異修羅

珪素

第一部 十六修羅

柳の剣のソウジロウ その1

 これは、一人目の話だ。

 遠い鉤爪のユノにとってのそれは、同窓の友人、リュセルスの記憶から始まる。


 リュセルスは美しい少女だった。陽光に流れる銀の髪。整った睫から覗く、切れ長の碧の瞳。人間ミニアなのに森人エルフ血鬼ヴァンパイアよりも魅力的で、同じ女のユノが見てもそう思えるほど、養成校の中で――それどころか彼女の住むナガン市の中で、誰よりも輝いて見えた。


 だから級分けのはじめ、詞術しじゅつの授業中にリュセルスが教えを請うてきた時、ユノは内心の喜びを抑え切れなかったものだ。

 詞術しじゅつの中では多少、力術りきじゅつの分野を得意としてきたユノにとって、多くの同級生の中から彼女が自分を見つけて、ユノの唯一の取り柄を認めてくれたことは、初めての誇りだった。


 生来の少ない口数を振り絞って、ユノは彼女と話した。

 話してみると、リュセルスもまた、華やかな見た目からは意外なほど臆病で、成績が悪い事に悩んだりもする、普通の少女だった。しかし彼女の話し方はいつでも思慮深く、優しく、ユノの憧れが裏切られることはなかった。やがて植物学の分野で、驚くほど話が合うことに気付いた。

 彼女らはいつしか一緒に行動することが多くなって、新しく見つけた星の名前や、王国の併合の話、想いを寄せる男子候補生について教え合ったりもした。


 ナガン市は、大迷宮を中心に発展した新興の学術都市である。この市には複雑な生い立ちを持つ者も多い。遠く親元を離れて探索士養成校まで志願したリュセルスにも、もしかしたら、ユノの知らない何か複雑な事情があったのだろう。

 けれどそういった話に踏み込まなくとも、二人は友人でいられた。


 魔王自称者キヤズナが作り上げたナガン大迷宮には、二人が大人になってもきっと掘り尽くせないほどの、無数の秘密と遺物が残されている。この市ならば、どのような過去の者にも、どのような身分の種族にも、栄光を掴む道が拓けているのだ。

 “本物の魔王”が死んで、恐怖の時代は終わった。破滅に怯える必要もなくなったこの時代なら、未来にそんな夢を見る事だってできた。


 ――その未来が今だった。


「かはっ」


 炎に包まれたナガン市の石畳の上に、リュセルスの体は踏みにじられていた。

彼女の細い背を見下ろしているのは、緑を帯びた金属光沢の、虚ろな巨躯の鎧だ。太く重い四肢。頭部はその殆どが胴体に埋まっていて、青い単眼の光だけが見える。歯車仕掛けの機魔ゴーレム


「あっ、ぎ」


 リュセルスの美しい腕は、ユノの眼前で無造作に二回り捻られて、ブチブチと裂けた。


「リュセ、リュセルス……」


 それがユノではなくリュセルスだったのは、ただの偶然でしかなかった。リュセルスが左側を逃げていたから、石路地の左から飛び出してきた機魔ゴーレムに、彼女が捕まった。

 刃も通さぬ重金属の装甲で鎧われた機魔ゴーレムには、一頭丸ごとの馬の胴をも捻り切る力があるのだという。ただの少女二人には、立ち向かうことはおろか、逃げ延びることも不可能だった。

 それが全てだった。


「嫌! そんな、嫌ぁっ!」


 ユノは叫んだ。美しいリュセルスの肩の付け根から覗いた醜い骨と肉を、見ていることしかできない。肋骨ごと肺を押し潰されたリュセルスは、末期の悲鳴も上げられずにいるようだった。

 リュセルスは、掠れる声を吐いた。


「痛い……いっ、う……ああ……」


 親しい誰かが死にゆく時、自分が無力でいること以上の絶望が、この世にあるのだろうか。

 ――ああ。それとも、絶望ではなかったのか。

 最後の言葉が『助けて』という懇願でなかったことへの安堵を、一片でも抱きはしなかったか。


 大好きだったリュセルス。誰しもの憧れだったリュセルスは……

 そのまま、左脚も根元から引き抜かれた。まるで食肉みたいに脂肪の膜が糸を引いて、もがいていた膝関節は、だらしなく垂れた。


 機魔ゴーレムは何ひとつとして感情を見せず、他の市民を尽くそうしたように、ユノの崇拝する美しいリュセルスをも、生きながら解体した。

 華やかな見た目からは意外なほど臆病な、普通の少女だった。

 リュセルスの苦悶の断末魔を聞きながら、ユノはぐしゃぐしゃになったナガン市を逃げた。


「ああ……! うあああああああああ!」


 走る景色が、歪む陽炎に溶けて流れていく。

 意識すら手放した捨て鉢の逃避の中で、街を徘徊する機魔ゴーレムのどれかに一度も捕らわれることがなかったのは、天の与えた不運だったのかもしれない。

 傷だらけの足がついに歩みを止めた場所は、いつしかリュセルスと休日に通った、思い出の丘の上である。

 汚れた血が、顎を伝って落ちた。ズタズタにほつれた三つ編みを、気にかける余裕すらなかった。


 ――ナガン迷宮都市。町の中心にそびえる鉄と歯車の仕掛け迷宮のまわりを、真鍮色に縁取られた商店や学校が取り巻いた、学問と工芸の市。

 この丘の上で、緑に茂る木々の枝の合間から見えた光景は周囲の自然とは別世界のようで、けれど不思議なほど調和の取れた、素晴らしい景色だったことを覚えている。


 もはや何もない。都市も、草花も、全てが燃えていた。残酷な炎の内には、まだ動き回る影がある。燃えることのない、無慈悲な機魔ゴーレムの群れだった。


「……ねば、よかった」


 変わり果ててしまったあらゆる全てに、ユノは呆然と呟く。

 あの炎の中に、リュセルスがいた。小麦屋のミラー小母さんも、同窓のゼンドも、あんなに強かったキヴィーラ先生も、森人エルフのメノヴも、盲目の詩人ヒルも、皆がいた。

 彼女は頭を掻きむしった。


「わ、私も……引き裂かれて、死ねば、よかった……!」


 何も分かっていなかった。誰一人、何も分かっていなかったのだ。

 あの“本物の魔王”の出現によって霞んでしまったとしても、かつて魔王を名乗っていた者達――魔王自称者・・・達もまた、人を脅かす最悪の脅威で、魔王だったのだと。


 ……魔王自称者キヤズナが作り上げたナガン大迷宮には、きっと二人が大人になっても掘り尽くせない秘密と遺物が残されている。

 まさしくその通りであった。この日、かつてない規模で機魔ゴーレムを生成しはじめた大迷宮によって、午前が終わるより早く、ナガン市は滅んだ。


 なぜ、なんのためにと、理由を考えることすら許されなかった。そうすることができたはずの教授達は、教員棟から出ることもできず真っ先に焼け死んだ。

 ユノやリュセルスにとって雲の上の存在だった正規の探索士達は、虫よりも群れる機魔ゴーレムの軍勢を前にして、信じられないほど、ただ死んでいった。一級生も、二級生も。ユノの背丈の半分すらない二十四級生に至るまで、生きたまま解体されて死んでいくのを見た。


「もう……もう……嫌だ……」


 繁みの中に、機魔ゴーレムの青い眼光がある。こんな街の外れにまで。ユノのように、心折れた少女すら。

 今は、ユノの左を歩くリュセルスはいない。同じように死ぬのだと悟った。


「嫌だ……【ユノよりフィピケの鏃へ u n o  i o  s h y i p i c e 軸は第二指 u n 2  l i n o ――】」

「ジッ」


 無機質な軋み声と共に、機魔ゴーレムの突進が地面を抉った。

 その時には叫んでいる。


「【――格子の星 c o r r o e n u h a 爆ぜる火花 8 d i h i n e 回れ v i r a d n a !】」


 袖の内から、研ぎ澄まされた鉄の礫が弾けた。素早く、円を描く軌道で、機魔ゴーレムの装甲の間隙へと突き刺さった。

 金属の擦れる、鳥の金切りのような命中音。キュイ。キチキチキリ。


「ジ、ジリ、ジ……ギッ」


 それが機魔ゴーレムの内側の、どこか致命的な部分を引っ掻いて、巨体は停止した。


 機魔ゴーレムは精巧な機械仕掛けの人形だが、それに命を与えているのは、一体ごとに異なる位置に刻まれた、命の詞術しじゅつを刻んだ刻印だ。それは授業で習って知っていた。

 ……けれど今しがたのユノの芸当は、奇跡的なまでの偶然だった。狙いをつけたわけでもない。ひどく捨て鉢な、苦し紛れの力術りきじゅつに過ぎなかった。

 彼女は、自ら研いだ礫に、速度の力を与えることができる。二つ目の名は、遠い鉤爪のユノ。


「なっ、なんで……なんで!?」


 自らの技で命を取り留めたユノはむしろ、当惑と絶望に後ずさった。

 詞術しじゅつの中でも、少しだけ力術りきじゅつの分野が上手い。それだけが取り柄だった。


「なっ……なんで、こんなので、死ぬのよ!? ……あの時、ひ、助け……助けられたじゃない!」


 リュセルスの時にはそうできなかったのに。

 彼女と同じように引き裂かれて死ぬことだけが償いだとすら思ったのに、今、生き残るために術を使っている。

 なんと浅ましく卑しい、遠い鉤爪のユノ。あのリュセルスへの友情さえ、その程度だったのか。


「もう嫌……あああああ……! リュセルス……」


 両手で顔を覆って、傷だらけの裸足で、ユノは再び逃げた。

 火の手が回りつつあるこんな森のどこに隠れたとしても、恐ろしい機魔ゴーレムに行き当たるに違いない。それでも、この罪と後悔を背負ったまま生きることだって、変わりのない地獄ではないか。


 ……果たして、木々を抜けた広場では六体の鉄の巨兵が彼女を待ち受けている。

 悲鳴とともに、礫の弾丸を撃つ。しかし奇跡は二度起こることはなく、それらは尽く鎧の曲面に弾かれた。ユノが抗う術はもはや、どこにもなかった。


「ジ」

「ジジジ」

「ころ、殺しなさいよ……ねえ……私が何を言っても、あなたたちは私を殺すんでしょう! だから、何もかも私の望み通りになるのよ! 死ぬのが望みだもの! そうよ、私は……!」


 ユノの支離滅裂な言葉を当然のように無視して、死神の群れは動いた。

 ナガン大迷宮の機魔ゴーレムに刻み込まれた行動指令は極めて単純なもので、視界に捉えた動くものへと向かって、解体するだけだ。

 六体の機魔ゴーレムはそのようにすべく、前傾の姿勢を取った。


 ――それと同時、一番右側の個体が、土に滑り落ちた。腰から上だけが。

 ざくり。

 燃える落ち葉が散った。


 機魔ゴーレムの腰から下は、直立したままだった。重く厚く、刃も通さないはずの装甲が、胴で、綺麗な横一文字に切断されていた。


「え……」


 木々の合間で、何かがゆらめいたように思えた。錯覚の如き速度は果たして、光か。影だったか。

 その不可解を見て、視線を戻した時には残りの五体も斬られている。


 ある一体は縦に二つに割れて、ある一体は肩の一点を刺し貫かれて、ある一体は頭部が存在していなかった。断面はまるで鏡のように滑らかで、炎の赤の反射がはっきりと映った。

 あまりにも、鋭すぎる――そして。


「ウィ」

「ひいっ!?」


 ユノの真横だ。忽然と声が聞こえた。

 いつの間にそこにいたのか。背を丸めた矮躯の男が、彼女の足下にしゃがみ込んでいるのだ。

 長い片刃の剣を――候補生用の練習剣を、右の肩に担いでいた。この殺戮の海に倒れた誰かの剣であろうことは間違いなかった。


「ああ……なに、オメェ。死ぬのが好きか」


 ユノの足元で背を向けたまま、胡乱な男は続けた。


(全部)


 これまで生きてきたユノの常識が、眼前の現実を否定している。


(全部夢だ)


 六体もの機魔ゴーレムが、一瞬で斬られた。

 候補生どころか正規探索士の剣にすら断つことのできなかった装甲を、練習用の剣で、あれほど綺麗に切断できるはずがない。

 頭を落としても腕を落としても動きの止まらない機魔ゴーレムを、ユノ自身にすら倒せた理由の分からないような理不尽を、まるで必然の如く、尽く必殺できる道理などないのだ。


(大迷宮が動き出して、機魔ゴーレムが現れた時から、全部、夢だったんだ)


「な。死ぬのが好きかって聞いてンの」

「う、はい……いいえ」

「なんだァそりゃ」


 男は笑い混じりに呟いて、膝を起こした。


「ヘンな奴だな、オメェ」


 その男は立ち上がってもなお異様な猫背で、まだ十七のユノと比べてすら、僅かに目線が低い。

 紛れもなく人間ミニアだが、つるりとした印象の顔と、ぎょろぎょろ動く双眸は、どこか蛇や爬虫類を連想させる顔面造形である。


「死ぬのは勿体ねェぞ。オメェ……人間、こっから面白いんだろうよ」


 何よりも、身に纏っている衣服が異様であった。くすんだ赤色で、柔軟に伸び縮みする、滑らかな質感の生地。それは手足に沿うように、白い線が走っている。

「お、面白いって」

「……ウィ。経験上・・・な。なんでも、何もなくなってからがいい。どこ行くのも何やんのも、オメェの勝手でできる。……いいもんだぞ」


 男の言葉を呆然と聞きながら、授業で学んだその装束の名を、ユノは思い出していた。この地上のどこよりも遠い異文化の衣である。


 ――ジャージ、という。


「……“客人まろうど”」

「あー……ここでもその呼び方かよ? ま。好きに呼びゃいいけどよ」


 この世界とは文明も、生態系も、月の数すらも異なる、“彼方”より現れる者。

 “彼方”の文化を伝来し、時に繁栄を呼び、時に不吉を運ぶ、稀なる役目の来訪者。

 遥か異世界より転移する者達。それは“客人まろうど”と呼ばれている。


「あの、あなた……い、今、機魔ゴーレムを……」

「んァ」


 男はただ、麓の方向を振り返った。ユノも、その視線を追う。

 その先に広がるものを見た。


「そ、そんな……!? ぜ、全部……これ……」

「つまんねェや」


 剣を担いだまま、客人は口の半分だけで笑った。


 鉄の残骸の海だった。

 丘の上からは見えなかったその窪みには、切断され、機能を停止した機魔ゴーレムが、おびただしく堆積している。装甲の内側に、それも個体ごとに異なる位置に隠された命の核を持つ生命体が、尽く迷いのない一刀で斬殺されているようであった。

 機魔ゴーレムの弱点を外見から類推することなど不可能だ。何故、そのような芸当が可能なのか。


「こんな世界にも機械があんのな。なんだっけか、機魔ゴーレム? いっくら斬っても、大したもんじゃねェー……」

「――大した、もんじゃない……って」


 残骸を見下ろして、ユノは呆然と呟いている。

 の市に住む全ての者達が――構造を自ら組み替え続ける機械迷宮に挑むべく鍛錬してきた者達の悉くが、この鉄の軍勢の前に潰えた。

 機魔ゴーレムの生態を知らなかったからではない。防衛機構として機魔ゴーレムを生成し続けるナガン大迷宮に挑む者達は、むしろ他のどの市の戦士よりも、機魔ゴーレム相手の戦闘に長けていた。最大の中央国家である黄都こうとの正規兵だったとしても、この災厄の前では、結果は同じだったはずだ。


 ならばこの男は、都市一つを滅ぼしてあまりある悪夢を、ただ一人で、ただ一本の剣で上回るほどの、真なる怪物だというのか。

 火の熱を帯びた風が、ユノの濡れた頬を冷やした。


「ウェ」


 一方で“客人まろうど”は手近な野草を口に含んで、吐き出している。


「これ、食える草じゃねェんかよ」

「あ、あの……それ。根束草なら、毒草、だけど」

「だと思ったわ。オメェ、飯は持ってねェのか」

「に……逃げたほうがいいわよ、あなた……!」


 それでも、世界のことわりの外にある絶大な力を目の当たりにしてもなお、ユノはそのように言うしかない。彼女は、もはや知っている。魔王自称者キヤズナが作り上げたナガン大迷宮が、彼女やリュセルスの暮らしていたこの街が、地獄そのものの魔境であったことを。


「絶対に……いくら強くたって、もう、この街は、無理なの……!」

「なんだなんだ、怒んな。無理って、何が」

「な、何がって……あなたこそ、あれが見えないの!?」


 ユノは、丘から見下ろせるナガンの光景を指した。

 雲霞の破壊で街を覆う、無限に群れなす機魔ゴーレムではない。

 炎の陽炎の、さらに向こうを。


「その剣一本で、あれも殺せるっていうの!?」


 市の建物の何よりも大きい、山にも及ぶ巨影が揺らめいている。

 それは人型を成している。

 ……ああ、これこそが悪夢。彼女の育った市街を見れば、そこには狂気の夢がある。

 ナガン大迷宮が動き出して、機魔ゴーレムの群れが現れ出た。それは一切比喩ではない。


 何も分かっていなかった。誰一人、何も分かっていなかったのだ。

 それは、絶大な軍事力を誇示するための構築物なのだろうか。あるいは伝説的な機魔ゴーレム製作者、魔王自称者キヤズナですら、世界の表裏を区別なく暗黒の恐怖に陥れた“本物の魔王”を打ち倒す試みのために、そのようなものを造り出すしかなかったのだろうか。


 炎の向こうで、ナガン大迷宮は低い潮騒のような咆哮を上げた。

 ――誰一人、何も分かっていなかった。都市が興り栄えるほどの十年、この地に根付いていた魔王自称者キヤズナの大迷宮は、まさしくそのものが、巨大な一つの迷宮機魔ダンジョンゴーレムだったのだと。


「ウィ」


 ……答えることなく、男はユノに剣の切っ先を向けた。

 ぞっと、ユノの全身が総毛立った。

 未熟な彼女には殺気を感じ取る力もなかったが、それでもその剣が帯びた、おぞましいほどの死の予感は分かった。


 剣の切っ先が霞んだ。


「――チェァッ!」

「ジッ」


 ユノの背後で、機魔ゴーレムが刺し貫かれている。

 彼は低い姿勢をますます低く屈めた踏み込みで、ユノの股下を潜って刺突を放ったのだ。外見からは窺い知れぬはずの、機魔ゴーレムの命の核の一点へと。


 剣の柄は、脚で蹴り込まれていた。


「こんな、技……な、なんで……」


 股下を潜られたことへの羞恥の心すらなかった。その一瞬を認識することもなかったのだから。

 正常の剣術ではない。

 この世界どころか、他のどの世界にも、このような剣術体系があり得るはずがない。ユノは恐怖した。それは認識の外側に立つ存在への恐怖だった。

 爪先だけで柄の先を器用に回転させて、“客人まろうど”は再び剣を背負う。


「飯持ってねェか。別に草でも虫でもいいんだけどよ。まだ朝飯食ってねェんだわ」

「け、携行食なら……あ……あるわ。けど、これ、そんなに味もなくて」

「面倒っちいなァもう。じゃあ交換だ交換。オメェ、その飯よこせ」


 剣士は陽炎の彼方を見つめた。


「――代わりにあのデカブツ、やってやっからよ。そろそろやっちまおうと思ってたんだわ」

「できる……はず、ない」


 ユノは、剣を見た。ユノにも支給されているのと同じ、使い古しの軽い練習剣。男の担いでいる得物は、確かにその一本だけだ。

 この男には何ができるのか。秀でた知略があるのか。強大な仲間がどこかにいるのか。何かひとつでも、攻撃の詞術しじゅつを使えるというのか。


「やっちまおうぜ。いいだろう。面白ェだろう」

「……」

「楽しそうだ」


 戦闘を。殺戮を。死の極限を、この男は楽しんでいる。

 故郷が地獄に変わるのを見た。けれどこの異貌の小男は、それ以上の地獄の果てからの悪鬼であろうか。


「あなたは……なっ……何なの!? その技は何!? どこから来た、誰なの!?」


 錯乱して問うユノに、男は口の端を非対称に歪めた。

 そして答えた。


柳生新陰流やぎゅうしんかげりゅう


 この男の、異世界の素性を知ったところで、どうなるというのか。

 その自称が果たして真実であるのかどうか。ユノには窺い知れようはずもない。


「――柳生宗次朗やぎゅうそうじろう。このオレが、地球最後の柳生だ」


 この世界とは異なる、“彼方”から現れる者。

“彼方”の文化を伝来し、時に繁栄を呼び、時に不吉を運ぶ、稀なる役目の来訪者。


 その剣豪は、最悪の不吉と共に来た。

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