第42話 ホセと羽仁浦会長
最近、どうも涙もろい気がするな。
先ほどからしきりにホセはハンカチで目頭を拭っていた。彼の想像を超える速度で成長していく子供たちを見ているのがうれしくてたまらないのだ。
中にスペースが空いていてもサイドに張りついたまま入ってこようとしない松本要、とにかく独りよがりにゴールへと仕掛けていくばかりでチャンスをふいにすることも多かった五味裕之、そしてフィジカル・コンタクトを極力避けるプレーを選んでいた筧拓真。今の彼らにそんな面影はもうどこにもない。特に筧の雄叫びにはホセも驚かされた。
止血のための治療を終えた筧が、頭に包帯を巻きながらも怪我の影響を微塵も感じさせないダッシュでフィールドに戻ってくる。歩調を合わせるかのように、姫ヶ瀬FCは同じタイミングで交代選手を投入してきた。
ホセは彼、牧瀬龍を知っている。長めの金髪にヘアバンド、ルーズなユニフォームの着こなし。あれでよくFCがとったな、と思う。中学一年生にはとても見えないふてぶてしさを感じさせるが、牧瀬のワンマンチームだったクラブとは蹴球団も何度となく対戦している。間違いなく五味や佐木川らと同年代だ。
現在、姫ヶ瀬FCとしては手詰まりといっていい状況だった。鬼島サイドの上手い守り方もあって、頼みの綱の三人がなかなかゴールに近づけないでいた。
フォーメーションは4―2―1―3と変わり、スリートップは左からジュリオ、牧瀬、久我と並ぶ。
センターフォワード然とした雰囲気を持っている牧瀬だが、実際は人を使うのも人に使われるのにも長けている、そんな印象がホセには残っていた。牧瀬を真ん中に置くことで久我とジュリオ、両スコアラーの活きるスペースをつくりたいという相良の意図なのだろう。
するとその並びを確認した暁平が即座に四本の指を掲げて指示を出す。
FCのスリートップに対応するため鬼島中学もフォーバックに戻してきた。守備側としては攻撃側と同数より一枚多いほうがリスクが軽減されるからだ。こちらは左から政信、佐木川、安永、千舟で最終ラインを構成する。左のウイングバックだった要はさらにポジションを上げた。
鬼島も4―2―1―3、姫ヶ瀬FCとまったく同じフォーメーションで対抗してきた。
「やつら、小細工なしでやる気だな」
「血のたぎる展開になってきましたね」
いきなり相槌を打たれてホセも驚いた。
大柄なホセが傍らへとわずかに目線を落とすと、そこには一分の隙もなくスーツを着た男性が柔和な表情で立っている。
「布施さん、こうやって直接お目にかかるのははじめてですね。ご挨拶が遅れて申し訳ない。私、ハニウラ・セラミックスの会長職を務めております羽仁浦慧と申します。以後、お見知りおきいただければと存じます」
その男性、羽仁浦会長は深々と頭を下げた。
こういった挨拶のやりとりに慣れていないホセは「名刺がいるのか」と慌ててポケットをまさぐる。しかし出てきたのは〈サニーサイド〉のショップカードのみであった。
それでも「ないよりマシだ」と羽仁浦会長にカードを差しだす。
「や、どーもご丁寧に。わたしは今しがないクレープ屋をやっておりまして」
「ほう、クレープ。実は私、スイーツにもう目がなくて。家内からは『太りやすい体質なんだから』と止められているのですが、今度こっそりとお邪魔させていただくことにしましょう」
「そりゃあ腕が鳴りますね。楽しみにしております」
にこやかに受け答えしつつも、わざわざ話しかけてきた羽仁浦会長の意図をどうにもホセはつかみかねていた。
そんなホセの困惑を察してか、羽仁浦会長はすぐに本題を切りだしてきた。
「実は折り入ってご相談が。榛名くんのこれからについてです」
なるほどそういうことか、とホセも得心する。すでに水面下では榛名暁平争奪戦がはじまっているわけか。
「彼は自分というものを強く持っている子です。わたしなんかに言われたところで進路を左右するとは思えないのですが」
「やはり布施さんも久我くんと似たようなことを仰いますね」
羽仁浦会長がそう言って苦笑いする。が、すぐ真顔に戻った。
「むろん私たちは彼をユースチームに迎え入れたいと考えています。ですが久我くんの言葉を借りるならば、榛名くんが『高校でサッカーをしている姿が想像つかない』のだそうです。とにかく仲間を大事にする榛名くんはサッカーそのものを選んではいない、と」
「ケンイチロウがそんなことを……」
「ええ。ですから久我くんには『榛名くんにとにかく土をつけてやれ、それできっと彼も何かが変わる』と発破をかけたのですが、ここまで試合の流れをみるかぎり、どうも雲行きがあやしい。それで二人の恩師である布施さんにお話を、と思いまして。まずサッカーを続けていく意思が何より大切ですから」
言葉を慎重に選んでホセも口を開く。
「ケンイチロウみたいに直情径行を地でいくような子が、そこまでキョウヘイの問題を的確に洞察しているとは。正直、わたしよりもよほど見えている。ですがこればかりは周りが急かすわけにもいきません。見守っていくしかないでしょう。ただ――」
「ただ、何でしょうか」
「会長、FCには女子チームを発足させる計画はおありですか」
「あ、ええ、現在その件に関する具体的な検討会議が何度か開かれておりまして。まだ内密に願いますが、近いうちにトップチームの結成が発表される運びとなっています」
いったい何の話を、という疑念が羽仁浦会長の顔に透けてみえる。それでもおかまいなしにホセは続けた。
「女子の下部組織に関しては?」
「段階を踏んでではありますが、U―18は再来年を目処にしてスタートさせる案が今のところ有力ですね」
「ぜひ、ぜひその線でお願いします。それが実現すればもしかしたら、二人の天才がFCに揃うかもしれません」
「ちょっと布施さん、それはどういう――おや?」
視線をピッチとは逆の方向へとやった羽仁浦会長に「どうかされましたか」とホセが訊ねた。
「いえ、榛名くんそっくりのきれいなお嬢さんがこちらに向かって手を振っていたものですから」
そんな少女は榛名悠里以外にはありえない。
姿が見えないと思っていたら遅刻だったのか、と少しあきれたホセに羽仁浦会長が重ねて言った。
「もう一人、別のお嬢さんと一緒ですね。その子の腕をしきりに引っぱって、もう片方の手は布施さんに振ってとなかなかに忙しそうだ」
まさか、と思った。
古いゼンマイのようにゆっくりとホセは振り向いていく。
そこにいたのは誇らしげに手をぶんぶんと振り回している榛名悠里と、蹴球団の誰もがもう一度会いたいと願っていた少女、片倉凜奈だった。
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