第10話
それは人の大きさほどもある大トカゲのような形をしていた。しかし、その顔はイソギンチャクのような触手の束となっている。
その一本がアレイルの右足を捕らえていた。マントとシャツが捲れ上がり、上半身が現わになる。
今まで黙って震えるだけだったラルシュが、そこで初めて泣き声をあげた。
「何も恐がることはない」
なだめたのはセレイダルだった。
「さっきも言っただろう。お前達を殺したりはしない。呼び出した天使の霊を入れるための器になるのだから。それに自分達と同じ姿をしたものが地上にいるのを見れば、様子を見にまた現われてくださるかも知れない」
「ハン!」
アレイルは鼻で嗤った。
「天使なんてもうどこにもいねえよ」
ゆっくりと背中に折り畳んでいた翼を広げる。
「いまだに地上に残っているのは俺だけだ。もっとも――」
左の翼は細かな羽がほとんど抜け落ち、白いワラを雑に束ねたように無残な状態になっていた。その根元の皮膚は、青灰色に腐っている。右の羽に至っては、ちぎれて半分ほどしか残っていない。
「――もっとも地上の汚れた空気と食べ物で翼も腐れちまっているが。香水でごまかさないと臭いって言われるしな」
「キイイイ!」
兄弟を守っていたカナフが、機械的な声をあげた。
「そ、そんな……嘘だ、そんなボロボロの翼……」
「確かにこのままじゃ浮かび上がることもできねえよ。だがな」
カナフはアレイルの両翼の根本にしがみついた。首や足が変形し、細い針金のようになってアレイルの翼に絡み付く。
カナフが金属製の翼を広げた。小さかった翼は、アレイルの体に見合う大きさまで広がっていく。
「足なら義足、手なら義手。翼だったら義翼(ぎよく)を付けりゃいいだけだ」
アレイルの体が浮き上がる。一瞬たるんだ触手を、打ち振った翼で断ち切った。
そのまま魔物の方へ突進する。翼は銀の刃と化し、魔物の体を斜めに斬り裂いた。
アレイルはひざまずくように着地する。大きく息をつく。昔ある技術者に作ってもらった者だが、取り付ける本物の翼自体が傷んでいるため、羽ばたくたびに痛みが走る。
「う、うあ!」
今まで天使を崇めていたくせに、セレイダルは不敬にも拳銃を撃ってきた。
翼で体を包みこむ。弾丸が弾き飛ばされ、火花が散った。
金属音が止み、弾切れを知って、アレイルは体を覆っていた羽を戻した。
「生物を好きにいじくる技術か」
「ひっ……」
少し近づくと、哀れなくらいセレイダルは怯えた。
「それも、使い方によっちゃあ役に立つだろう。傷を治したりなんなり。どうだ、俺の監視下で……」
アレイルがすべての言葉を言い終わる前に、セレイダルはこめかみから血を噴き出した。そしてそのまま人形のように倒れこんだ。
「へ?」
一瞬何が起こったのか分からなかった。
壁にアレイルの腕ほどもある黄色いトゲが突き刺さっていた。その刺がセレイダルの頭を突き抜け、そこに刺さったことはついている血で分かる。
ペタリと後から音がした。
振り向くと、化物が左肩のない上半身を起こしていた。
化物が頭を突き出す。ガラスの矢と化した触手が放たれる。
兄弟が悲鳴をあげた。
「危ねえ!」
銀色の翼と、拾い上げた槍でトゲを払い除ける。
無事かと目を向けると、兄弟は抱き合うようにして小さくなっていた。
金属性の棚を掠めたトゲが、不快な音を立て軌道を逸れ、パルシュ達の方へむかっていった。
「ッ!」
アレイルが駆け出した。
黄色い先端がパルシュを捉えようとする。
泣いていたラルシュの顔に、一瞬決意の表情が走ったのをアレイルは見た。
ラルシュは弟を抱え、体を投げ出すように床へ伏せる。
凶器は壁に当たり、床に落ちた。そしてべちゃりと音を立て、ただの触手となった。
それを合図にしたようにぴったりと攻撃が止む。化物は完全に最後の力を使い果したらしく、もうピクリとも動かない。写真と書類の上で、完全に二つの塊になった。
「うわああああん!」
意識の戻ったパルシュが、泣き声をあげた。生きていることを主張するように。
ラルシュはアレイルを見上げた。アレイルもラルシュを見下ろす。
「前言撤回だな。何もできないわけじゃない。お前はちゃんと弟を守れたよ」
ラルシュはしばらくの間応えたらいいか迷っているようだった。
結局ぐっと親指を立てて見せた。人間の最盛期から続く、上出来、上々を表すジェスチャーだ。
アレイルも、同じ仕草をして見せた。
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