一年目

第0話或いは序章-2 少年の終わり、冒険の始まり

 鋭い眼光が、アベルを見下ろしている。


「ふぅ……ふぅ……」


 片膝を付いているアベルもまた、肩で荒い息をつきながらその視線を片時も相手から離さない。


 のどかなせせらぎだけが、時間の流れを伝えてくる。 彼らはかつてアベルがリティアナと収穫祭の夜に二人きりで約束を交わしたレジエン瑚のほとりの一角、小石を丹念にどかした砂地で立ち会っていた。


「約束を忘れていまいな。今日までにわしから一本、取れなければアグストヤラナ行きは許さん」


 対面する祖父のディアンは静かな、しかし一切の反論を許さない迫力で告げる。アベルの体中に見られる無数の鮮やかな青あざがディアンの稽古の厳しさを物語っており、今日もすでに十以上の新しいあざがこさえられていた。


「分ってる」


 手短に答えアベルは立ち上がる。


 ブレイアが滅んだ日からすでに五年の月日が流れていたが、以来毎日昼を回る頃にはこうして稽古を付けてもらっていた。


 今のアベルは数え年で十と四。 顔つきこそまだ年相応の幼さを残しているが、身体は大分引き締まっている。自ら狩った獣革で作られた貫頭衣の胸元は広げられ、そこを汗が滴り落ちていく。


 その手には大人が持つならちょうど良い長さだろう、刃渡り2.5ディストン(1ディストン=約1フィート)程の両刃の長剣がしっかと握られている。

 麻布を巻きつけただけの簡素な握りは使い込まれてるのが見て取れ、大切に扱われてきていることが伺える。これはディアンがかつて使っていたものだそうだ。


 あの後、アベルは家をこっそり抜け出していたことに遅れて気付いたディアンが迎えに来たことで無事保護された。


 唯一残った手がかりから、リティアナを連れ去った男がアグストヤラナとやらに縁があることを知ったアベルは、怪我が治り次第行かせてもらうよう頼んだ…が、ディアンは頑として承知しなかった。

 当初はその名を聞いた途端問答無用で殴り飛ばされた。

 だがやがてアベルの覚悟が本物だと知ると、ディアンは代わりの条件として五年の猶予を与え、その間剣の稽古をはじめ様々な教育を施すようになったのである。


 今ではある程度の読み書きと四則演算、狩りのやり方やその獲物の加工処理をはじめとした野外での生活術は身についているが、剣だけはまだ許しがもらえていない。


「なら、さっさと打ち込んでこい。時間を無駄にするな」


 打ち込めるものなら打ち込みたい。けれどそれができないのだ。


 ディアンはアベルが使っている剣と同じくらいの長さの樫の枝を片手に緩く持ち、痩せた身体をやや半身に構え枝を突き出している。

 一見無造作な構えだが、どこから打ち込んでも跳ね返される、そんな威圧感があった。稽古をつけてもらえばつけてもらうほど、アベルは祖父の剣技の力量の高さを思い知らされる。


 狩人は主に弓矢や罠を使うため、獲物に止めを刺す短刀ならともかく剣を使うことはまず無い。読み書きの知識もそうだが、一介の狩人に過ぎないはずの祖父が何故剣を使いこなせるのか…アベルも疑問に感じたことはある。


 ただ、恐らくアグストヤラナに入学することを頑なに拒んだことと何かしら関係があるのだろうと薄々感じているものの、一度だけ父母のことを尋ねたとき同様激しく不機嫌になったことから以来アベルは聞くのを避けていた。

 下手なことを言って、機会自体を失うことは避けなくてはならない。


「余計なことを考えるな。戦場で敵は待ってくれんぞ!」


 叱咤の声に引き戻されたアベルは再び意識を祖父へ集中させる。

 どうする、どこから打ち込むか? それとも、打ち込んでくるのを待ってから跳ね返すか?


「遅い!」


 その迷いを見抜いたディアンがじゃり、と石を蹴立てすばやい踏み込みで切り込んできた。

 ひゅん、ひゅんと風を切る音と共に上から、下からほとんど同時に襲い来る。


「しまった!」


 下からの攻撃をかわし、次いで上段からの振り下ろしはかろうじて柄で受け止める。

 が、わずかに体勢を崩したたらを踏んでしまう。その隙を突いて、跳ね上がった動きから転じた杖が左肩へ強かに振り下ろされた。


「うぎっ」


 ばしいんっと音がして、アベルはうめき声を上げた。それでも痛みをこらえ、畳み込まれるのを防ぐため大きく横なぎに剣を振る。


 痛みのせいで振り遅れた切っ先はディアンにとってまるで止まっているようなものだ。剣先が服を掠めすぎた直後に深く踏み込み、アベルの腕を掴んだかと思うと足払いを仕掛ける。決して大きくないアベルの体躯はいともあっさり宙を一回転して、どさりと砂地にたたきつけられた。


「ま、まだまだあっ」


 ごろごろと転がり間合いを稼ぎながら立ち上がると、ずっと剣を手放さなかった剣を再び構える。痛みで左腕がしびれているが、かろうじて落とさずに済んだ。


「ふん。さっさと大人しく剣を手離せば、無駄に痛い思いをせずに済むものを…」


 約束として、打ち合いはどちらかが武器を落とすか気絶した時点でその日は終わりとなる。今日剣を落とした時点で、今後アベルはアグストヤラナに行く許可を永久に失うのだ。


「アベル、お前は何のためにアグストヤラナへ行く? リティアナが今でも生きている、そう信じているからか?」


 構えたままにも関わらず、珍しくディアンが無駄口を利いた。アベルは慎重に考え言葉を選んだ。


「…そんなの、僕だって判らないよ。生きているかどうかも…」


 否、そう答えながらもあのときの様子から見て生きている可能性は低いだろうことはアベルも理解している。地面に流れていた血の量は決して少なくは無かった。


「なら尚のことだ。何故わざわざ行く? アグストヤラナは物見遊山で行くようなところではない。幼少より剣に生き、剣に死ぬ、戦さ働きをする兵士たちを生み出すための学府だ。お前のように一時の手慰みで剣を齧った者が行くようなところでは無い。恐らく、無駄に時を過ごすだけですごすご帰ってくるのがおちだ。ならば狩人は狩人らしく、剣など捨てて狩人として生きていく方が幸せだろうが」


 ディアンの冷厳な言葉に、アベルは剣を握る手に力を込めた。


「そうかも知れない…でも! 僕は、行く! 必ずアグストヤラナへ行くんだ!!」


 その気迫に、ディアンはかすかに眉をしかめた。


 彼はアベルが拘る本当の理由に気付いている。


 アベルはブレイアが滅んだ日から、未だ心の整理がついていないのだ。

 五年の間、どうにか諦めてくれればと内心願い厳しく接してきたが、それはアベルの意思を削ぐどころか一層固い信念として固着させてしまったようだ。


「…まったく、誰に似てそんなに頑固者になったのやら…」


 ほんの一時、ディアンは自嘲気味に口の端を吊り上げた。

 ディアンとしては内心、その愚直なまでにまっすぐな気性が誇らしくもある。

 だが、各国の貴族が多大な信を寄せる高名なアグストヤラナでの生活は、山出しの田舎者には風当たりが強いだろうことを考えると、今尚アベルを送り出すことの躊躇いを断ち切り難かった。


「次に隙を見つけたら頭を狙う」


 再び素面に戻ったディアンの言葉に、アベルはさっと緊張した。

 ディアンがそう言ったからには本気だ。確実に気絶させようとしてくる。


(そうだ、迷ってる場合じゃない!)


 どうせ小手先の技を出しても今までのように簡単にあしらわれる。

 ならば、これが最後の機会なのだから全力を出し切るしかない。幸い、先ほどディアンと話していた間に痺れは大分ましになった。


 気持ちを切り替えたアベルの全身から、無駄な緊張が抜ける。

 ぐっと膝を曲げ、腰を決め、力を矯めた。

 剣を右肩に担ぐようにし、左半身をディアンに向けて腕に掛かる負担を少しでも減らそうとする。まるでまさかりで薪を割るみたいな格好だが、剣を取ると決めたとき真っ先に祖父から叩き込まれた、幼子でも大の大人相手に一撃必殺を狙える構えだ。

 その堂に入った構えにディアンが満足そうによしと呟いたが、意識を集中して小さく息を吐いたアベルには届かない。


 野山を駆け回り、自分に余る大きさの剣を振り続けてきたアベルの力は同年代の子と比べると抜きんでていた。万全の状態なら、勝てるとまでは行かないまでもディアンの打ち込みを跳ね返すくらいはできよう。


 音が無くなった世界で、ちゃぽん、と川面を魚が跳ねた。


「だぁあああっ」


 地面を蹴り、間合いを積めるアベル。

 未練をすっぱり断ち切るためにも、振り下ろしてくるのに併せて真っ向勝負渾身の力をもって叩き伏せようとディアンは枝を振り上げる…が。


「なんとっ」


 剣の当たる間合いに入っても、いや本来なら剣を振るべき間合いに入っても尚まだアベルは剣を振らない。構えたまま、更に懐に飛び込んできたのだ。

 これではただの体当たり、真剣同士の立会いなら敵の剣先に我が身をさらけ出す自殺行為以外の何者でもない。


 だが、ディアンが驚いたのもそこまでだった。

 そう器用でもなく愚直に剣を振るしか出来ないアベルには、そう沢山の選択肢は無い。


 剣術を習うには遅かったアベルに、ディアンは基礎の基礎だけ教え後は自在に振る体力だけを鍛えた。本格的に行うならば幼少から剣の型を覚えることは必須だが、途中から身につけるアベルには臨機応変の判断力こそを付け焼刃としたのだ。


 アベルは恐らくディアンが驚いて跳び退るのを見越し、間合いを詰めてきたのだろう。ならば逆に惑わされず、留まって迎え撃てばそれで済む。

 奇策は見抜かれてしまえば奇策ではない。


「これで終わりだ!」


 ディアンが渾身の力を込めて枝を振り下ろす。アベルが足を止め、剣を振ろうとする出鼻を叩き伏せるために。

 がつっ、と鈍い音が鳴り響いた。


「うぐっ?!」


 うめき声をあげたのはディアンだった。


 ディアンは思い違いをしていた。アベルはディアンが退くことなど想定していなかったのだ。


 ディアンが真正面から打ち込むことは判っていた。それを知った上で、正面から受け止める。それがアベルの狙いだった。


 これは剣と剣の試合ではない。相手の枝を受ければ、それは自分の間合いでもある。

 ならば、痛みを堪えれば自分にも勝機はある。あとは覚悟と覚悟のぶつかり合いだ。


 予想より更に突っ込んできたアベルの頭を手首の下で強かに打ちつけた格好となったディアンはほんの数瞬の間、手の痺れに動きを止める。その隙を付いたアベルが片手で眩む頭を抑えたまま、ディアンの喉元に剣尖を突きつけた。


 どんな障害が待ち受けていようと、決して退かない。

 そのアベルの覚悟に、とうとうディアンも認めざるを得なかった。





 翌朝。


 よく晴れた昨日とうって変わって靄が残る中、湖水を眼下に臨む南向きの斜面に立つ小さな二階建ての木造小屋の扉が開いた。


 出てきたのは皮製の脚絆と色あせた毛織の旅装――肩まで覆う頭巾付きの、厚手の外套に身を包んだアベルだった。

 祖父のお古の外套、手ずから裏地に縫い付けた鉄角鹿の毛皮が山の冷え込みを遮断してくれている。

 腰の腰紐には幾ばくかの保存食を入れた皮袋と、差し落とされた愛用の長剣。

 荷物はたったそれだけだ。


 アベルは一度は外に足を踏み出しかけたものの、扉の無い室内を見渡し祖父の寝ている寝室に視線を移す。だが、ディアンは寝床に横になったまま、ぴくりともしない。起きてくるそぶりが無いことを悟り、アベルは小さくため息を吐いた。


「それじゃ行って来ますお爺さん。お元気で」


「待て」


 ディアンが起き上がることなく呼び止めた。


「…考え直す気にはならんか」


 幾度と無く繰り返されたやりとり。


 アベルは、背を向けたままの沈黙をもって返答とした。代わりにディアンから言葉がつづけられる。


「軍学府は、各国に仕える兵士を育成する機関だ」

「判ってる」

「いいや、お前は何も判ってない」


 珍しく、疲れたようなディアンの口調にアベルは思わず振り向いた。

 ディアンはいつの間にか寝床に身を起こし、じっとアベルのことを見つめている。


「兵士になるということは、化獣と戦うこともあれば、人間同士で殺しあわなければならないこともある。きれいごとではすまない世界だ。親しくなった相手や、大切に思う人とも剣を向けることもあるかも知れん。そのようなところと判っても、尚行くつもりか。…わしは、お前をそんなところへ預けたくは無い」


 五年間共に暮らしていて、はじめてディアンの考えをしっかり聞かされたアベルは少なからず驚く。とはいえ、ディアンの最後の制止もアベルの意思を翻すには至らなかった。


「それでも…やっぱり行くよ。僕は、けじめをつけたいんだ」


 ゆっくりとした長い吐息が、暗い室内から聞こえてきた。

  ディアンもまた、止め切れないだろうことは覚悟していた。


「まったく、誰に似たんだ…我が儘で、身勝手で、頑固で。そんなんでは、きっと苦労するだろう」

「…うん。心配掛けて…ごめん」

「まったくだ。もう勝手にするが良い」


 再び布団にもぐりこみながら、ディアンが吐き捨てるように言った。


「ああ、そうだ。忘れ物だ、暖炉の上に袋がある。持っていけ」

「え?」


 それきりディアンの返事は無い。

 荷物はもう確認してある。今更忘れ物などある訳も無いのにとアベルは首を捻ったが、口に出さず大人しく言うがまま暖炉に向かった。


 開かれたままの戸口から入り込んだ仄暗い薄明に照らされる中、なるほど確かに暖炉の上には丈夫な皮ひもで口を縛った小さな真新しい巾着が置かれていた。見覚えの無いそれを手にとって見ると、じゃらりという音と共に確かな重さを感じる。


「これって…!」


 慌てて中をひっくり返すと、真新しいルゼイニー新金貨が五枚、手のひらの上に転がり落ちた。


「餞別だ。持って行け」


 決して裕福とはいえない生活の中、ディアンが努めて工面してくれていた。

 恐らく、アベルがアグストヤラナへ行きたいと申し出た五年前から。


「アグストヤラナは西の港村、ウィベルから雪解月ゆきどけのつきの末の日に新入生を迎えるための船を出す。今から出れば十分間に合うはずだが…もし間に合わなかったり、辿り着けなかったら戻ってこい」


 それだけ言って寝床に転がったディアンは、もう起き上がる素振りも見せない。


「…うん」


 そう答えたものの何が何でも必ず辿り着くつもりでいた。何せアベルはこの日を待ち続けたのだから。

 だから、ディアンもそれ以上は言わない。代わりに別の言葉を贈った。


「…その剣は、わしがはじめて戦場に出たときから無傷で還してくれた幸運の剣だ。きっとお前にも幸運を齎してくれよう。もしくじけそうになったなら、その剣の柄にしみこんだお前の汗を思い出せ」


 アベルは祖父が自らの過去へ触れたことに少なからず驚いた。かつて実際に戦場を馳せたからこそ、アグストヤラナへ行くことを頑なに禁じたのだろうか。


「…ありがとう、お爺さん」


 もうこちらを見ていないのは判っていたが、それでもアベルは頭を深々と下げた。


 最後まではっきり口にこそ出さなかったが、一人で旅をするための力を付けてくれたこと、アグストヤラナに向かう我が儘を許してくれたこと、そして何よりアベルが進む道を選ぶことに正面から向き合いここまで付き合ってきてくれたこと…祖父には感謝しても感謝しきれない。


「もういい加減とっとと行け。扉を開けっぱなしにしているからいい加減、寒い」


 手だけを出し、ひらひらと追っ払うように振る。だが、わずかだが確かにディアンの声が揺れていることにアベルは気付いていた。


「じゃあ…もう、行くよ。お爺さんも、身体に気をつけて」


 山の稜線から日の光が差し込んできた。

 夜が、明けた。


 頭陀袋を担ぎ、家の戸を閉めると山を下るために歩き出す。少し行った先で思い出を焼き付けようとするように一度足を止め振り返った。


「ありがとう、お爺さん。…行ってきます!」


 東から差し込む曙光がアベルの全身を温かく照らし出し、手足の先まで力が満ち溢れていく。

 今まで住み慣れた小屋に向かってもう一度深く頭を下げると、アベルは確かな足取りで踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る