無尽無流のサイアノプ その1
その広大な面積の半分を砂が占める、過酷なるゴカシェ砂海の只中。座標定かならぬ地点に、半ば沈下した砂の迷宮があるという。
それを見た者の確かな証言によれば、それは莫大な蔵書を収めた“図書館”なる知識の蔵であり、仮に書物を正しく読み解ける者がそこを訪れたなら、収められた知識の価値は一国にも値するであろう、とのことである。
その砂の迷宮自体は、ただ書物が散乱し、あるいは書架に並ぶのみの廃墟であって、特段に侵入者を惑わせ排除する類の建造物ではない――とはいえ、外からは攻略できぬ難攻不落をして、この世界では迷宮と呼ぶ。
発見以来の十五年、迷宮の所在を探索する試みは尽く、ゴカシェ砂海に棲む、屈強無比なる
そして今、この剣呑なる知識を求めるミナツ水源街よりの武装隊商、総勢二百八名。
崖上より狙い定めるは、若き
「……十八といったところか。できる輩は十八人。これは久しぶりの大物だな」
灰毛で大柄の
彼らは砂の迷宮の蔵書などに興味を持たぬ。知識の番人を気取るつもりもない。無用無価値な代物だとすら感じている。
ただし、知識に引き寄せられて現れる
「兄貴、すげェ数だ……! 隊列の後ろが、う、後ろが……岩場まで延びてて見えねえ!」
「落ち着けカヌート。相手取るのは十八人で構わん。この“浅歩き”の修練を試す。できる連中は、私一人で十八人殺す」
「一人で!」
カヌートと呼ばれた白と茶の毛の
彼はかっと目を見開いて、尊敬する兄貴分の言葉を問い返した。わななきの余り、彼はまた舌をしまい忘れた。
「兄貴一人で――十八人を!?」
「フ……できぬと思うか」
「あ……兄貴! 見届け役つかまつりましたッ!」
ヘングは、両端に刃を持つ薙刀めいた得物を、重く振り回した。奇襲を仕掛け、まずは弓手から刈る。
先頭付近の隊列から、逆光となる位置関係を狙い澄ませる。
「ゴルッ」
ヘングの喉奥から、獣の唸りが響く。その時には、加速している。
重心を低く、脚のバネのみで露出した岩肌を踏み、跳び、落ちるが如く駆ける。
ちなみにその後ろに続いて走るカヌートは、途中から四足歩行に戻っていた。
「敵襲――ッ!」
弓手が叫ぶことができたのは、自らの左腕を、鎖骨ごと切断された後である。
灰色の血風が通り過ぎた後で彼らは気付かず構え、あるいは警告の叫びを発し、そして間に合うことなく、直立の力を失って倒れていく。
「――ここまで、弱敵!」
「すげえぜ兄貴ィーッ!」
最後尾の弓兵を一人残らず片付け、そして隊列前方に残る弓兵の斉射は彼ら自身の馬車を盾に防ぐ。とはいえ奇襲を成功させた今、ここから先の飛び道具は多くはあるまい。
同じく馬車の背後に隠れる討ち残しの
「リ、
「そのようにでも思っておけ。砂海を渡り、帰る算段を立てておくことだ。身包みを剥がれた後でな」
「オラァ! 算段しておけや!」
戦士らしき者も多少は残っていたが、ヘングの一睨みで戦意を喪失する。見定めた十八人の他は、彼らゼーエフの戦士と戦える力量にはない。
食われる、というのも心外な評価だ。彼らは
手近に転がっている戦士の首を掴み、その膂力で高く投げ上げる。
止まっていた弓矢の狙撃が、馬車から飛び出した影を狙って再び雨あられと飛んだ。
高い射角へ気を惹いた一瞬、ヘングは馬車の車輪下から打って出ている。
砂の大地の表面を滑るように、薙刀の刃が走った。先と同じように大半の戦士は抵抗の前に首や足を落とされ、弓兵が狙いを修正するその頃には、その胸に至近の刃が突き立っている。
「弓兵、討ち取った! 残る戦士が追いすがってくるぞ、カヌート!」
「兄貴!」
「迎え撃つとも。その場で見ておれ!」
カヌートへ視線を切った一瞬。まるで待ち構えていたように、回転する曲刀が襲い掛かった。
ヘングは絶大な身体能力で跳躍し、足首を狙うその飛刀を躱す。
そこに、無数の銀の輝きが襲いかかった。回避行動の取れぬ空中である。
「グルゥァッ!」
ギュルルル、と、双つの刃が回転した。
ヘングは、厚刃の薙刀を柄の中央で二つに分割し、恐るべき速度と物量で飛び来たった投げナイフを、全弾防いでいる。
「……できる!」
着地点。背後から風を切ったのは、先ほど投げ放たれた筈の曲刀である。
刃と交差するような後ろ蹴りで、直撃を逸らす。曲刀の柄の先端から細いロープが延びているのを見た。これで引き戻したか。
ヘングは回避の回転と共に向き直り、自身に武器を投擲した、二人の新手を見た。
「――名乗るべき相手と見た!」
ヘングもまた、その時には両の刃の柄を結合させ、威力に優る薙刀の形態へと戻している。
ただの投擲のみでは凌がれることを、敵は今の交錯の内に理解しただろう。ならば次は近接の技を絡めた上の攻防で、
「ゼーエフ群師範代、浅歩きヘング! 死出の迎えの天使には、このヘングに討たれたことを誇れ!」
「……ヒ! 気障な男だ。元は“黒曜の瞳”の二陣前衛。刻み
「度し難いな、その習慣……。五月雨のアルバート。俺は“彼方”から来た」
最大の諜報ギルドとして知られた“黒曜の瞳”の元構成員。そして人域の外の技量を持つ“
カヌートなどはすっかり両耳を垂らし、馬車の影に隠れて趨勢を見守っている。
「兄貴ィ……!」
心配には及ばぬ。
目でそう告げると同時に、踏み込んでいる。
斬撃前の数歩、横方向への、細かな足捌きで僅かに芯をずらす。その足跡は砂上に薄く残るのみで、体重のまったく沈み込まぬ、奇妙な体術であった。
その幻惑の歩法に、薙刀を持つ手指を狙った曲刀の精妙な一閃は逸れる。故にもう片方の手で、刀身を横から打ち払うことができた。
残るは両断するのみ――と見えたその時、銀の流星が、無数降り注いだ。アルバートの投げナイフである。
ルックの体が遮る状況でありながら、同時に、ヘングの脳天、眼球、心臓、肩、腹、股間。
ヘングは咄嗟の判断で顎を引き、右肩を狙う二連射のみを、刃で防いだ。
頭蓋の丸みで受けることを選んだ脳天と眼球への三射は、内の一射が当たり、頭頂から左耳の後ろまでを深く抉った。
ルックを相手に仕組んだ幻惑が功を奏して、正中には直撃していない。だが一つが脇腹を掠めて貫通した。予想以上の威力。
「いただいた――」
それも含めて、
手首の機械の内で、歯車の鳴るガチリという音が響いた。
ヘングは薙刀を分割し、強引に柄をねじ込むようにそれを防いだ。腕力だ。
ギン、と冷たい音が響いて、機械仕掛けに射出された曲刀は、真横に逸れて飛んだ。それは馬車の鉄の車輪を切断した。
「【
返す刀で、ヘングは分割した一方を叩き込んだ。ルックの矮躯の肩から胴の半ばにまで刃が達した。
武器が食い込んだまま、
長身を大きく反らし、アルバートは嵐を浴びせた。
それは滑らかな投擲の一動作に見えて、軌道の別個二点をリリースポイントとしてナイフを打ち放つ、必殺の投擲術である。
速い第一波を防げば、遅れて飛来する第二波が全急所を貫く技であった。しかし。
「【――
残った薙刀の、刃の一方であった。
弾かれるナイフの輝きにによって、軌道と速度を見極める事ができたのが幸いであった。投げナイフを仕込んだ外套で反らすように受け、辛うじて、内蔵がこぼれる程度の傷に留めた。しかし幸いはそこまでである。
その時には、ナイフを受けきった
「グ、ルアッ!」
咆哮一閃、素手の一撃で、“
今、半身で攻撃を受けたヘングの右半身には、無数の投げナイフが食い込んでいる。辛うじて残した左腕での殴打であった。
仮に、最初の投擲に対して肩で受けていたなら、ここまでの攻防を継続し得る腕力は保てなかったであろう。
「ごほっ、なんて、野郎」
片側の肋骨のみで、辛うじて胸から上と繋がる
「――紛わぬ強敵。喜ぶがいい。貴様らの首級、七年先まで誉れとなろう」
「こ、こんな技。どこの、何者だい……」
「積んだ研鑽が違う。我らは“最初の一行”、彼岸のネフトの薫陶を受けた仔らだ。あの世で釈明に困る事もあるまいよ」
「ヘッ……“最初の”……。そういう、事とは…………」
ゼーエフ群は、単なる
彼らは生きながら木乃伊と化した伝説の
此度のような命懸けの死闘も、当然の通過儀礼。
この砂海の脅威を知り、それに備えながら、人族の誰もが通行できぬ理由は、その誰もゼーエフの
「すげえよ兄貴ッ! 兄貴はやっぱり最強だッ! アオーン!!」
「フ……心配は無用だと言った……が、残る略奪は貴様がやれ。人族どもに持ち逃げさせるなよ」
「お、俺ッ……俺、いつか兄貴みたいになりますぜ!」
「馬鹿者が……どれだけかかると思っているやら。フフフ……」
未熟なカヌートは、残る者達を首尾よく制圧し、そうしてこの二百八名の武装隊商の積荷は、丸ごとゼーエフ群の糧となった。
彼らが殺戮行為に求めるのは、突出した強者を練習台とした修行成果の確認であり、残る弱者、あるいは非戦闘員は無傷で返す法度を敷いている。
この地点はゴカシェ砂海のほんの序の口だが、それでも街に戻る道中、何人か、体力に劣る者が渇きに死ぬやもしれぬ。その可能性まではヘング達の知ったことではない。
彼らもまた危険を承知で知識を求める冒険者であり、この地に踏み込んだ以上は、僅か一頭で彼らに挑む
「……妙だな」
「どうしましたか、兄貴!」
異変は、カヌートの肩を借りて里に戻る道の最中である。
「血の臭いがしないか」
「へえ、言われてみれば……」
二名は、はたと駆け出した。右手脚を負傷したヘングはカヌートにやや遅れたが、それでも全速で走った。
里の見張りは、壁に埋まっていた。白目を剥き痙攣し、泡を噴いている。
「何が起こった」
何やら恐るべき加速度で叩きつけられたと見えて、めり込んだ彼らの背中が、3mある土壁の天辺まで届く放射状の亀裂を生んでいた。
門を越えた中の様子は、さらに恐るべきものであった。
「あ、兄貴」
「うむ。これは」
戦士の一人が、家屋の屋上を突き破っていた。
四肢が逆向きに折り畳まれ、地面に転がる者がいた。
血を吐き悶絶する者、武器や手足を折られた者はその数十倍にもなった。
番獣どもに至っては、完全なる絶命に至らしめられている。
師範代の二人がかりで手を焼く長大な
里のあらゆる、精強の戦士が――即ち住人の全てが、血海の中へと沈んでいた。
ヘングはその中で、辛うじて意識ある一人の頬を叩いた。
「何が起こった。目が見えるか。浅歩きヘングだ」
「……あれ、あれは」
彼の友は、折れた歯で喘ぎながら答えた。
「あれは……まともな……生き物じゃ、ない……」
「末期の言葉だ、身のあることを言え。まともな生き物がこれをやったら、それこそ一大事だ」
「し、しかし。あれは本当に、まともな形をしておらんのだ」
「“来客”か」
「……ああ、だが、砂海の外から……ではない、内から……」
時には、“図書館”を目指すのではなく、この里そのものを排除すべく訪れる酔狂者がいる。
例えば王国の正規騎士団などが、“来客”と呼ばれる――しかし無論、ここまでの甚大な被害を受けた試しは歴史上ない。
しかも砂海の中から、それが来たというのか。
「おのれ」
「……ヒッ、師範!?」
「カヌート?」
「師範が……池に浮かんでる!」
「馬鹿な。あの師範のことだ、新しい修行法を思いついたのやもしれぬ」
「な、なるほど、左腕が折れてもできる修行ですかね」
確かに、村の中央の貯水池には、彼らの恐るべき師範が、ぷかぷかと仰向けに浮かんでいる。
カヌートの言う通りに左腕は180度捻転し、破壊されていることが明白であった。
いつもながら、なんと凄まじき思いつきで動く老師であろう。
そして池のほとりには、それを成した下手人が――少なくともそれを見たと思しきものがいた。
ほぼ球体の、水のように透き通った薄緑色の実体であるが、生物である。
「……
「如何にも」
それは答えた。限られた知性しか持たぬはずの、不定形の原始生物。
どころか、その仮足でページをめくっているのは、まさか書物であるというのか。
「
「世迷言を。未来を選ぶがいい。浅歩きヘングの刃の露となるか。疾く立ち去るかの、二つに一つだ」
「兄貴……!」
「三つ目が抜けている」
「なんだと」
口答えをする間もなく、へングの両膝に鋭い痛みが走った。
パタリ、と書が地に落ちる音は、その後響いた。
――速い。速すぎる。神経の反応すら追いつかぬ。
愚鈍な
外傷もない。だがまるで見えない錐を差し込まれたように、膝の靭帯のみを切断されたことが分かった。
「兄貴ィーッ!?」
「……最初の一歩の重心で分かった。正中をずらす套路か。その負傷、初撃を覚悟で、合わせての左爪の必殺を狙ったな。これで正しい見立てか?」
「馬鹿な」
「僕は約束を果たしに来た。二十一年前の約束を。そうである以上、道理は僕の側にある。茶の毛のほう、やるか」
「クウーン……お、俺だって……!」
「――そこまで。勝負あった」
割り込んだのは、魔界の底より響くと思える、重々しい囁きの声であった。
地に這いつくばったまま、ヘングは本殿の方角を畏れた。
師範が斃れた今、それ以上の戦士など、一人しか考えられなかった。
……仮にそれが、本当に生きて、活動し得るのであれば。
「まったく、まったく。礼儀を知らぬ……ゴホ、呆れた狼藉者よ」
本殿の闇より現れた者には、毛の一本もない。
乾燥しきった黒い皮膚は皺に覆われ、骨肉と見紛うほどに痩せさばらえた体躯は、カヌートの背丈の三分の二にも満たぬ。
だが、それでもヘングは……その負傷でもなお、存在に向かい、伏した。
未だ意識を残すゼーエフの戦士の誰もがそうした。
「久しいな。サイアノプ」
「……二十一年ぶりになる。彼岸のネフト」
「この体なのでな。年月など数えてはおらんよ」
「無用だ。僕が数えている」
生まれてからの修行を、この伝説の前で積み重ねてきた。
動かずとも厳しいその眼差しに恥じぬよう鍛え、その圧力を全身に感じ取り、故にゼーエフ群はこれほど強くなった。
……だが、まさか。そのようなことが。
「――動けたのですか、御屋形様ァァッ!?」
「喧しいぞ」
心底煩そうに、生ける本尊は耳を振った。
そして比ぶるにはあまりにも下等な、
「望みは」
「今。この場で僕と立ち会え」
彼岸のネフト。
この世で初めて“本物の魔王”に立ち向かった、“最初の一行”の一名である。
――ならば、と、ヘングは思う。
ならばその生ける伝説と今、対等に仕合おうという、あまりにも異質な
果たして、どこから来た、何者だというのか。
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