extra3 もうひとつの夏〈3〉
姫ヶ瀬FCの右サイドバックである末広泰、一学年下の彼とは吉野も長い付き合いだ。小学生の頃から同じクラブでサッカーを続けてきたため、彼のプレースタイルや性格を誰よりよくわかっている。端的に言えば気性が荒く、攻撃好き。
その末広が攻め上がりを自重せざるを得ず、ひたすら石蕗の圧力に耐えている。
「──こんな速いやつ、見たことねえよ」
プレーが切れたとき不意に漏らした末広の弱気なセリフは、これまでずっと一緒にやってきた吉野としても耳にしたことがない類のものだ。それほどまでに姫ヶ瀬FCの右サイドは余裕のない攻防が続く。
戦前の予想通り、決勝トーナメント1回戦は2得点をあげた白のユニフォーム、大阪リベルタスが優勢に進めて前半の終盤にさしかかっていた。左サイドのスピードスター石蕗をシンプルに活かしてくる戦術はわかっていてもなかなか止められるものではない。
かといって石蕗対策でサイドに人を集めれば、今度は中の巽がギアを上げて攻勢を強めてくる。同じポジションで同じ背番号10でも、姫ヶ瀬FCの兵藤とではまるでプレースタイルが異なる。
巽の強みは狭いスペースでボールを扱う技術が抜きんでていることだ。たとえゴール前を固められても、巽は躊躇なく割って入ってきてボールを呼びこむ。二列目から仕掛けてくる分、ディフェンスとしては捕まえづらい。パサーとしても優れているが、受け手としてさらに輝く。中盤の選手というよりはフォワードとしての振る舞いそのものだった。
警戒していたにもかかわらず大阪リベルタスのキーマン二人に1得点ずつを許したのに対し、姫ヶ瀬FCが誇る攻撃陣はまだ突破の糸口がつかめていない。
ツートップの久我と牧瀬がともになかなかシュートにまで持っていけないのは、何といっても大阪リベルタスの徹底した兵藤対策による。グループリーグでの戦いぶりから姫ヶ瀬FCの攻撃のほとんどが兵藤を経由すると分析されたのだろう。とにかく兵藤は前を向かせてもらえず、ボールを持てば徹底的に潰された。
「チームとしての完成度が違う……」
それが吉野の偽りない感想だった。
どうにか前半終了までに1点でも返しておきたいところだが、主審はちらちらと手元の時計を確認している。どうやらほとんど時間は残っていなさそうだ。おまけに兵藤へ繋ごうとした中途半端なパスをカットされてボールはまた石蕗へと回ってくる。
ここは絶対に決めさせるわけにいかない。
「スエ、縦を切れ! 中はおれが塞ぐ!」
「ケイちゃんに言われんでもいかせるかよ!」
指示を飛ばした吉野に末広も怒鳴り返してきた。この局面の重要性は互いに承知している。3点差ともなるとそれこそ奇跡的な天秤の揺れでもなければ追いつけない。挟み撃ちのような形になりかけたところで、石蕗のリズムがわずかに変わる。
来る、と吉野は身構えた。中か、外か。
石蕗の足がボールを素早くまたぐ。シザース。高速でのこのドリブルフェイントで、末広は何度もいいようにあしらわれている。
三度またいで石蕗はタッチラインぎりぎりにボールを蹴りだした。だが今度は末広も重心を崩されることなく持ちこたえていた。
「だからいかせねえつってんだろボケが!」
闘争心を剥きだしにして末広が石蕗に食い下がっていく。
サイドを抉ってくればマーカーを振り切って正確なクロス、それがここまでの石蕗の攻撃パターンだ。
末広がまだ彼を自由にさせていないうちに吉野もポジションを修正する。視界には常に細かく動いてよりよい位置でボールを引きだそうとする巽の姿を捉えている。
前半最後になるかもしれないプレーだ。高いクロスなら他のディフェンダーやキーパー友近に任せると割り切り、吉野はただ巽に集中していた。わかっていてもやられるレベルの石蕗―巽のホットラインは決して通してしまうわけにはいかない。
すっ、と巽の気配が一瞬消える。頭で「どこだ」と考えるより早く、俯瞰したピッチで石蕗と巽とを繋ぐ線が吉野には見えた。
直感に従い迷うことなく足を投げだしたまさしくその場所へ、末広をかわすためあえて利き足でない右で石蕗が放った低く鋭いクロスが飛びこんできた。
吉野によってボールは大きくゴールラインの外へと蹴りだされ、続くコーナーキックも凌いだところでホイッスルが鳴り響く。
どうにか2点差のままでハーフタイムを迎えられたことに安堵したのもあって、腰に手を当てた吉野はひとつ大きく息をついた。どうにか踏みとどまったのだ。
そんな彼にタオルが差しだされる。
「おつかれ、ケイ。いまのプレーはすごくよかった」
上気した顔のジュリオがそこにいた。
ありがとう、と伝えてそのタオルで流れ放題になっている汗を丹念に拭きとっていく。
最後のプレーで石蕗と巽に対応できたのは後半を戦ううえで非常に大きい。点差は2点あるが、次の1点をどちらが取るかで流れは決まってくる。
そして姫ヶ瀬FCにはまだジュリオが残っているのだ。
ベンチへと引きあげてきた選手たちを前にして、相良監督が「あちらさん、やはり強いな」と切りだした。しかしその表情にはまだ余裕があった。
「もし3点目を決められていたら『イスタンブールの奇跡』を引き合いに出そうと考えていた。年齢的におまえらは直接観てはいないだろうが、あのゲームもACミランによって前半につけられた3点差を、リヴァプールが後半のたった6分間でゴールを固め打ちして追いついたんだ」
レベル的にはワールドカップをも凌ぐ欧州チャンピオンズリーグ、そのファイナルにおいて演じられた伝説的な逆転劇のことは吉野も知っている。
「そこまでいくと前半と後半とではもはや別のゲームと言っていい。もちろんそうそう可能な話じゃないのは当然だ。だからこそ奇跡として語り継がれているわけだからな」
ここで相良はゆっくりと選手たち全員の顔を見回した。
「いいか、たった2点だ。その2点を追いつけばいいおまえらに奇跡なんて必要ない。相手への対策を立て、いつも通り冷静に、そして笛が吹かれる最後まで走り抜く。それだけでいい」
しかし選手の誰かが「そんなんであんな連中に勝てるのかよ」と呟いた。弱気は伝染する。思わず吉野は「誰だ!」と声を荒げそうになったが、それより早く相良が笑い飛ばして空気を変えてくれた。
「はっは、早漏どもめ。慌てるな。そのための策はある」
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