3 イルダリア国立図書館
その二日後。
たまたまイルダリア国立図書館に用があったザナトは、バスに揺られて首都ダリアに向かった。《ザ・ワンド》のあるアーナシナの町からは、二時間ほどの距離である。
アーナシナの森を抜けると、荒野の向こうに次の森が見えていた。そこにも小さな町があり、バスはそこで一度客を乗せてから、また荒野に出る。イルダリア東部は荒野の中に、水が沸き緑の出ずる場所が点々としていて、人々はその周りに身を寄せ合うようにして暮らしていた。
やがて緑が増え、街路樹に区切られた土地に畑が広がる向こうに、首都ダリアの茶と赤の町並みが見えてきた。
国立図書館は、まるで古の宮殿のような作りをしている。薄茶の石造り、イルダリア建築の特徴である巨大なアーチ、そこをくぐるとドーム状の高い天井のホール。来館者は必ずホールを通ってから、様々な書庫へ移動するようになっていた。
「あらザナト、しばらくぶりね」
受付の中年女性は、もうすっかりザナトの顔を覚えてしまっている。
「先月から来てなかったじゃない」
「最近、仕事が立て込んでて、研究の時間が取れねぇんだよ」
来館者名簿に名前を書きながら、ザナトはぼやいた。
「ようやく時間ができて、この間ここに来てみたら、図書館がらみの仕事を頼まれるしよ」
「もしかして、書庫のところの木? ザナトが構築するの、
「もうやったよ。今は編成待ち」
「その間だけ、時間ができたのね」
「そういうこと」
名前を書き終えたザナトは《ピーラ》を見せ、魔法関係の書籍を閲覧する許可を取る。
「頑張って」
女性に見送られ、ザナトは軽く手を挙げてホールの奥へと進んだ。
突き当たりの左右に廊下が伸びており、ザナトはそこを右へ、そして渡り廊下を進んで別棟に入った。一般来館者の多い、最も大きなその棟からはさらに、渡り廊下で別の棟へと行けるようになっている。慣れるまでは迷う者が多い。進むごとに、人は少なくなった。
目的の棟の書庫にたどり着き、中に踏み込む。
斜めの書見台がずらりと並び、そこに本が面出しで並べられていて、ちらほらと来館者が座って本を読んでいた。いずれの本も、分厚い表紙に空けられた穴から書見台に鎖で繋がれている。持ち出し禁止の本のみが置かれている書庫だ。
ザナトは一冊の本を選び、その前の席に座って表紙をめくった。
町の書店では、装丁されていない紙の束のような本が多く売られている。一般庶民でも手が届く値段にするためで、装丁は別料金になっているのだ。
しかし、国立図書館に入っている本は貴重なものが多く、多くの人が閲覧し長い時間保管するため、ほとんどがしっかりと装丁されていた。皮が張られ、箔が圧され、丈夫で見た目にもとても美しい。
そんな本は人間のためのものであり、一方で編成師が手がける呪文譜の編成は精霊のためのものである。外見だけでなく呪文そのものを装飾し、組み直し、精霊に訴えかける力を付与するのが『編成』だ。
しかしそれでも、やはり精霊と完全に意志を通じ合わせることはできない。
(何が足りないんだろうな。今の呪文には)
ザナトは頬杖をつく。
(古代、精霊と人とは共通の言語・
呪文研究者たちはこぞって、始祖語完全復活のために必要な「失われた
(まあ、人が人のために書いた本でさえ、作者の考えの全てが読者に伝わるかと言えば、否だ。それを精霊相手に、簡単にできるわけもないんだけどな)
そんなことを思いながらも、ザナトは次第に目の前の資料に没頭していった。
いくつかの本を渡り歩いて読んでいるうちに、時間は飛ぶように過ぎた。
「もうこんな時間か」
書庫の壁に取り付けられた時計を見て、ザナトはため息をつく。
「時間がいくらあっても足りねぇな……」
つぶやきながら書庫を出て、渡り廊下を渡った。隣の書庫に入ろうとして、ザナトはふと足を止める。
ここから枝分かれした別の方向に進めば、図書館員しか入ることのできない書庫がある。そこが、今回リユラに依頼した仕事の『現場』、倒壊の危機に瀕している書庫なのだ。簡単に書庫と言ってはいるものの、歴史的にも美術的にも価値の高い建物で、柱や壁に美しい装飾の施された三階建てである。
「この渡り廊下から見えるかな」
ザナトはちょっと身を乗り出し、そして眉を上げた。
問題の古い書庫は確かに見えたのだが、その向こうに、人影が見える。
外から書庫の中には入れないが、その人影は書庫の周りをうろうろと歩いていた。
時々立ち止まってはしゃがみ込み、また歩いては今度は背伸び。しばらく立ち尽くしていたと思えば、周辺に生えている木の枝に触れたり、いきなり四つん這いになったりする。
「……あいつ」
ザナトは呆れ声を出すと、いったんホールに戻るべく、足早に歩いていった。
「おい、あんた」
建物の外をぐるっと回り込み、奥の庭まで行ったザナトは、「上」に向かって呼びかけた。
銀色の葉をぎっしりとつけた、ねじれた幹を持つイナの木。その上にいた人影は、数秒後に彼を見下ろす。
「ん?」
「ん? じゃねぇ。ここで何やってんだ」
「あれっ」
太い枝にまたがっていたのは、編成師リユラだった。深緑のチュニックにベージュのラップ・パンツという私服姿。髪に葉や小枝をくっつけたまま、にっこりと笑う。
「ええと、構築師の!」
(俺の名前、覚えてねぇな)
ザナトは呆れながら答えた。
「ザナトだ」
「でした、ザナト! 偶然ですね!」
「呪文を生業にしてる人間同士が図書館でバッタリ会っても、別に珍しかねぇだろ。で、何やってんだ」
「もちろん、お仕事ですよ?」
リユラは、木の根本に置かれた籠を指さした。
「ほらっ、ノーア草! そこで摘んだんです! これ絶対、今回の呪文譜をいい色に染めてくれますよっ」
「そんなの、出入りの素材屋で買えばいいじゃねぇか……」
ザナトは頭をかきながら視線を落とし、そして気づいた。
図書館の庭、茂みの奥に、布のテントが張ってある。
「何だ、ありゃ」
「あ、私のですー」
木の幹に抱きつくようにしてずりずりと降りてきたリユラは、にっこりと言う。
「一晩、ここに泊まろうと思って」
「宿屋に行けよ!」
「図書館側には、許可を取ってるので、大丈夫ですよ、っと」
幹の途中から手を放し、リユラは飛び降りた。
「わあ」
転びそうになる彼女の手首を、ザナトは反射的につかんだ。思っていたよりも華奢で、彼はあわてて力を加減する。
「何やってんだっ」
「すみません、ちょっと目測を誤りました、ありがとうございますー」
リユラは深々と頭を下げた。
緩く結われた髪が首にそって滑り落ち、チュニックの襟刳りから、ちらりと背中が見える。その肌にも、何かの模様の一端がのぞいていた。
「あ、そうだ」
彼女はパッと顔を上げる。
「ザナトは甘いものは好きですか?」
「は?」
「お茶とお菓子を持ってきたんです、一緒にいかがです?」
藪を回り込むようにして、軽い足取りでテントの方へ歩き出すリユラ。ザナトはため息をひとつついた。
「結構です。俺は帰る。バスに遅れるからな」
そして、彼は人差し指をリユラに向けた。
「俺の仕事、ちゃんと進めてくれよ!」
「ご期待ください! ではまた後日、さよなら!」
背を向けたザナトの背中を、リユラの声が送り出した。
「何なんだあれは、木登りにピクニックかよっ」
ザナトはぶつくさ言いながら、図書館前バス停に足を急がせた。
「変人のやることはわからねぇ。本当にちゃんとやってくれんだろうな」
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