虚飾の報酬

第4話 近所のすてきなお師匠さん

近所のすてきなお師匠っしょさん


それは双葉が、九条税理士事務所に出勤し出してから3日目の仕事の帰りだった。

「まあまあ皆藤さん」

と年の頃50半ばの和服姿のご婦人が肩に掛けたショールの前を片手できっちり重ね、もう片方の白魚のような手でおいでおいで、と双葉を手招きした。そしてビジネススーツの上に黒コートを羽織ってマフラーで首をぐるぐる巻いた、いかにも仕事帰りのOLという双葉の服装をパンプスの足先まで見て、


「ほんまに就職内定しはったんやねえ…」

としみじみと小さな吐息をついた。その人は近所の人たちから富子先生、と呼ばれていた確か何とか、という流派のお花のお師匠さんだった。


「まあもうほんまあんた頑張ったわ。うちも輝耀きように通ってる孫娘がもうすぐ受験でねえ、もう行きたい大学じゃなく入れる大学で妥協しなきゃやっていけない世の中よ。企業だってそうよ。憧れの企業じゃなく採用してくれた企業で取りあえず稼がなきゃあかんえ」


と双葉が相槌打つ暇を与えずに孫が京都の超名門お嬢様学校輝耀女学院に通っているという自慢を話の中にちょいちょい入れる、双葉にとってあまり長話したくない相手であった。


あーはいはい、お孫さんキラッキラ女子ですか。


と内心思ったが、双葉は短大時代から丸3年、月に1,2度立ち話するだけの仲の富子先生との付き合い方を心得ているので

「お孫さんがいるようには見えなかった!お若いですね」とひとつ褒めると富子先生は満足げな笑みを浮かべて、


「その内就職のお祝いせなあかんねえ、ほな頑張り」と言って背後の小料理屋みたいな和風木造の一件家の中に引っ込んでいくのが双葉と会った時の常であった。


何でだろう?大人に御世辞をひとつ言うたびに、心が曇っていく気がするのは。

あの奥さんとお話するたびに沸き上がるこのもやもやした気持ちは一体…。


「そりゃ君、心の底ではそのお師匠さんを嫌っているからだよ」


とお昼休み、事務所の机でコンビニ弁当のれんこんを箸でつまみあげる九条に、ずばりと自分では気づかなかった本音を指摘されて双葉はあ、そうなのか、と今までの富子先生の挙措を思い出して、すとん、と腑に落ちたのだ。


この事務所で働き出してから最初の一週間が過ぎようとしているが、仕事内容は電話の応対や来客時にはお茶淹れ。顧客である主に個人事業主、(中小企業の経営者や商店主)から送られて来るレシートや領収書類を費目別にファイリングして整理し、会計ソフト「室町会計」に入力する。というのが税理士事務所の新人の仕事であることが大体解って来た。


そして、九条の机の後ろの年代物の水屋箪笥の上に、面接時には無かった一抱えもある胡蝶蘭の鉢が3個置かれているので、「まるで開店記念ですね」と出社初日に双葉が言うと。


「そうだよ、今年から独立したばかりなんだ」と九条は自分で淹れた温かいほうじ茶を一口飲んでから実に軽ーい口調で答えた。


なんでもここ紐興町ひもろぎちょうで長年税理士事務所を開いていた広国先生が高齢のために引退し、そこで働いていた自分ともう一人の税理士が担当していた顧客を受け継ぐ形で独立開業するに至ったのだ、という経緯を九条は極めて簡素に双葉に説明した。


そして自分の雇用主、九条敦の実年齢が33才だと初めて知った。


「今年の誕生日で34だけどね。あ、プレゼントは強制しないから」


と言いながら自分は6月30日生まれである事だけは双葉に伝えた。


誕生日教えるって事は要求してんじゃねえかこの野郎め。


「若いですね…どう見たって30ジャストです」


と双葉はお世辞でない本音を言ったつもりだが…


「皆からよく言われるし、褒めても何も出ないからね」と九条は初めての部下に余計な気を遣うな、と言う意味でやんわり忠告したのだった。


「鉢が3つありますね」「うん、1つは僕を育ててくれた広国先生ともう1つは、同期独立した町田。そしてもう一つは…」


言いながら九条はちらっ、と眼鏡の奥の眼を下に向けると

「下の階の自転車屋の親父さん…」とだけ呟いて照れくさそうにこめかみを掻いた。


あの一日中ストーブの前で遠い目をしているおじいちゃんが!?と双葉が口をあんぐりさせると


「ああ見えて意外と律儀なんだ…さあ今から仕事教えるからね」とコートを脱いだ双葉を事務員の席に座らせるとあらかじめマニュアルとして作っておいた新人研修用冊子を双葉に渡し、


「初日はそれを読みながら僕が頼んだ仕事をすること。あと、分からない事はいちいち聞きなさい」と指示すると時刻は受付の九時半を回った。


「はい、九条税理士事務所です。どーもどーも藍澤帆布さん…あ、それでしたらこの金額になりますね」


と電話口で人が変わったように愛想が良くなり、話しながら右手で電卓を叩く手付きが超絶技巧ピアニストの如く素早く且つ滑らかなのを目の当たりにして双葉は


こ、これが税理士というお金のプロフェッショナル…!と思わず唾を呑み込んだのだった。


こうして初出社から最初の週が終わり、明日の土日は休みか…とりあえず食べて寝てから何しよう、と考えながら自宅アパートに向かって歩いていると、


「皆藤さん皆藤さん」と例の富子先生が双葉を呼び止めた。


「あ、富子先生…」


「あの自転車屋のお二階の事務所に就職しはったんやろ?それなら土日休みでしょうからあなたの就職のお祝いしようと思ってあさって予定入れてはる?」


「ど、どうして知ってるんですか?」と双葉がこころもちのけ反っていると


「川口さんところの奥さん。嬉しそうに話してたで。これでお家賃が口座からおちるって」

あー、アパートの大家さんから洩れたのか。でも今まで現金で家賃払ってたことめんどくさがってたんだ…。


「そんでな、うちでやってる食事会に皆藤さん呼ぼうと思って。どうせ予定ないやろ?」


えっ?富子先生の家のお食事会って料亭の仕出し弁当つついて華道のお話聞くセレブな会合と噂のあのお食事会に?

お、畏れ多いです!と断ろうとすると、

「プレゼント用意してるから絶対来てよ、いい?」


といつになく強く念を押す富子先生に気圧されて、双葉ははい…と返事してしまった。プレゼントと言われては断りようがないではないか!


ただ飯は嬉しいけど、気が進まないなんだよねえ…。


とりあえず余計な事は頭に入れない!


と自室に帰ってパジャマに半纏姿でこたつに脚突っ込んだ双葉はコンビニおでんと解凍ご飯で腹を満たしてから先週録画していたいたお笑い芸人ネタ番組を見てひとしきり笑う。


これが皆藤双葉21才9か月の数少ないストレス解消法であった。



次回、「マスコットさわらくん」に続く。























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