日常の体温、特別の鼓動

 彼女が普段あまり外に出たがらないとか、人見知りが解けるのに時間がかかるとか、打ち解けてもけっこうクールだとか、わざと冷たい言葉を吐く癖があるとか、たまにぼくを「嫌い」と突き放すとか、ほかにもいろいろあるけど、ハッキリ言って、大した問題じゃない。


「ありがと」


 つぶやいて、おずおずと微笑んでくれる。ただそれだけで、ぼくはもう全部、満たされてしまうから。


 好きだよ。どうしようもないくらい、ぼくはきみが好きだ。



***



 刻んだチョコレートを溶かして生クリームと合わせて、ガナッシュを作る。ミルクチョコとホワイトチョコの2色。


 グラニュー糖を混ぜた卵白を、角が立つまで泡立てる。マカロン生地だ。ヘラでさっくり混ぜ込む粉は、ガナッシュと同じく2色。片方はココアパウダーで色づけして、もう片方には食紅を落とす。


 2色のマカロンはできるだけ小さな一口サイズに焼いた。生地が冷めたら、ガナッシュを挟む。


「ただいま。チョコ作ってるの? あの子に?」


 帰宅した妹が呆れ顔をした。明日はバレンタイン。世間的には、女性が男性にチョコをプレゼントする日だ。なのに、男のぼくがせっせとお菓子作りをしている。


 ぼくは肩をすくめて、出来立てのマカロンを妹に勧めた。


「こういう機会じゃないと、受け取ってもらえないからね」

「ふぅん。頑張ってね。いただきます」


 妹がマカロンを口に運んだ。うん、ちょうどいい。女の子の小さな口にも丸ごと含んでしまえるサイズだ。これなら彼女にも食べやすい。


「味は?」

「おいしい。上出来」


 シンプルなコメントに、よかった、と笑う。彼女に食べてもらうときはいつも、ぼくは少し臆病だ。本当にうまくできているかどうか、急に自信がなくなったりする。


 ぼくは案外、がさつなんだな。そう気付いてしまった日があった。


 クッキーを焼いて、彼女に持って行った。ラッピングがいい加減で、彼女に食べてもらうときには、割れたり欠けたりしたものばかりだった。


 かえって食べやすいからいい、とぼくに告げた彼女のクールな口調に、ぼくは恥ずかしくなった。詰めの甘い自分が情けない。


 今回は、同じ失敗をしたくない。実用性第一で見た目は関係ないと言う彼女も本当は、きれいなものやかわいいものが好きな17歳の女の子だ。


 冷ましたマカロンを、壊れないように箱に詰める。彼女に渡すのは昼ごろになるかな。今日もいつもみたいに、早めに稽古に来てくれたらいいんだけど。


 彼女と顔を合わせるよりも先に、彼女の声を知っていた。いや、知っていたどころじゃなくて、憧れていたし、恋い焦がれてすらいたかもしれない。アラサーのくせに、年甲斐もないけれど。


 ぼくは仕事の傍ら、劇団に所属している。公演依頼もたびたびあって、特に声の舞台が多い。ラジオドラマとか、朗読劇とか、アニメの端役とか。


 彼女もそうだ。別の劇団のメンバーで、ぼくよりももっと声の世界で有名だ。彼女は、凛として芯の通った、ピュアで可憐な声をしている。キッパリと強気なキャラの声を当てることが多い。


 初めて彼女の声を聞いたとき、演じているとは感じなかった。彼女の口から放たれた言葉は、作り物だと思えない。ああすごい才能だな、と悔しくなった。ぼくなんかじゃ太刀打ちできない。


 嫉妬のような尊敬のような気持ちが、やがて本物の憧れに育っていった。萌えとか、そんな次元じゃなくなった。この魂のかよった声の持ち主に会ってみたい。そう願うようになった。


 そして、出会ってしまった。


 同じ舞台に立てるとわかって、小躍りした。ダブル主演の恋人役だと知って、眠れないほど緊張した。最初の顔合わせの日は、胸が高鳴って仕方なかった。


 彼女の姿を初めて見た瞬間は、少し驚いた。それだけだ。見る人が見れば、彼女の姿を「特別」だと感じるかもしれない。当然と言おうか、彼女は警戒して遠慮して拒絶してばかりだった。


 でも、ぼくにとっては、ハッキリ言って、大した問題じゃなかった。


 彼女の「日常」とぼくの「日常」が思いがけず、つながっていた。ちょっとずるい考えかもしれないけれど、ぼくはその偶然が嬉しかった。



***



 入院病棟のワークスペースは、普段はリハビリに使われる。今月だけは、週に2回の午後、ぼくたちが借りている。ぼくたちというのは、慰問公演の演劇チームだ。ぼくたちは来月、この大学附属病院を皮切りに、近隣のいくつかの病院で朗読劇の公演を予定している。


 ぼくはヘルパーだ。体が不自由な利用者さんが快適に過ごせるように、身の回りのことを手伝う。代行サービス業、だと思ってる。自分で運転する代わりにタクシーを使うようなものだ。


 今のぼくの仕事場はこの病院だから、ワークスペースに到着するのは、いつも誰よりも早い。というか、今日は思いっ切り早すぎた。1件、仕事がキャンセルになったせいだ。利用者さんが熱を出して寝込んで、入浴介助の仕事が消えた。


 誰もいないのをいいことにソファに寝転んで、朗読劇の台本に目を通す。演目は恋愛物。実生活が長らく恋愛と無縁だったせいで、ぼくは主役のくせに、セリフ1つにもおっかなびっくりだ。


 ぼくの声質は細めの高めで柔らかくて、おかげで「声が若い」と言われる。普段は少年役ばっかりで、等身大のはずの30代の役は初めてだ。


 しかも、言ったことのないようなセリフばかりで参る。愛だなんて、どう言えば嘘くさくならずに済むんだ?


 胸にありったけの感情を集める。高鳴る鼓動のリズムに耳を澄ます。彼女を想う気持ちと向き合う。ぼくの役柄がヒロインにぶつける気持ちと、今の現実の自分の感情とを重ねてみる。


 でも、まだ足りないんじゃないかと思う。自分の本気がどこにあるのか、見えない。愛という言葉、恋という響きが、ぼくの声になじまない。


 と、まじめに演技について考えてたはずなんだけど、いつの間にか、うとうとしていたらしい。


「寝てるんですか?」


 凛と澄んだ声が思いがけず近くから聞こえて、ぼくは慌てて起き上がった。メガネの角度を直しつつ、笑顔をつくる。


「ごめん、寝てた。今、来たところ?」


 彼女が小さくうなずいた。肩より少し長い髪が、ふわっと揺れる。


「疲れてるなら、しばらく寝てていいですよ。まだ誰も来ませんし」

「いや、もう眠気が覚めたよ。きみに渡したいものがあってさ」


 彼女はげんそうに眉をひそめた。


「バレンタインだから、とでも言うんですか?」

「人気声優さんの前でそれを言っちゃまずいかな?」

「別に。わたしは顔出ししてませんし」


 ぼくは彼女の前に片膝を突いた。そうしないと、背が高すぎるぼくには、彼女の移乗の介助は難しい。ぼくの意図を察した彼女が声を高くする。


「ちょ、ちょっと待ってください! 何でわざわざ移乗するんですか?」

「練習のときはソファだし、普段から近い距離で慣らすほうがいいって、みんな言うし」

「それはわかってますけどっ」


 彼女の手が電動車椅子のコントローラに触れようとする。逃げないでほしい。ぼくは彼女の手首を、そっとつかまえた。


「じゃあ、ぼくからのリクエスト。お菓子を焼いてきたから、隣同士で食べたいんだけど、ダメですか?」

「……好きにしてください」


 彼女の体は最近、軽くなった。数値的な体重の話じゃない。軽く抱えられるようになった、という体感の話だ。彼女はようやく、移乗介助をするぼくに体を預けてくれるようになった。おかげで軽く感じる。


 彼女の両脚は麻痺して、こうしゅくもある。腕や上半身も完全には自由じゃないけれど、奇跡的に、発声に関わる部分にはまったく麻痺がない。


 全身の筋肉が常に緊張している彼女は、人より疲れやすい。でも、彼女は意地っ張りだ。


「ぼくに寄りかかっていいよ」

「イヤです」


 じゃあ勝手に抱き寄せる。なんてことは、ぼくにはできない。


「疲れすぎないうちに、ちゃんと言うようにね」


 礼儀正しい距離。このへんの抑制が利くのは、年の功かな。これだけ年齢差があると、何かにつけてブレーキが掛かる。


 握力の弱い彼女の代わりに、マカロンの箱を開けた。よかった、割れてない。一口で消えるサイズのココア色とピンク色が、3つずつ。


「わぁ……!」


 彼女が吐息みたいな歓声をあげた。目がキラキラしている。


「マカロンは卵白を使ってて軽いし、ガナッシュも薄くしてある。たまには、こういうのも口にしていいんじゃないかな?」


 彼女は、胃腸が強いとは言えない。カロリーも気になるらしい。だから、本当は好きなお菓子を、なかなか食べない。


「……せっかくだから、いただきます」

「じゃあ、はい」


 ピンク色をつまんで口元に差し出したら、そっぽを向かれてしまった。


「自分で食べますっ」

「ああ、ごめん」


 つまむ、という動作が難しい彼女の手に、マカロンを載せる。彼女はゆっくりと、手のひらを顔に近付ける。薄く小さな手のひらの上で、マカロンがかすかに震えている。


 彼女がうつむくと、髪が頬や口元に流れて邪魔をした。ぼくは彼女の顔に掛かる髪を両手ですくった。癖のあるぼくの髪とは全然違う感触。指先が、彼女の頬や耳に触れてしまう。


「ちょ、っと、あのっ……!」

「ん?」

「な、ナチュラルにそんなことしないでくださいっ」


 斜め後ろから見下ろす彼女の耳が真っ赤だ。


「だって、髪が邪魔そうで」

「こんなの……かえって恥ずかしいです。あ、あなたに食事介助されるのも、すごく恥ずかしいけど……っ」


 そう、彼女は照れてくれる。


 たとえばマカロンを、彼女の手の代わりに、ぼくの手が彼女の口元に運ぶこと。彼女にとってもぼくにとっても、それは日常のはずなのに。


 ぼくは介助のプロなんだよ、と笑顔で告げても、彼女は割り切ることができないらしい。それがぼくには嬉しくてたまらない。


 うぬぼれていいかな? 彼女に恋する1人の男として。


 ぼくは、名残惜しく感じながら、彼女の髪を放した。彼女の手のひらからマカロンをつまみ上げる。


「はい、口を開けて」


 小柄な彼女と目を合わせたくて、ぼくは背中をかがめる。彼女は視線をさまよわせながら、そっと口を開けた。


 みずみずしげなピンク色の彼女の唇が、乾いたピンク色のマカロンに触れた。柔らかそうな舌が、マカロンを口の中に運ぶ。


「甘い」


 まつげを伏せて、彼女がささやいた。ありがと、と、かすれそうな声が続く。


「どういたしまして」

「……わたしも、持ってきてます……」

「え?」

「車椅子の、背中のハンドル」


 言われてみれば、そこに小さな包みがぶら下がっている。


「開けてもいい?」

「ダメです」

「どうして?」

「……マカロン、食べたいから。すごくおいしい」


 ああ、どうしよう? きみが好きだ。今すぐ抱きしめたいくらい好きだ。ぼくの胸に耳を寄せて、高鳴る鼓動を聞いてほしい。


 箱の中のマカロンをつまんで、きみの口元に運んで、自分の口元にも運ぶ。座り心地が少し悪そうなきみを抱えて、クッションの上にそっと下ろす。きみは真っ赤になるけど、ぼくはそ知らぬふりをする。


 一緒に演技を創り上げるのも、介助の技術を使いながらエスコートするのも、ぼくだからできる。ぼくにとって、これは日常。きみにとっても日常でしょう? この距離は、ほんとにありふれたことに過ぎないんだ。


 いつか応えてもらえないかな? 急がなくていい。ぼくは、ずっと待ってるから。


 きみがぼくよりうんと年下だとか、電動車椅子が2本の脚の代わりだとか、疲れやすい体をかばわなきゃいけないとか、自分の境遇に引け目を感じている瞬間があるとか、頑張り屋のぶんうまく素直になれないとか、ほかにもいろいろあるけど、ハッキリ言って、大した問題じゃない。


 ぼくはきみと、ちょうどいい距離にいられる自信がある。


 だから、教えて。きみはぼくをどう思っていますか? ぼくはきみの、日常な特別になりたい。



【了】



BGM:BUMP OF CHICKEN「とっておきの唄」

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