第659話困ったヴァイオリニスト 貴子(2)

それでも内田先生は、言い方を変えた。

「ああ、それは悪かったわね、貴子さんと史君で、モーツァルトの室内楽をやって欲しい」


貴子は、まだ気に入らない表情をしているけれど、史は無視した。

すぐにピアノに向かい、楽譜を広げる。

曲は、モーツァルトの「ヴァイオリン・ソナタイ長調」。

ピアノの前奏から始まるので、当然史から始めなければならない。


史は、前奏を始める前に、一応貴子の表情を確認、そして声をかける。

「貴子さん、始めていいでしょうか」


貴子は、またしても気に入らない顔。

「仕方ないでしょう、弾いてあげる」

「いい?内田先生がどうしてもって言うから、わざわざ弾いてあげるの」

「勘違いしないでね、わざわざは、私のほうなの」

「全く気に入らない、何でここらへんの高校生なんかと」


史は、ムッとしたけれど、再確認。

「それでは、始めます、いいですか?」


貴子は、また気に入らない。

「さっさと!下手は下手なりに!」

「たかが近所の高校生でしょ?」


史は、貴子の言葉は無視した。

そして、楽譜に沿って慎重にピアノの前奏を弾きはじめた。


内田先生は、貴子の「言葉のキツさ」に少々ハラハラしたけれど、自分からは口を挟まなかった。

史の「伴奏力」に期待をするのみである。


曲の最初は、史も貴子も楽譜通り、正確この上なく、モーツァルトを奏でる。

内田先生は、まずこの時点ではホッとした。

しかし、不安もある。

「すべりだしは、完璧だからまだいい」

「だけど、貴子は伴奏者がちょっとしたミスをしても、すごく怒る」

「自分がミスをしても、伴奏者のせいにして怒る」

「そして、レッスンをやめて、帰ってしまう」

「そうならなければいいけれど・・・」


レッスン室の前の廊下には、内田先生と同じ不安を持つのか、たくさんの音大生が集まっている。

そして、ヒソヒソ声で、様々話をしている。


「史君も完璧、楽譜に完全準拠」

「それは貴子の音楽を史君が見抜いたんだよ」

「それに合わせるんだね、さすが史君」

「貴子はいつも上から目線、杓子定規」

「何でそうなるの?」

「貴子は、完全お嬢様・・・といっても出身の地方都市限定だよね」

「うん、県庁所在地の名門小学校、名門中学、名門高校の出身を鼻にかけている」

「親は県庁のお偉いさん、だから地元に帰れば、超お嬢さんと・・・」

「思っているのは本人だけでは?」

「いやいや、地方都市ではそうじゃないの、とにかく地元に帰ればチヤホヤされてばかり」

「だったら、地方都市の名門大学に進めばよかったのに」

「いや、地方都市は、『東京帰り』が偉いの」

「東京の音大卒で、お嬢様度がアップするのさ」

「そして地元に帰って、地元のお金持ちの御曹司と結婚して、地元の上流階級として、一生暮らすの」

「くっだらないねえ・・・メンツばかり・・・」


「おそらく史君の過去も名前も知らないはず」

「うん、貴子は自分にしか興味がないし、授業が終われば、まっすぐ帰宅のお嬢さん、親が心配して仕方がないらしい」

「都内のコンサートも聴きに行かないらしいよ」


そんなヒソヒソ会話はともかく、「貴子と史のデュオ」は超順調に進んでいる。




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