世界詞のキア その2
出立の朝の空は、曇天に包まれていた。
イータ樹海道は元より雨がちな土地で、一年を通して濃霧が人を阻む秘境だ。珍しい天候ではない。
朝の血の巡りの悪さにいつもの如く悩まされながら、エレアは茹でた麦実と森山羊の乳のスープで、簡素な朝食を済ませた。
文明から食文化まで異なるこの村を訪れた当初は、家事一つをとっても、誰かの手を借りなければならない有様だった。今ではほとんどを、彼女自身でできる。
(キアは、もう外に出ているのかな。……珍しい)
自分よりも先に麦実の殻が捨てられているのを見て、キアが一足早く朝食を済ませたことを察する。
彼女の専属教師となってからの小二ヶ月は、この家で、キアと共に暮らしている。朝に弱い点では、二人は呆れるほど似ていた。
崖下の水辺だろうか、と考える。たとえば授業から逃げようとする際などには、キアはエレアの知るいくつかのパターンで動く。
(まったく、今日は出発の日なのに――)
心中でぼやきながら、エレアは家を出る。そのすぐ前の広場には、三人がいた。
「あ! 先生ーっ!」
「おはよう? こんな時間まで寝てるなんて、大人の自覚が足りないんじゃない?」
「先生……ど、どうも……」
もちろんエレアは姿勢を正して、朝の気怠げな表情を、一瞬で完璧な微笑みへと変えてみせた。
この村での彼女は、優しく美しい、完璧な家庭教師だ。辛うじて、キア以外の子供に対しては。
「おはようございます。ヤウィカさん、シエンさん。キアさんは、あまり悪口ばかりを言ってはいけませんよ」
「えとね、今日で先生が行っちゃうから、シエンも来たいっていうから、あいさつしに来たのー!」
「いえ……ぼ、僕は……その……」
「ふふ。そうなんですか? 先生も、シエンさんが来てくれて嬉しいです」
「……は、はい……」
シエンはこの中では最も年長の少年だが、怯えた兎のようにキアの背中に隠れている。
彼の想いなどエレアは当然に察しているので、時には、敢えて何も知らない風にからかってみせることもあった。
「せっかくお別れに来てくれてるのに、起きてこないなんて。困った先生よね! ヤウィカも退屈だったわよね?」
「んーん! 先生! 起きてくるまでみんなで、紅果を食べてたの! つめたくておいしかったー!」
「ほらもう、まだ口の周りについてるじゃないの……! 拭いてあげるから」
「ふにゃっ」
エレアは、広場を流れる清流の中から伸びた細い紅果の木を見る。
――キアは、まるで全能に等しい。あまりにも絶大な
それはこの秘境の村の中では、こうして紅果を実らせたり、火や光で年少の子供達を楽しませる程度のものだ。敵も競争もない小さな世界では、それ以上の力を振るう意味などないからだ。
「せ……先生! キアはこんなですけど……! 村の子供も、大人たちも、先生には……その、感謝してて……」
「そうなんですか? シエンさんは、どうでしたか?」
「わっ、僕も……! す、すごく、感謝してます。先生が来るまで、僕は雲がどこから来るかさえ分かってなかった……! 先生が教えてくれたおかげで、み、皆、賢くなったんです。本当です」
シエンは意を決したように前に出て、深く頭を下げた。
「……もしもそうなら、それは先生にとって、一番、嬉しいことです。一度だけ、授業で言ったことがありましたね? 『智慧とは種のようなもの』――」
「『学びの水を絶やさぬならば、それは自ら育つ』。けれど、その種を最初に撒いてくれたのは、先生……エ、エレア先生なんです。僕達はその、何のお礼も返せてないのに……迷惑かけてばかりで……」
その頭を、エレアは慈しむように撫でた。そして、強く抱きしめた。
胸の中で、小動物のようなシエンの悲鳴が小さく上がった。
……きっと、ただの好意だけではなく、彼女の思う以上に、シエンは真摯に彼女の授業に向き合ってくれていたのだろう。
「お礼なんて。可愛い教え子ができた以上に嬉しいことなんて、ありませんよ。ね、ヤウィカさん」
「ん! 先生大好き!」
「本っ当に白々しいわ……。シエン知らないの? こういうのが悪い大人なのよ。父さんも母さんも、口先で騙されちゃって。ほらヤウィカも! いつまでもデレデレ甘えないの!」
「キ……キアは
「勉強なんて、好きな子のほうがおかしいのよ!」
「もう……ふふ。キアさんは、いつも素直じゃないんですからね?」
エレアは、教師ではない。
奔放な振る舞いで両親も手を焼いていたキアにも献身的に接し、専属教師として
その行動には、明白な目的がある。
(キアなら勝てる)
キアは、まるで全能に等しい。あまりにも絶大な
敵も競争もない小さな世界で、それ以上の力を振るう意味などない。
――ならば他の何者かが、その意味を与えてやることができたとしたら?
優れた
もしも勇者を決定する王城試合に……今はまだ誰も知らぬ、机上理論ですら想定不可能の、圧倒的に無敵の存在が、忽然と現れた、その時。
他の候補者達は、果たしてどのような顔をするだろうか。
(誰が相手だろうと、キアは勝つ。第二将ロスクレイすら、力で上回ることができる)
強き者を上回るために、自らが強くなる必要はない。より強き者を篭絡するだけでいい。それが赤い
「ね、ね! キア! いつものとこ行こ! しばらくお別れだもん!」
「ええー……いいわよ、あんなとこ見に行かなくたって……大したもんじゃないし……」
ヤウィカは、今度はキアに甘えてしがみついている。子供らしい、有り余るエネルギーであった。
「僕、初めて聞いたな……どこのこと?」
「先生も気になります。キアさんのお気に入りの場所なんですか?」
「ばっ……あたしじゃない、ヤウィカが好きなの! あたしはついてってあげただけよ!」
「つれてってー!」
キアは、少なくとも表面上は、迷惑そうな素振りをした。
ヤウィカもそれを真に受けたりはしない。この村の
「もう……! 腹黒先生はついてこなくていいから! 大したとこじゃないし!」
「はいはい。……とか言いつつ、ついていっちゃったりして」
「本当にいいから!」
子供達とともに、彼女は歩みを進める。
森と川、そして山の起伏に入り組んだ、イータ樹海道。
この村にまだエレアの踏み入ったことのない道があるのなら、それを知りたかった。
今日の昼にはもう、ここを発ってしまうのだから。
「……あの坂、茂みの中に道があったんだね」
「ん! 坂の向こう側にね、村のやぐらの、てっぺんがちょっと見えるとこで、抜けられるの」
「きっと
「……別に猪くらいなら、僕は術で追い払えますから」
「シエンはすごいね!」
「あたしなんて群れごと全部、あの一番高い樹のてっぺんに引っ掛けてやるわ!」
「キアもすごいなー!」
「もう、先生を置いてかないでくださいねー?」
キアが導く道は、エレアの身長が潜り抜けるには狭くて、葉や枝が、いくつも外套に引っかかった。
木のアーチをくぐるたびに、両の指先が土についた。
街にいる時には、決してしなかったようなことだった。誰よりも身の繕いと振る舞いに砕身してきた第十七卿は、この村で、時に子供のような行いをした。
彼女自身が一度も通り過ぎたことのなかった幼き日々を、いつも教え子達に教えられていた。
――そして。
(……十分だ。縦列に並べば、
エレアはいつでも、それを考えている。
この村にまだエレアの踏み入ったことのない道があるのなら、それを知りたかった。
収穫祭では、大人達の火の舞いを教え子達と並んで見て、その熱と美しさに、驚嘆の溜息を漏らしていた。
その一方で、その舞いの準備のために、どれだけの期間、男達が村を離れるのか、その間の防衛体制がどうであるのかを記録していた。
この森で見られる植物の用途を教えようとして、既に
その夜には、傷を癒やす薬草、行軍の糧食となる山菜を、新しく整理して綴り、鳥に乗せて
濃霧が人を阻むこの秘境を、小六ヶ月をかけて、エレアは調査していた。
(この村は平和だ。侵攻を警戒していない。恐らく、七人もいれば十分だろう)
いずれ
それは新たな時代に向けて、“本物の魔王”によって傷つき、疲弊した
キアという希少な異才は、エレアの擁する勇者に。残る村の全ても、国家のための資源となる。
かつて捕らえた敵兵から、この村と“特別な
――美貌によって取り入り、内より腐らせる。
彼女の諜報を前に、全ては容易く落ちる。二つ名は……炎と血とを招き入れる、赤い
「……ほら、ついたわよ! 先生!」
顔を上げる。エレアの予想した通りに、そこは深い谷に臨む、一つの山の中腹のようであった。
「えへー、つかれたね! 先生も疲れてる?」
「え、ええ……。大丈夫です。本当に、ここが?」
疲労と、湧き上がる得体の知れない寂寥に息を吐いて、エレアはその光景を見た。
特段、何の感慨もない。
遠くの山が雲に陰って、霧で輪郭のぼやけた、どこか曖昧なだけの景色に見えた。
「まあ……うん。ほら! ぜーんぜん大したことないでしょ! だから、別にいいって言ったの! この村の最後の思い出がこれなんて、なんだか冴えないじゃない!」
岩の一つに座り込んだキアも、少しばつが悪そうに笑った。
誰にも秘密だった場所。子供達は皆、エレアを大事な仲間の一人として扱ってくれていたことが、エレアにもよく分かった。
ふと、シエンが口を開く。
「……曇っているのが駄目なんじゃないの? そんなの、キアが晴らせばいいじゃないか」
「ああーっ! そうだね! キアがいてよかった!」
「……? 晴らすって、どういうことですか?」
「もう、やめてよ。二人とも簡単に言っちゃってさあ……」
キアはうんざりしたように、崖の向こうに視線をやった。
金髪を少しだけ指先でいじって、そして、やはりばつが悪そうに、エレアを見た。
「……別に、ムキになってるわけじゃないから。先生」
そして、不機嫌に告げた。
「【晴れて】」
神秘を帯びた彼女の囁きは、音の言葉の限界を越えて、遠く空の彼方まで響いた。
海から波が引くように。
空を塞ぐ分厚い雲の層が、一斉にキア達の手前へと流れて引いていった。
風一つなく、時を早回しにしたような奇跡の光景の只中で、エレアは過ぎ去っていく灰色の雲を見た。
それは彼女の立つ世界ごと全てが、雲を置き去りにして、遥か彼方の前方へ運ばれていくようで。
「……ああ」
無敵だ。これは、無敵の力だ。
きっと、どんな相手が立ちふさがろうと、キアは勝っていくだろう。その事だけが分かっていれば、エレアには十分なはずだった。
露わになった朝の光が、地平を横切って、蒼く輝いた。
遠くの霧に霞む山々の輪郭が、その眩い光の透過に、鮮明に浮き上がった。
谷底には、深い霧に隠されていた、広大な湖が広がっていた。
そこには天地を逆映しにした、この美しい光景のすべてがあった。
イータ樹海道。彼女が暮らした。彼女達のいた、優しく暖かな日々のすべて。
「ほら、別に。ぜんっぜん、大した景色なんかじゃないんだから――」
美しさを手段に変えて、もう二度と蔑まれることのない、全てを手にしてきた。
ここで与えられた美しさすらも、何もかも、彼女にとっての手段に過ぎない。
赤い
「ね、大丈夫? 先生、泣いてるの?」
「……? どうかしましたか?」
「先生、泣いてる」
袖を引くヤウィカが、そんな奇妙なことを言う。
エレアは微笑もうとした。
「泣いてませんよ」
エレアは、彼女達に表情を向けることができない。ただその光景から目が離せないまま、立ち尽くしているだけだった。
そうだ。そんなはずはない。
エレアはいつだって、美しくて優しい、完璧な教師だったのだから。
「……先生、泣いてませんから」
それは全ての防御と過程を無視して、あらゆる存在を捻じ曲げることができる。
それは天候や地形までもを一語の下に支配する、果てのない出力を擁する。
それは万物の予測の外にある、解析不能の特異点である。
現時点において限界すら計測されていない、全能の魔才である。
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