実に勝てる駒――冬のルクノカを、勇者候補に)


 この地平における最強種。一柱が災害にも値するドラゴンの中にあって、さらに最強たる個体。世界の最強を競う王城試合と聞いたその時、候補を探す二十九官の誰もが考えたに違いない。


 ――冬のルクノカを擁すれば、それで勝てるのではないか。


 現実はどうだっただろう。

 誰も、黄都こうとから遥か遠くの、イガニア氷湖まで訪れることはなかった。

 誰も、本来の政務を放り出してまで、全てを王城試合に懸ける愚行をしなかった。

 誰も、姿を見せぬドラゴンに交渉が通ずると……その代償を支払えると考えなかった。

 そして彼らの内の誰も、ラグレクスの如き無謀な男を見つけ出すことはなかった。


「……。あめ あめ あめが降り/高いオヌマの山のうえ/白い翼がするりとなでて/そのあと降るのは とげ とげ とげ――」

「おや、武官殿。童謡ですか」

「……うむ。エノズ・ヒム歌章千編。『野凍のし畑凍はたしみ』。棘、というのは雪のことだ。その当時、イガニアは熱帯だった……誰も、雪に触れたことすらなかった」

「……」

「三百年前から歌われている」


 ラグレクスの推測は正しいのだろう。

 冬のルクノカは人里を襲うことなく、ただこの広大な氷湖を徘徊し、大型の獣のみを捕食して生き続けている。

 故にギルドに討伐の報酬も張られない。常なるドラゴンの如く、財宝を集め溜め込むこともない。誰もが認める地上最強の存在でありながら、得られる宝は何もない。


 少なくともこの百年の内、そうであったと思われている。


「……ラグレクス君。ルクノカと君が相対したとしよう。爪をどう凌ぐ」

「なに。俺を遥か上回る豪剣への受けは、既に想定済みです。ロスクレイを相手取る時のため……無論、力ではありませんぞ。こう、斜めに流して逸らす技がありましてな。真横の方向へと押すのが肝要です」

「ならば、空へ逃げられればどうだ。君の剣では届くまい」

「フッハハハハハ! 仰る通り! しかしドラゴンとて永遠に飛び続けられるわけでもありますまい! いずれ疲弊し、羽を休めた時に討てばよし! 基礎の体力の鍛錬も怠っておりませんぞ!」

ドラゴンブレスの存在を忘れてはいまい。手立てを考えているのだろうな」

「……それは」


 氷を踏み進むラグレクスの背中の歩みは、僅かに止まった。

 無論、ハルゲントが追いつけぬほどの僅かだった。


「気合です」

「……気合……?」

「然り。気合でかかれば為せぬはずはなし! ロスクレイならばそうでありましょう、武官殿! 人はドラゴンに勝てる! 確かな事実がそこにある以上、必ず。間違いなく勝機はあるのです! それは確かなことです!」


 到底理解できぬ思考であった。そもそも、人の身でドラゴンに勝利するなどという話を信じていることが愚かである。

 確かにラグレクスは強いのだろう。ハルゲントが見上げるほどの巨獣を、瞬きの間の一閃で縦の二つに割ったのを見た。

 自信もあり、きっと勇気にも満ちているだろう。


(だが、死ぬのだろうな)


 肌染む寒さにやや朦朧とした頭で、ハルゲントはそのように考えている。

 彼にとってラグレクスが必要なのは、交渉を成立させる往路のみだ。

 この無謀な男はそのまま最強の古竜へと挑み、無為に散っていくのであろう。


 そして、ハルゲントはその後に……その後。その後はどうなるだろうか。


(……私も、この男と同じような無謀を試みているのか?)


 見たこともない伝説の存在と折衝し、王城試合への出場を快諾させ、あまつさえ復路の庇護を受けられるとでも、本当に考えているのか?

 二十九官の他の誰も、そのような愚かな試みをしていない。

 ふすべのヴィケオンに惨敗したその時から、知らずハルゲント自身も自棄になってはいなかっただろうか。


 寒さが思考を鈍らせる。太陽の輝きが反射して、ただ眩しかった。

 足には疲労が蓄積するばかりで、前を往くラグレクスは、時折待つ必要があった。

 ――広大な氷湖だ。見る限り果てしのない死の地帯だ。


 誰も姿を見たことがない。誰もがイガニア氷湖の名を知るが、誰も踏み入れたことはない。

 冬のルクノカ。人と関わらなくなって久しい、伝説の存在。

 それは確かに、実在するものだっただろうか――。


「……官殿! 武官殿!」

「……ッ! どうした、ラグレクス君」

「どうしたはこちらの言い草ですぞ! 倒れてはいけません。武官殿には、生きて俺の戦の証人となってもらわなければ」

「そ、そう……か。倒れていたのか……私は」


 あまりに情けない。眼前にはまたも断崖がある。

 心が重い。登る体力は残っているだろうか。幾重にも着込んだ衣服の内に、凍えの気配が忍び寄っている。

 ここから進んだとて、戻るにはまた同じ道のりを引き返さねばならぬ……


「……ラグレクス君。その、言いにくいが」

「なんですか?」

「冬のルクノカは、そのう……うむ」

「ふむ」

「実在しないのではないかと思うのだ」


 巨漢はその言葉に首をひねり、しかして笑った。


「フッハハハハハハハ! 実在せぬなら、それも結構! 非実在のドラゴンよりは実在の俺が強いと、無論証言していただけますな。そのことを確かにすべきためにも、満遍なく探してゆかねば! 日はまだまだ高いですぞ!」

「待て……ちょっと……縄を引くんじゃない。私、私が限界なのだッ!」


 断崖を前にして、しばし不毛な押し問答が続いた。

 この恐ろしく過酷な世界にあって、なお気力と自信を抱き続けるラグレクスのことを、ハルゲントはまったく理解できなかった。


「観念すべきです、武官殿! それでもロスクレイと同じ二十九官ですか!」

「やめろ! そういう、いいか……! 第二将との比較を……やめろというのだ!」


 当然の結果として、ハルゲントが力負けしている。このまま胴を縄に吊られて、断崖を引きずり上げられるのだろうか。

 ラグレクスの強引さを思えば、その程度の悪夢は現実化し得るように思えた。

 その未来に思いを馳せ、断崖の上を見上げた時。


 太陽が見えない。周囲が僅かに暗い影に染まっていることに気付く。


「……ラ、ラグレクス君」

「フッハハハハハ! 弱音は後! 行動が先です、第六将殿!」

「違う。上だ……」


 ハルゲントは、それ以上の言葉を発することができない。

 息を吸うことを忘れるほどの存在だった。


 断崖の上。それは暴威や殺意の欠片もない、ただ冷たい目で見下ろしている。

 ふすべのヴィケオンとは何もかもが異なる――白く滑らかな、輝く竜鱗。

 左右対称に広がる翼。流麗な曲線を描く首筋。

 精緻な神像よりもなお美しい、最強の古竜であった。


 それは実在した。冬のルクノカ。


「――貴様が」


 驚くべきことに、ラグレクスだけが絶句の隙なく剣を構えた。

 敵の全てに集中した殺意の表情を、ハルゲントは初めて横合いから見た。


「冬のルクノカだな。我が名は屠山崩流とざんほうりゅう、ラグレクス。今日のこの日に貴様を討ち、英雄となるべくここに来た」


 冬のルクノカは、無言であった。

 今にもそのブレスが浴びせかけられると思い、ハルゲントは形振り構わず、必死で断崖の陰に這って隠れた。

 地面に差し掛かる影が大きさを変え、それは飛翔し、降り来たようであった。


 ハルゲントは……誰も見たことのない伝説のドラゴンを、間近で見た。

 権力維持に明け暮れるばかりの小物が、初めて誰かに先んじた体験であった。


「答えい」


 ラグレクスは、油断なく剣を構えている。それが何の意味を成すというのか。あの爪を叩きつけられて、その巨剣如きで何かができるというのか。

 そして……最強のドラゴンは、口を開いた。


「――あらあら。まあ。これは遠いところを、ご苦労でしたわねえ」

「……」


 透き通った水色の目には、先の邂逅に見た冷たさはない。

 あまりにも穏やかに、白い古竜は首を傾げた。


「御存知の通り、私が冬のルクノカですよ。ええ。歓迎いたします……と言っても、この不毛の地では、もてなしもできないのですが。ウッフフ!」

「た……戯れているのか」

「いいえ? 遠いお客は歓迎する。間違っているかしら? ご両親はどのように言っていたの?」

「……」

「本当に、人間ミニアは久しぶりねえ。外のお話でも話してもらおうかしら? 私、最近の言葉が分からないのだけれど。ウッフフフ!」


 爪の一撃で打ち殺される方が、まだラグレクスにとって納得できる結末であったかもしれない。ハルゲントにも、そう思えた。

 ……このドラゴンは、二人の人間ミニアを敵とすら認識していない。


「ま……待て!」


 ハルゲントは思わず飛び出していた。

 氷に爪先が躓いて、二度無様に転がった。


「冬の……冬のルクノカ! この男と仕合ってはくれないか! まさか……貴様は」


 その先を続けることには、多大な勇気を要した。

 何故、このような気の合わない、強引で無謀な男のために、不必要な勇気を振り絞っているのだろう。


「ただの人間ミニアを畏れるか! 百年の無敵をそのように守ったか、ルクノカ! 今は互いに種族の別なく、詞術しじゅつの相通ずる戦士! ならば結末から目を背けし方を敗者として永劫伝えるが、それで構わぬか!」


 白いドラゴンは、その哀れな闖入者を一瞥した。

 そして笑いのような吐息を吐いた。


「ええ。構いませんよ?」

「なんだと……」


 最強のドラゴンがここに実在した。

 彼女は人を避けている。誰も、冬のルクノカに出会ったことはない。


「こんな、耄碌したおばあちゃんの名でよろしいなら。いくらでも、誇りなさいな」

「ふ、冬のルクノカ……貴様は……!」


 地平最強の種。その中で、最強の存在。

 彼女を勇者として擁立できたのならば、勝者はその時に決まるだろう。

 

「ええ、ええ。認めましょう。あなたの勝ちですよ。屠山崩流とざんほうりゅう、ラグレクス」


 ……だが。


「おめでとう」

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