第630話大旦那の明日香村の話(2)

大旦那は目を閉じた。

「とにかく、甘樫丘は何時間いても、不思議に飽きが来ない」

「古代からの霊気というのかな、そういうものに包まれている」

「神武天皇の御世から、ここから見える場所で、大和朝廷の発展も、大陸文化の移入も、蘇我馬子も、聖徳太子も、中大兄皇子つまり天智天皇も、その後の天武天皇も持統天皇も歩いていた」

「山部赤人も柿本人麻呂も、恋を求めて歩いていた」

「あるいは希望を胸に地方から都へ向かう人、妻子の顔が懐かしく故郷に帰る人」

「そんな日本創世期の人々を、じっと見つめてきた丘だ」

「今では、本当にのどかな田舎の風景だけど」


その大旦那の言葉に美幸が反応する。

「いいですねえ、そういう場所、行きたいなあ」

「そこの丘に立って、風を感じてみたい」


大旦那は美幸の反応がうれしくて仕方がない。

「こういう若い人が興味を持ってくれることは、素晴らしいなあ」

「奈良に行っても、東大寺大仏殿だけではなくてね」

「明日香村のような鄙びた場所が、実はかけがえのないほど面白いのさ」


マスターは、そこで苦笑い。

とにかく話が長そうなので、話題の転換を試みる。

「大旦那は、甘樫丘の他には?」


すると、大旦那はまたしても、うれしそうな顔。

「うん、それがな」

「まさか、というお寺に言って来たのさ」

と、含みのあるような答え。


清が、その場所を推理する。

「うーん・・・橿原神宮、甘樫丘付近で、まさかの寺・・・」

「飛鳥寺は有名、飛鳥大仏は貴重なものではあるけれど」

「岡寺もありますね、あそこも名勝」


しかし、大旦那は首を横に振る。

そして目を閉じ、また歌を詠み始めた。


「橘の 寺の長屋に わが率宿いねし 童女放髪うなゐはなりは 髪あげつらむか」


マスターは、その歌でにっこり。

「そうですか・・・それは面白そうな・・・古代を感じますね」

場所も、わかってしまったようだ。

「場所は、ある意味、日本仏教の根源なのかもしれませんね」


大旦那は、マスターに少し笑いかけ、歌の説明をする。

「あまり、仏教とは関係が無い歌かな」

「橘寺の長屋で、私が一緒に寝たあのおかっぱ頭の幼女は、もう成人して髪をあげたことだろうか」

「いろいろに意味は取れるけれど、おかっぱ頭の幼女は、男女の何とかには取りたくないね」


大旦那の周囲に集まった客たちは、ますます、その話に引きつけられていく。


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