温泉街のヒノエちゃん

振悶亭 めこ

第1話

「私、引っ越すんだよね。だから家に置いたままの荷物を取りに来て欲しい」


旧友からの一方的な電話だった。彼女の住んでいるアパートの場所まで、今現在私の暮らしている街からは遠い。

「はぁ……荷物なんて、優子の家に置いてたっけなぁ?」

取りに行くにしても、こちらは1週間ほど仕事を休むことになってしまう。急に長期の休暇など取れる筈が無い。ため息が、溢れる。

「ため息つくと、幸せが逃げちゃうぞ?」

ポン、と、肩に手を置かれる感触に、振り返る。

「ミズノト姉さん……」

「お疲れぎみなヒノエちゃんに、明日からのお仕事スケジュールです!」

姉さんは、水色のウェーブがかった長い髪をかきあげて、目線を合わせるように少し屈んで1枚の紙を手渡してきた。姉さんの服の上からでも分かる豊かな胸元が、たゆん、と揺れる。

「明日、から?何日かみっちり入ってんスか?それとも新人教育……は、苦手だから勘弁して欲しいな」

「違う違う、もっと珍しいやつ!四柱じゃなきゃ回ってこない、特別なお仕事よ。ちゃんと目を通してから判断しなさいな」

渡された紙を広げ、サッと目を通す。紙には、私自身についている常連の中でも最も長い付き合いのある、客人の名前。希望の場所は、旅行と言っても良い程、この街から遠く離れた門前町。待ち合わせ時間は、日付変更と同時刻、街の中心のバスロータリー。期間は、街を出て戻ってくるまでを含めて1週間ピッタリだ。

「街の外の仕事……めっちゃくちゃ久しぶりじゃないか!て、明日って事は姉さん?」

「さっさと準備しちゃいなさいよ。行き先の門前町で、寄りたいお店や食べたいものがあったらちゃんとお客様に伝える事!」

「それは、ねぇ……法師さま、いつもヒノエの食べたいものが食べたいとか、ヒノエの見たいものがある場所に行きたいとかだからね。いつも通りって事で良いっスかね?」

通称「法師さま」は、ヒノエがヒノエになる前から、この温泉街にフラっと来ては遊んでいた男性だ。もう還暦も過ぎた年齢だろう。法師と呼ばれてはいるものの、本物の坊さんではなく、若い頃から変わらぬ坊主頭から来る通称である。

「ふふっ、法師さんはヒノエにベタ惚れね。ヒノエもいい仕事してるじゃない。時間、間に合うようにね?」

「分かってますって、ミズノト姉さん!」

座布団を敷いてお茶を煎れ、綺麗な姿勢で寛ぎ始める姉さんを横目に、私は休憩室を後にした。

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