第4話 はなればなれに
頭では理解していても、どうにも現実感がわかない。
そんなことを口にした小学六年生の暁平に、親しい人が死ぬってのはそういうものなんだよ、と涙を浮かべながら教えてくれた年寄りがいた。暁平の知らない人だった。
真夏の強烈な熱気で外の風景が揺らいで見える。そんななか鯨幕が張られた鬼島地区の公民館では、榛名家、矢野家、松本家、そして片倉家の共同葬儀が営まれていた。
暁平の両親、それに鬼島少年少女蹴球団に入ったばかりだった小学三年生の弟。
政信の両親と祖父。
要の両親と五つ違いの姉。
そして父子家庭だった凜奈の父。
十人もの人間がたった一度の事故で、あっけなくこの世を去ってしまったのだ。
彼らはみな、全国大会に出場する鬼島少年少女蹴球団を応援に行く途中だった。凜奈の父が運転するワゴン車に乗り合わせて。
初めての全国大会といえど、暁平には負けて帰る気はさらさらなかった。それはストライカーの久我にせよ、背番号10の凜奈にせよ同じだったろう。鬼島少年少女蹴球団は本気で全国優勝をするつもりでいたのだ。
事故の連絡を受けたのは一回戦の試合の途中、ハーフタイムでのことだった。幸先よく凜奈―久我のホットラインによるゴールで1点を先制し、意気揚々と引き揚げてきた暁平は応援席がやけにざわついているのに気づいた。泣いている親もいる。
ただごとではない雰囲気に少しだけいやな予感はした。もうとっくに着いているはずの自分の家族がいない。よく練習を見に来てくれていた政信の祖父も、いつでもにこにことしていた凜奈の父もいない。
やたら長い渋滞に巻きこまれただけさ、と暁平は自分に必死に言い聞かせていた。そんな彼を「ちょっと、こっちへ」と監督の布施剛久が手招きで呼んだ。暁平だけでなく、凜奈、政信、要も同様に。
日本人離れしたやけに濃い顔立ちと明るい性格から、布施監督は誰からもホセと呼ばれている。そのホセにいつもの陽気さがどこにもなかった。
「落ち着いて聞いてくれ」
ホセからそう切りだされた瞬間、「ああ、よくないことを聞かされるのだ」と暁平にはわかった。
「おまえたちの家族が乗った車が、高速道路で事故に遭ったそうだ。くわしいことはまだわからんが、その、誰も助かってはいないだろう、という話だ」
なぜだかそのとき、暁平は顔を歪めて本当に苦しそうに話すホセに対して申し訳ない気がした。素敵な一日になるはずだった日に辛い役回りをさせてしまった。
わかりました、と暁平は気丈に答えようとした。だけど意に反して言葉にならない。喉から出てくるのはうめき声のなりそこないみたいなものばかりだ。
不意に弟の誕生日の夜の光景が目の前に浮かんできた。まだ夏休みに入る前、弟の光太は初めてのスパイクをプレゼントしてもらったのだ。よほど嬉しかったのだろう、あんまりはしゃぎすぎたせいで最後は父から怒られてしまうほどだった。
遠征のためにチームで借りた車が定員オーバーになるため、光太は暁平たちと一緒に来られなかった。
そういやあいつ、えらく拗ねていたっけ。
最後に見た、むくれている光太の顔を思い出しながら暁平は自分が涙を流していることにようやく気づいた。拭っても拭っても、どうにも止まらない。
「なんで、パパ、なんで!」
隣にいる凜奈が叫ぶように泣いている。
政信も要も、顔をぐしゃぐしゃにして肩を震わせていた。
暁平よりもさらに大柄なホセが四人の少年少女を抱きかかえ、ひたすらずっと同じフレーズを口にし続けていた。
「みんなで一緒に生きよう、おまえたちならまた立ちあがれる」
ホセの言う通りだ、と暁平は思った。けれども情けないことに、肝心のその立ち方がすっかりわからないでいるのだ。
そこからの三日間、暁平は何の意思も持たないただの抜け殻だった。
葬式があった日の朝から火葬になるまでの記憶も暁平にはほとんど残っていない。思い出せるのは暑さのせいでやたらに流れ落ちる汗と、たまたまトイレで聞いてしまった心が軋むような会話くらいだった。
「まったく、この猛暑のなかをわざわざ鬼島くんだりまで来なきゃならんとは。迷惑にもほどがあるぞ」
「ちょっと、誰かに聞かれてたらまた問題になりますよ。ただでさえ市に対するこのあたりの住民感情はよくないんですから」
「わかっとる。だからわたしは鬼島を合併するのに反対だったんだよ」
姫ヶ瀬市において鬼島地区が特異な立場にあるのは小学生の暁平でも知っていた。年寄りたちが言うには別の藩だった江戸時代から折り合いが悪かったらしく、その後もたびたびいざこざが起こっていた。
財政事情の芳しくない鬼島町が姫ヶ瀬市に合併される際もひどく揉めていたし、合併したらしたで今度は姫ヶ瀬市の老朽化したゴミ処理施設の鬼島への移転話が持ち上がって、現在進行形で紛糾は続いているらしい。
だが、それを今この場に持ちこむのか。ここは早すぎる死を迎えた十人のために祈ってくれる場所ではないのか。
暁平にわかったことがひとつだけあった。もう両親は守ってくれない。これからは自分で善意と悪意が交錯するなかを生き抜いていかなければならないのだ。
ホセやチームメイトの親たち、弔問客のほとんどが帰った頃には真夏の太陽もすっかり沈んでいた。
政信と要、二人と一緒に暁平は静まり返った公民館の共用スペースの端っこに座っていた。すべてが変わってしまったあの日以来、ずっと取り乱している凜奈には悠里がついてくれている。
無理もなかった。父と娘、二人きりの家庭だったのにその父を失ってしまったのだ。そして何より、ハンドルを握っていたのが自分の父だという事実が凜奈を苦しめているであろうことは想像に難くない。
警察の話だとトンネルに入る直前、突然飛びだしてきた動物に驚いてハンドル操作を誤った可能性が濃厚なのだそうだ。凜奈の父を名指しで責める者もいるにはいた。たしかに、そのわずかな区間さえ乗り切れていればきっとそのままの日常が続いていたに違いない。だからといって凜奈の父を悪く言うつもりは暁平には毛ほどもなかった。
人間本来の寿命までにはいくつものハードルが設定されている。そのハードルのうちのひとつを父と母、それに光太は超えることができなかった。そう自分に言い聞かせ、理不尽な状況にどうにか納得しようと努力していた。
暁平もそうだが、政信も要も深く椅子に沈みこんだまま口を閉ざしている。話したくないのではない。何をしゃべればいいかがわからないのだ。
お互いに無言のまま、ゆっくりと時間が過ぎていく。その沈黙を破ったのは凜奈についているはずの悠里だった。いつの間にかすぐそばに立っている。
「あんたたち、ひどい顔ね」
いつもなら悠里との掛けあいを楽しむ暁平なのだが、さすがにこの状況ではそんな心の余裕はない。
肩をすくめるだけですませ、かわりに質問を返した。
「リンはどうしてる?」
「さすがに泣き疲れたみたい。今は小さな子供みたいに眠ってるよ」
悠里は目線だけで凜奈がいる部屋を指し示した。
それを聞いた政信が長く、大きく息をつく。要は涙をこぼすまいとまた目頭を押さえていた。二人とも、先ほどから何度も同じ行為を繰り返している。
誰も彼もが感情の時化と凪から自分を守ろうと必死だった。もちろんそれは暁平も変わらない。
一切の音をたてることなく、悠里は暁平の隣に腰を下ろした。何とはなしにふと見てしまった彼女の横顔が、これまで目にしたことのない厳しさをたたえたものであるのに暁平は気づく。
明らかに悠里は何らかの覚悟を内に秘めてここへとやってきていた。
暁平が促すまでもなく、悠里は決然とした口調で話しはじめる。
「リンが寝たあと、うちの親とちょっと話をしてきたの」
三人からの反応を待つようにしばらく間を置いた悠里だったが、何も返ってこないのをみて再び言葉を続けた。
「先に言っておくけど、あたしは今からあんたたちがしたくないであろう話をさせてもらう。避けては通れないことだから」
答えようとした暁平よりも早く政信が口を開いた。
「わかっています。これからどうするか、ですよね」
悠里は黙ったままで頷いた。
今度は暁平が先ほど言い遅れた異議を差し挟む。
「待てよ。ついさっき葬式が終わったばかりのおれらにそんなふざけた話をさせようってのか? 一昨日まで一緒に暮らしてた家族がみんな死んじまったんだぞ? 心の整理もクソもつくわけねえだろ。新しい生活なんて考えられるはずないだろうが!」
最後には立ちあがって怒鳴っていた暁平だったが、しかしそれでも悠里は表情を変えなかった。
顔を少し上げ、暁平の目を射抜くように見据えて彼女は言った。
「キョウ、あんたはうちで引き取る。文句なんて言わせないよ。怒鳴られようが何されようが、これだけは譲るわけにいかない」
「おまえ、なに勝手におれの人生を決めてんだ」
「だったらあんた、いったいこれからどう生きていくっていうの? 誰か別の親戚が引き取ってくれるの? 保護施設にでも入るの? それともたかが小学生がこれから一人で生きていくの? ねえどうするの」
矢継ぎ早に畳み掛ける悠里の問いに、暁平は答えることができず黙りこんでしまう。
「きついことを言ってごめん。でも、少なくともあんたは生まれ育ったこの町を出て行かなくてすむ。お願いだから今はそう考えることで納得してほしいの。キョウ、一緒に暮らそう」
そう言って悠里が頭を下げた。彼女のふわりとしたボブの髪も合わせて揺れる。
暁平にとって、悠里はいつでも誰に対してでも強気な態度を崩さない、貴族のように気位の高い年上の少女だった。その悠里が今、暁平のためを思って頭を下げてくれているのだ。
もう何も言えなくなった暁平は力なく椅子に腰を落とす。
そんな暁平を見た要がぽつりと呟いた。
「いいな、キョウちゃんは」
いかにも億劫そうに暁平は返事をする。
「何がだよ」
「だってまだこの町にいられるんだもん。ぼくはたぶん、よその町に行かなきゃならなくなると思う。ぜひうちに来なさいって、親戚のおじさんがそう言っていたんだ。お父さんもお母さんもお姉ちゃんもいなくなって、そのうえみんなとも離れてしまうんだって考えたら、ぼく、ぼく……」
「カナメ、それはおれも変わらん。おまえと同じだよ。怖いよな、淋しいよな」
涙声になって言葉に詰まった要の肩を抱きながら、政信が訥々とあとを続けた。
仲間である二人と不安を共有できないことが、暁平にはとても恥ずかしく情けないことのように思われて仕方がなかった。そんな暁平はまた沈黙を選ぶ。
「本題はむしろここからだから。矢野くんと松本くん、あなたたちにどうしても話しておきたいことがあるの」
ゆっくりと沈殿していく空気を拒むかのように、よく通る澄んだ声で悠里ははっきりと告げた。
「おれたちに、ですか」
答えた政信の隣では、要が目をこすりながら首をわずかに傾げている。
「そう、あなたたちに。結論から言うとね、あなたたちが望むならうちで引き取ることはできる。もちろんリンも。みんなこの町から出て行かなくてもいいんだよ」
俯き加減だった暁平は弾かれたように悠里を見た。
政信と要もよほど驚いたのだろう、声を発することなくそのままの姿勢で固まって悠里を見つめている。
三人からの視線にたじろいだのか、誰とも目を合わせず悠里はそこで言葉を区切って咳払いをした。
身を乗り出すようにして暁平がたずねる。
「おじさんとおばさんはそれでいいって言ってるのか?」
暁平の父と悠里の父とが兄弟であり、弟の方が御幸神社の一人娘である悠里の母と婿入りではないものの跡取りのような形で結婚した。なので暁平にとって悠里の両親は叔父・叔母ということになる。
その叔父と叔母が孤児となった自分たち四人を本当にまとめて引き取ってくれるというのであれば、人生もあながち捨てたものではない。心から暁平はそう思う。
「もちろん。父さんも母さんも最初は驚いていたけど快くオーケーしてくれたわ。何も遠慮はいらないって。調べてみたら里親制度ってのがあるらしくて、少しではあるけど自治体から援助があるからお金のこともそんなに心配しなくてもいいみたい」
「ユーリ……」
暁平がしょげて何もできないでいた間、悠里はどうすればみんなが少しでも前を向けるか、そう考えて動いてくれていたのだ。
「あたしには選択肢を増やしてあげるくらいのことしかできない。みんなここに残ることはできるし、誰か親戚を頼っていくならそれもいいと思う。最後はあなたたちが自分で決めなくてはならないことだから」
言うべきことを言い終えたらしく、悠里が口を真一文字に結ぶ。
再び静寂が戻ってきた。けれどもその静けさは先ほどまでとは違って柔らかい。
ややあって、また要が顔を両手で覆うようにして泣きはじめた。それが心を決める合図となったのか、政信の喉が唾を飲みこむ。
そして彼は語りだした。
「正直言っておれ、人に誇れるものがありません。父ちゃんや母ちゃんにはよく勉強しろって言われてたけど、頑張ってもなかなか成績は上がらなかった。キョウみたいにクラスの女子からもてるわけでもない。たぶん、このまま冴えない大人になっていくんだろうなあって漠然と思ってました。でもサッカーをやってるときだけは違うんです。よく爺ちゃんも『いちばんええ顔しとる』って嬉しそうに褒めてくれてました」
館内には要の嗚咽する音だけが響いている。
「サッカーしかないんです、おれには。みんな死んでしまってもう何も残ってなくて、何していいかも全然わからなくて、けど結局おれにできるのはサッカーだけで。キョウやリンみたいなすごいやつらと一緒にサッカーできるだけで幸せなんだってずっと思っていました。その夢みたいな時間がもう少し続けられるっていうのなら」
そこまで一息にしゃべった政信は深々と頭を下げた。
「ユーリさん、図々しいですがぜひともお願いします。この町にいさせてください」
「ぼ、ぼくも……ぼくも!」
泣きじゃくりながら要も慌てて政信に倣い、ぺこりとお辞儀をする。
そんな二人の姿を見た暁平の目には自然と涙が浮かんでいた。
「なんか、なんかおれ今、すっごくうれしいよ。こんな日だってのにさ」
「なら、よかった」
短くそう返事した悠里の口元がかすかにほころぶ。
本当に本当に、悠里にはどれほど感謝しても足りるものではない。それは四人全員がこの町に残れる段取りをつけてくれたからというだけではなく、何かとても大事なものを彼女が守ってくれたような気が暁平にはするからだ。
暁平の心境も政信と同様だった。暁平にだってサッカーしかない。父と母と弟、きっと天国にいるであろう三人に何が捧げられるかといえば、サッカーで勝つことしか思い浮かばなかった。悠里への感謝の気持ちもたぶん、サッカーでしか表せないだろう。
暁平にとってここはサッカーの国だった。全国大会は残念ながら途中棄権という形で終わってしまったが、鬼島少年少女蹴球団のメンバーとなら、強豪たちに一歩も譲らず優勝争いをしていたに違いなかった。
だが、夢の続きをまたみることができる。それだけで明日を迎えよう、前を向こうという気持ちが再び自分に芽生えているのを感じとれた。
勢いよく立ちあがった暁平は、哀しさと昂ぶりがない交ぜになった不思議な感覚のまま三人に声を掛けた。
「じゃあみんなでリンも叩き起こして教えてやろうぜ。これからもまた一緒にサッカーできるぞってさ」
「さんせー」
「そうだな。仲間外れはかわいそうだ」
要と政信はあっさり同意してくれたが、ずっと凜奈の面倒をみていた悠里はそうはいかなかった。
「ちょっとちょっと、せっかく寝ついたのに起こしたらダメでしょ。あの子、この三日間ろくに睡眠をとれてないしほとんど何も口にしてないんだから」
あきれた様子で暁平たちを制止する。
「だから元気づけてやるんだよっ!」
そう言い残した暁平を先頭にして、三人は凜奈が寝ているはずの部屋を目指して駆けていく。
目的の場所にしぶしぶ遅れてやってきた悠里を待って、暁平が扉のノブに手を掛けて回す。ぎい、と軋んだ音を立ててドアは開いた。
しかし部屋の中に凜奈の姿はなかった。
一同はトイレを捜し、館内を捜し、外も捜した。凜奈はどこにもいなかった。悠里の両親も「見かけていない」と言う。
「……何で、ぐっすり寝ていたはずなのに」
事態が飲みこめず、公民館の入口で悠里は呆然と立ち尽くしている。
さんざん外を走り回ってきた暁平にも政信にも何の収穫もない。
もう一度館内を回ってみようと三人が公民館の中に入ろうとしたとき、奥から要がわんわん泣きながら走り寄ってくるのが見えた。手に何かを持ってぶんぶんと振り回している。
「でがび、でがびがあっだよお」
はっきりとは聞きとれないが、どうも手紙と言っているらしい。
暁平と政信、それに悠里は急いで要の元へ駆け寄った。要が握っていたのは部屋に備えつけてあったメモ用紙だ。
貸して、と要の手から紙を引ったくるようにして取りあげた悠里がそのまま書かれている文面を読みあげる。
悠里の声はひどく震えていた。
『悠里さん、それからみんなへ
ごめんなさい、悠里さんとご両親の話を聞いてしまいました。
飛びだして、頭を下げてわたしからお願いしたいって本気で思いました。
でもわたしにはそんな資格はありません。
どんな顔をして暁ちゃん、政くん、要ちゃんと暮らせていけるのか。
きっとみんなもわたしといると辛いし、しんどいだけでしょう。
だから悠里さん、伝言だけお願いできますか。
これからもみんなで楽しいサッカーをやってほしい、と。
たとえ遠くにいてもわたしはみんなをいつも応援しています。
今まで本当に、本当にありがとうございました。
りんな』
読み終えた悠里が床に膝をつく。
どうしようもなく彼女は泣いていた。
「――あンの、クソバカ女があッ!」
喉も肺も潰れそうなほどに吠えた暁平の声が館内に空しく響き渡った。
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