第589話マスターとルクレツィア(3)

さて、マスターが口にした「ロレンツォ・イル・マニフィコ」とは、ロレンツォ・ディ・メディチのこと。


15世紀後半、イタリアのルネサンス期のメディチ家当主である。

ロレンツォはメディチ家の全盛期をもたらしたコシモ・ディ・メディチの孫、「痛風病み」として、長らく寝たきり状態だったピエロ・ディ・メディチの子。

 1469年、父のピエロが死に、20歳の若さで推されて、引き続いてフィレンツェの「国家の長」の地位につく。


当時のフィレンツェは民主政なので原則的には世襲はできないけれど、この時期までにメディチ派は市政の要職を独占していたので、その後見で権力を握ることができた。

また、ロレンツォ自身が、若い頃から「政治と外交」に興味があり、寝たきりの父親の代理として、近隣諸国の政府や王室に出張。

そこで、屈託のない人間性が評価されていたこともあり、ロレンツォがフィレンツェの長になることは、フィレンツェにとってもまた諸外国においても、平和と安定をもたらす基盤であった。


しかし、フィレンツェという国は、もともと党派抗争が激しい。

ロレンツォは、大聖堂での祭儀中に、反メディチ派のパッツィ家による襲撃を受け、大聖堂の中の一室に隠れ、危機一髪で難を逃れた。

この時、華のジュリアーノと呼ばれた美形の弟のジュリアーノは殺されてしまった。

これが、1478年のパッツィ事件である。

尚、パッツィ事件は、フィレンツェ市民には寝耳に水の事件だったようだ。

そして、ロレンツォを要するメディチ家、そしてフィレンツェ一の人気の美形、華のジュリアーニが暴虐の中に若い命を落したことへの反発も強かった。

即時に、鎮圧されてしまった。


またパッツィ事件を裏から操っていたのは、フィレンツェの強大化を恐れ反メディチ派と結んでいたローマ教皇とナポリ王国。

ロレンツォは、これらも、すぐれた外交手段で屈服させ、かえって権力を強めることに成功した。



マスターは、ルクレツィアの顔を見て

「特に一番好きなのは、ローマ教皇とナポリ国王を手玉にとってしまったこと」

「それも、思いもよらない手段で」

と、続きを促す。


そんな話を振られたルクレツィアは、またうれしそうな顔。

「そうよね、あれがなかったら・・・」

「誰も考えなかった手段よね」

「それこそ、男の中の男・・・」


いつの間にか、カウンターの前には、マスターとルクレツィアの話を聴きたいのか、客が集まってきている。




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