スヴァールバルの幽霊たち

吉永動機

スヴァールバル・フレンズ・プロジェクト

ノルウェーのスピッツベルゲン島には、近い将来、世界が深刻な混沌へと陥った時の為に、ありとあらゆる植物の『たね』を保管する施設——スヴァールバル種子貯蔵庫がある。

そこは、冷却装置によってつねに摂氏マイナス18~20度に保たれており、そして万が一装置が故障しても、周囲を取り囲む永久凍土層がマイナス4度を維持する。つまり、世界が電力を失ったとしても、その機能は周到に保存される。

地球温暖化による海水面の上昇にも耐えうるよう海抜約130メートル地点に設けられたその貯蔵庫は、かのような盤石の態勢を以て、世界各国から1万種を越える『種』を集め、人目に触れずひっそりと『来たるべき日』に備えていた。


それは気の遠くなるような計画であった。

いや、それ以前に、非現実的な予算を数える計画でもあった。果たしてこの世界に〈世界が終わる日〉まで存続させることを義務付けられ、半永久的に予算をつぎ込まなければならない施設を管理したがる者などいるものか。

果たしてそのは、世界一の大富豪によって『不』の字を抹消され現実のものとなったのだった。


そして、西暦2145年。

残念と悲しむべきか、想定通りだったことを喜ぶべきか——『来るべき日』はついにやってきた。

世界は燃えて、考えうるすべての共同体は消滅し、地球上からすべての鼓動・息づかいは消えた。

地球の物語はここで終わった。

地球はもう繁栄もしない。衰退もしない。楽しいことも悲しいこともない。感情は消えた。


しかし。


しかし、だ。

終わったのは地球の物語だ。

宇宙の物語にはなんら影響しない。

20世紀初頭からうすうす人間が気付いていたように、宇宙にとって地球の存在は塵ほどにもならないのだ。

地球の物語が終わることを、宇宙は歓迎も後悔もしない。気付いていたかどうかも疑わしい(というか、たぶん、気付かなかったろう)。


だから、ここからは、宇宙の物語だ。

あらゆる生命が消滅した地球を舞台にした——宇宙の物語だ。


×


『来たるべき日』は、簡単にやってきた。

しかも、ちゃんと『来たるべき日』という顔をして。

世界中の誰もが、今日が地球最後の日だとはっきりと悟った。自分の一生もここで終わると確実に認識した。常人であれ、狂人であれ、賢者であれ、愚者であれ。

マクロに見れば、等しく『死』は訪れた。


スヴァールバル種子貯蔵庫は創設137年目で、はじめてその役割を果たそうとしていた。

世界的災禍のさなかだったからか、その瞬間を施設内で迎えていたのは、たった一人の女性研究員だけだった。

彼女ははじめ混乱した。家族も死んだ。友人も死んだ。仲間も死んだ。孤独に押しつぶされ、施設内に乾いた響きをもたらすほど泣き叫んだ。使命感を持って職務にあたっていたとはいえ、終末の刻を待つ数万の物言わぬ『種』とともに人生を終えることに身の毛がよだった。自分の運命を呪った。

研究者として、仮定と実験検証の輪廻サイクルに身を置いていた彼女ははっきりと理解した。『慮る』ことと『実際に体験する』ことの間にある絶望的な溝の存在を。その大きさを前に、我々は立ち尽くすしかないことを。

それは悲劇だった。立ち尽くすしか許されないことがいかほどの苦痛かを、知らぬものはいない。

しかしすぐに頭を切り替えた。意外と人の脳はそのようにできている。正常性バイアス。このような、混迷の中で、人は、必要以上に、落ち着いて、みせるのだ。悲しみが深すぎて活動に支障が出るとなれば、容赦なく情感をシャットアウトする。


彼女は行動を起こした。人類最後の人間としてのを果たそうと考えたのだ。彼女にはその責任が何であるかがすでにレクチャーされていた。貯蔵庫の研究員はすべて、創設者の思想が教えられていた。


『種』の貯蔵庫が作られた真の目的について、その一端を。

同意するか否かはさておいて——というのは——極端な思想だと、彼女は感じていたからだ。十数名いた研究員の中で、誰よりも疑問を抱いていた。そんな自分が実行するはめになったことに、彼女は皮肉な苦笑を漏らす。

もともと皮肉めいた笑顔が特徴の女性だっただけに、もし同僚が見てもその違いに気付かなかっただろうが。


まず、無機質な白い廊下を歩き、職員室の奥にある女子更衣室に赴いた。そして自らに割り当てられたロッカーを開け、中から大きなかばんを取り出した。

彼女の胴よりも大きなかばんだ。背負っているだけでただ事ではないと思わせるサイズである。サイズとは、情報だ。大きいものは強く、恐怖を招き、小さいものは弱く、見過ごされたりする。

そして教えの通り、彼女は自然の冷蔵庫となった貯蔵部屋を一室ずつ回った。段ボールに入った『種』や、試験官のような透明の筒に入った『種』、ガロン缶をさらに凶暴にしたようなタンクに詰め込まれた『種』、展示用にガラスケースに収まった『種』、それらを要領よく、隙間なくかばんに詰め込んでいく。

彼女はかばんに物を詰め込む作業が嫌いではなかった。もともと、そういう性癖を備えていた。空白恐怖症とでもいうべき傾向だ。教科書の偉人の写真に落書きをすることが彼女の密かな楽しみだった。


『種』の種類は数万にものぼるため、そのすべてをかばんに持ち出すことはできない。彼女はかねてから指示のあった二百種をかばんに詰め込むと、まだ350ミリリットル缶一本分ほどの隙間があることに後味の悪さを覚えつつも、次なる行動に移った。


内壁に沿った細く長い階段を降りる。海抜100メートル以上の地点にあるが、構造上は地下造りのため、やけに音が反響する。人が二人並べば肩が触れ合う幅の階段を幾度か折り返し、やがて地下12階に辿り着いた。

そのフロアにあるのは一室のみ。普段は滅多に立ち入ることのない場所だが、彼女は最後の責務を果たすべく、その扉を開けた。


視界が拓ける。室内は明るかった。しかし電気は点いていない。地上からわずかな太陽光を巧みに取り込み、彼女には見当もつかない方法でそれを何倍にも増幅し、まるで外にいるかのような明るさを実現している。

地下11階までの陰鬱とした空気は皆無だ。果てが見えないほど広く、どこにこんなスペースがあったのかと、狐につままれたような気分になる。

足元は一面、草原のようだった。……が、よく見るとそれはイミテーション。人工の芝らしい。最初に目に入るのは、耳が大きなネコ科の動物の全身標本だ。巨大な筒の中で特殊な液体に漬けられている。頭部から何本か、管が延びている。

彼女がそれに近づくと、管は毛皮にめりこみ、頭部に埋め込まれているかのように見えた。疑問が湧いた。


その奥には、また別の動物が。その横にも、そのまた奥にも……無数にある。基本的には、一種につき一匹。多様性を重視したコレクションだ。

何度来ても不気味な場所だと感じた。

スヴァールバル種子貯蔵庫の裏の顔が、ここにある。この事実は世間には公表されておらず、職員の一部だけが知っている。彼女も知っていた。貯蔵庫が植物の『種』だけでなく、動物も保管していたことを。

そしてこの『来るべき日』に、これらを解き放ち、地球の物語を存続させようというストーリーだった。

そのことについて、今まで深く考えたことはなかった。しかし、実演を迫られる今、彼女は猛烈な違和感に苛まれた。やはり理論と実践の隔たりはいかんともしがたい。


解放を前提とするのなら、液体に漬けおくだけで、脳に管をつなぐ必要などないのでは? いや、そもそも、標本を置く必要などあったのか。精子を保管しておけば、それはまさしく『種』を保管したということになるのではないか。植物の『種』を動物に置き換えるなら、そうすべきではなかったか。

そもそも、一種につき一匹だけを保管し、それを解き放ったところで、交配ができずにその一代で種は途絶えてしまうではないか。多様性を重視して様々な動物がいたとしても、それらが捕食関係にあれば、繰り広げられるのはではなく、ではないか。

彼女は頭痛を覚えた。この計画には穴が多すぎる。

この貯蔵庫を創り上げ、この計画を主導したのは、かつてITで莫大な財をなした億万長者だと聞いている。それほどの男が、こんなお粗末な計画を立てるだろうか? 『種』の保存の重要性を説いた男が、こんなバカであるとは、彼女には思えなかった。

頭痛の意味が、少し変わった気がした。

彼女は悟った。このエリアには何か、とてつもない裏がある。そして、そんな高尚な建前がある話に潜む『裏』というのは、ロクなものじゃないと予感した。彼女の頭痛の種はいま、そこにあった。


歩みを進める。寒気がするが、気をしっかりと持たなければならないと考えた。最後の決定権は自分にあるのだ。気に食わない計画なら無視すればいい。プレーヤーは自分だ。計画者は計画者でしかなく、いま、ここに立っているボクこそが決定をくだせる。最後は自分の心に問いかければいい。そう考えることにした。


カバ、ライオン、シカ、ペンギン……ツチノコ(ツチノコ?)。などなど。

おびただしい数の動物たちの標本を横目に十分ほど歩くと、部屋の奥に到達した。

そこには、一台のラップトップが備え付けられていた。彼女はその存在を初めて知った。『来たるべき日、地下12階をくまなく調べろ』の言いつけ通り一番奥に来た彼女は、自分が探していたものはこれだとはっきり理解した。


逡巡はあったが、エンターキーを押す。デスクトップが立ち上がり、デフォルトの白々しい草原の画像が浮かぶ。そこにまるで投げ捨てられているかのようにたったひとつ、ファイルがあった。


『スヴァールバル・フレンズ・プロジェクト』


と名付けられたテキストファイルだった。

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