時柴流星の変身

泡野瑤子

1


 運命が胸毛を生やす!

 じゃ・じゃ・じゃ、じゃーん。

 じゃ・じゃ・じゃ、じゃーん。

 時柴流星ときしばりゅうせいは、鏡に映った風呂上がりの自分を前にして嘆いた。

 交響曲第五番ハ短調「運命」。十六歳の夏、そのメロディが流星の脳裏に不吉に鳴り響く。作曲者のベートーヴェンは、「運命が扉を叩く音だ」と言ったらしい。しかし流星の運命は、ノックもせずにやってきて、初めての胸毛をこっそりと生やしていった。

 流星は何度も鏡を見直した。見慣れた顔がそこにある。もう少し目がぱっちりしていたらいいのにと思うが、それはまあ仕方ない。ちょっと伸びすぎた髪は、明日昼のうちに美容室でカットしてもらう予定。髭はまだ生えてこない。

 問題は胸毛だ。

 胸毛といっても、たったの一本。よくよく見なければ気付かない。しかし、洗濯板のような頼りない胸板にきざした一本のそれは、産毛と呼べるほどウブなやつではなさそうに見えた。

 もしかしたら、糸くずが貼りついているだけなのでは? 洗面台には、母の毛抜きが置いてある。流星は、試しにその毛を引っ張ってみた。

「痛っ」

 間違いなく自分の毛だった。しかも、かなり根深そうだ。それは何事も無かったかのように、依然としてそこに生えている。

 流星は胸毛を抜くのを諦め、力なく毛抜きを転がした。

 あああもう、俺の人生はおしまいだ。明日は、玉井たまいさんと一緒に花火を観に行く約束なのに。

 待て。落ち着け。落ち着くんだ俺。胸毛が生えたからといって、まだ「そうだと決まった」わけじゃない。もう高校一年生なんだから、胸毛の一本や二本生えることもあるさ。ほら、空手部の鷲尾わしおなんて、すでにボーボーじゃないか。――いや、あんなやつと比べてどうする?

 流星は一人悶々と悩んだあげく、上半身裸のまま脱衣所を出た。

 廊下に飾られた複製画が目に飛び込んできた。画家の次郎叔父さんの作品だ。叔父さんは、その筋では結構な有名人らしい。

 絵のタイトルは「慈母じぼ」。中年の女性が軒先に座って、膝の上の子犬を撫でている様子が描かれているのだが、次郎叔父さんの絵はいつも色遣いが独特だった。くすんだ青と黄色で描かれた、色あせたカラー写真のような画面に、ところどころに深い群青色やレモン色が足されている。

 見慣れた絵が、今日の流星にはこの上なく不気味だった。絵から目を逸らし、逃げるように自分の部屋へ駆け込む。

 この胸毛は、果たして単なる二次性徴の一環なんだろうか?

 明日は無事、玉井さんと二人で花火を観られるんだろうか?

 じゃ・じゃ・じゃ、じゃーん。

 じゃ・じゃ・じゃ、じゃーん。


 ***


 なぜ時柴流星はかように胸毛を(文字通り)毛嫌いするのか。まずは彼の身に起こった喜ばしい出来事について話しておく必要がある。(そして前もって言っておくと、この後彼は喜ばしくない真実を知ることになり、それに胸毛が深く関係しているのだ。)

「あの、時柴くん」

 それは、一学期最後の日のことだった。

 流星は帰り際に、廊下で女子に声をかけられた。振り返ると、そこには同じクラスの玉井さんと、女子A・女子Bがいた。ひょっとすると、女子CやDもいたかもしれないが、このとき、流星の脳は、玉井さん以外を認識しなかった。

 玉井さんが流星に話しかけてくれること自体は、さほど珍しいことではない。毎日挨拶してくれるし、授業の話やテレビの話もしてくれる。けれども、この日は少し様子が違っていた。

 たまちゃん、ファーイトっ。

 周りの女子のうち誰かが、軽く玉井さんの背を押した。

 つややかな黒いおさげ髪。色白で小顔。玉井さんは、ちょっとつり目気味の、大きな瞳が魅力的な美少女だ。アイドルグループに混ざっていてもおかしくないくらいかわいい? いや、玉井さんレベルでかわいい子は、群れる必要などないのだ! ――というのは、いささか流星の主観が入りすぎているかもしれないが。

 そう、流星は玉井さんのことを、ハート型の色眼鏡で見ていた。

 幸運なことに、流星は玉井さんと高校入学前から知り合いだった。中学は別々だったが、塾が一緒だったのだ。

 玉井さんは容姿だけでなく、心も美しかった。難しい問題で行き詰まっていた流星に声をかけ、丁寧に教えてくれた。ときにはお菓子を分けてくれた。「一緒に受験がんばろうね」と励ましてくれた。いつの間にか、流星は毎週水曜日の塾通いが楽しみになっていた。流星は玉井さんと同じ学校に行きたくて、少々無理をしてこの高校を第一志望に選んだのだ。

 さて、その玉井さんが、こんな風に話を切り出した。

「時柴くん、八月一日って、何か予定ある?」

「いや、別に」

 そっけない答え方だが、断じて気取っているわけではない。流星は玉井さんに話しかけられると、いつだって言葉が上手く出ないのだ。以下の会話でも、流星は同様に動揺している。

「八月一日に、多根川たねがわの花火大会あるよね」「あー、うん」「時柴くん、たしか、近所だったよね?」「うん」「あの……ね」「うん?」

 ここで玉井さんは一呼吸置いた。

「もし、よかったら、なんだけど……二人で、行かない?」

 流星がたったこれだけの言葉の意味を理解するのに、いったい何秒かかっただろう。

 玉井さんが、俺と、二人で、花火?

 流星が何も答えずにぽかんとしているので、玉井さんが不安げな表情を浮かべている。

「わたしと二人じゃ、つまんないかな……」

「いや」

「嫌?」

「あーいや、嫌じゃなくて、……うん。いいよ」

 流星がどうにかそう言い切ると、玉井さんはほっとしたように表情を緩めた。流星だって、本当は嬉しくてたまらないのに、緊張し過ぎてうまく笑えた気がしなかった。

 玉井さんと連絡先を交換したのは初めてのことだった。そのとき流星は、自分がほとんど「あー」「いや」「うん」しか言っていないことに気がついた。こんな受け身な態度じゃダメだ。乗り気じゃないみたいじゃないか。俺からも、何か提案をしなくては。

「あ、たっ、玉井さん」

 流星は勇気を出して呼びかけた。

「俺、花火がよく見えるとこ、知ってる」

「ほんと?」

「うん。うちのじいちゃんが、七中ななちゅうの裏山にちょっとだけ土地持ってて、いまは父さんが駐車場代わりに使ってるんだけど、そこなら、人ごみに巻き込まれずに花火がきれいに見えるよ、うん」

 流星が教えたのは、時柴家だけが入れるとっておきの穴場だ。玉井さんがぱあっと表情を輝かせた。

「すごい! ひょっとして早めに場所取りしとかなくちゃだめかなって思ってたんだけど、心配いらないね。えっと、花火は七時半からだから……十分前くらいに七中の正門にいけばいい?」

「うん」

「ありがとう! 楽しみにしてる」

 玉井さんが大きくうなずいたとき、おさげ髪も一緒にはねた。つやつやの髪から、ふんわりとシャンプーの甘い香りがしたとき、流星はようやく彼女に微笑みかけることができた。喜んでくれてよかった、と流星は思った。

「それじゃ、また連絡するね!」

 玉井さんは流星に手を振り、女子たちと軽やかな笑い声を立てながら遠ざかっていった。

 玉井さんと、二人で、花火!

 今度はゆるんだ頬が元に戻らなくなった。流星は窓の外に広がる昼間の空を、瞼を閉じて忘れた。そして、もう花火大会の夜を幻視しはじめていた。

 漆黒の夜空に咲く大輪の花々。一瞬で燃え尽きる花は美しく儚い。遅れて届く音とともに、流星の胸の奥まで揺さぶる。

 ふと隣に目をやると、玉井さんも同じ夜空を見ている。花火に魅入られた瞳は無垢そのものだ。流星は彼女から目が離せなくなる。やがて彼女も流星のほうを見る。二人は見つめ合う。花火の音が遠ざかっていく。そして――。

「ずいぶんご機嫌じゃねーか、時柴」

 流星の瞼の裏に浮かびかけた都合のいい妄想は、がさつな低音の響きによってかき消された。

 空手部の鷲尾だ。図体もでかいが声もでかい。顔も濃いが体毛も濃い。筋骨隆々、胸毛はボーボーである。中学時代に空手の個人戦で全国優勝して、特待生としてこの学校に入った強者だ。

「な、何」

「分からん、分からんぞ時柴」

 鷲尾がくどい顔をぐっと近づけてきた。

「何でこの俺を差し置いて、お前みたいなやつが玉井さんから花火に誘われるんだよ?」

 でかいのは図体と声だけじゃない。態度もまたでかかった。そんな鷲尾は、玉井さんと同じ中学の出身だ。彼もまた中学時代から、玉井さんに想いを寄せているらしかった。

「俺じゃなくて玉井さんに聞いてよ」

 面倒くさいやつに聞かれてしまった。流星はさっさと帰ろうとするが、鷲尾はなおも食い下がる。

「別に、お前と玉井さんは、つ、つつつつ付き合ってるってわけじゃあ、ねえんだよな」

「ただ花火に誘われただけだって」

 そうだ。舞い上がってはいけない。ただ花火に誘われただけなのだ。俺が近所だから、土地勘がありそうな知り合いを頼っただけに違いない。きっとそうだ。玉井さんが自分のことなんかを好きなわけがない。

 そう自分に言い聞かせてはみるものの、それでも流星の胸は躍っていた。少なくとも、流星と花火を二人で観に行ってもいいと思えるくらいには、好意を持ってくれているはずだ。流星にとっては、それだけで十分光栄なことだった。

「じゃあ! 俺も待ち合わせ場所に行ってもいいよな!」

「うん、それはほんとにやめて」

 そうライバル視されても困る。流星には、鷲尾と違って何の取り柄もない。玉井さんと付き合いたいだなんて、大それた望みはないのだから。ただ近くにいられるだけで幸せなのだ。

 玉井さんと、二人で、花火!

 以上が、時柴流星に起こった喜ばしい出来事だった。しかしこのとき彼は、胸毛にまつわる喜ばしくない真実については、まだ何も知らなかったのである。

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