第2話 彼女がいない春

 六時半だな。

 さほど広くない境内の外れ、部屋の窓のすぐ近くでボールを蹴りだす音が榛名悠里にとっての目覚まし時計がわりだった。

 いとこの暁平を含む鬼島中学サッカー部三人の日課であり、彼らは御幸神社の境内に連なる二百を超す階段を毎朝掃除し終えてから、わずかな時間も惜しんでトレーニングに励んでいる。初詣の参拝客で賑わう正月以外は一日も欠かすことなく。

 春休みが明けたばかりの週末にまったくご苦労なことだ、と悠里は寝床で大きな伸びをした。たしか今日は試合があるとか言っていたか。

 押し入れに布団を片づけ、手早く着がえをすませる。新しく中学三年生に進級した悠里はひとつ年下の暁平に対して姉のごとく振る舞っていた。ならば当然、サッカーに興味はなくとも試合くらいは観てあげなければならない、というのが常日頃からの彼女の言い分だった。


 畳敷きの部屋の片隅にはつい先日まで使っていた二年生の教科書が無造作に積まれている。教科書の塔の頂上には、ごく控えめに桜の花が描かれた封筒が置いてあった。

 悠里はその手紙を拾いあげ、ちゃんと中に便箋が入っているかどうか確認する。それから可愛らしさの欠片もない、灰色の無愛想なレターボックスへと収納した。

 レターボックス内はきちんと古い順に手紙が整理されていた。差出人はすべて同じ、片倉凜奈からのものだ。

 手紙のやり取りが始まって一年と半年ほどになる。当初の凜奈からの手紙は、いつも無地の封筒と便箋に簡単な挨拶が書かれているだけのものだった。それが今では自分好みのデザインを選んだ形跡がうかがえる。大きな進歩といっていいだろう。

 悠里がドアを開けて廊下に出ると、味噌汁のいい香りがふわりと漂ってきた。そろそろ朝食の時間だ。


「さて、サッカーバカどもを呼んでこようかね」


 長い後ろ髪をポニーテールに結わえながら、裸足の彼女はぺたぺたと足音を立てて玄関へと向かう。


          ◇


 凜奈の手紙を読むためにはあるルールが設けられていた。

 全員が揃った場で、回し読みをするのではなく代表して悠里が読みあげること。きっちりとみんなでそう決めたわけではなかったが、いつの間にかそんな流れが定型となっていたのだ。みんなとはすなわち、榛名家で寝食を共にする榛名悠里、榛名暁平、矢野政信、松本要の四人であり、悠里以外は凜奈も含めて小学校の頃から一緒にサッカーをやってきた顔触れだった。

 昨夜、夕食後のことだ。暁平と政信、要の三人は社務所にある八畳間でテレビを観ながら話しこんでいた。チームメイトが録画した海外サッカーの映像らしい。


「押しまくってたのに先制されちゃったかー」


「このクラブ、いつもカウンターでやられてるよな」


「リスク管理が下手くそなんだよ。ポゼッションは点取るためだけじゃなく、相手に攻撃させないことも兼ねてるのに」


 得点シーンを巻き戻してもう一度確認しようとしている彼らは、気配を消して部屋へと入ってきた悠里の存在になかなか気づかない。いまどき希少価値ですらある小さなブラウン管のテレビで繰り広げられているゲームに彼らの目は釘づけだった。

 悪戯心のわいた悠里は静かに暁平の背後へと忍び寄る。

 この社務所は建て替えを勧められているくらい古い建物だ。天井が低いなあ、と改めて悠里は思う。と同時に、そんな空間で育ちざかりの男子三人が寝起きしているのを想像するとむさ苦しいことこの上ない。


「どうしたユーリ。何か用かよ」


 よけいなことを考えていたせいか、人の気配に敏感な暁平は悠里がやってきたことにあっさりと気づいてしまった。

 答えるかわりに悠里はポケットからまだ開けられていない封筒を取りだし、ひらひらと振ってみせる。


「リンからか」


 振り向いた暁平の声のトーンがかすかに低く変わった。

 体を投げだすような姿勢だった要は居住まいを正し、リモコンを持っていた政信はテレビを消した。

 すぐに暁平が「ん」と小さな鋏を用意してくれた。その鋏を受け取った悠里は封筒の端を丁寧に切り落とす。中に入っていた三つ折りの便箋はとても淡い桃色をしていた。


「じゃ、読むよ」


 確認をする悠里に、三人は一様に頷いてみせる。


『悠里さん、それからみんなへ』


 いつもながら凜奈の字は変な癖もなく整っており、非常に読みやすい。


『ご無沙汰しています。

年賀状以来となりますが、すっかり世間は春の陽気になってきましたね。

きっともう神社の境内にある桜は満開でしょう。

こちらで咲き始めた桜の木を見かけるたび、やっぱり思い出してしまいます。

そんなふうにいつだって何かしらを思い出してしまうのです。

でも、わたしはまだ、みんなに何を返していけばいいのかわかりません。

それが見つかるまでは、こうした手紙のやり取りだけで許してください。

いつか必ず、償いはします。

朝晩はまだ冷える日もあるので、油断して風邪など引かないようくれぐれも体には気をつけてください。では。

                                片倉凜奈』


「だってさ」


 ふう、と読み終えた悠里は思わずため息をついてしまった。

 ここから遠く離れた土地に住む親戚に引き取られ、一人きりで葛藤を続けている凜奈が不憫でならない。

 サッカーと距離を置いてしまい仲間もいない今、彼女の手には何が残っているのだろうか。


「相変わらず何もわかってねえな、あいつ」


 険しい顔をした暁平がぼそりと呟いた。


「もうずっとボールなんか蹴っちゃいないんだろうよ」


「もったいないよねえ。リン姉、このままサッカー辞めちゃうのかな。あんなに綺麗なフォームだったのに」


 うつむきかげんの要の声は少しかすれていた。要はひとつ年上の凜奈を「リン姉」と呼んでよく懐いており、しょっちゅう境内の裏で彼女が一対一の稽古をつけてあげていたのを悠里もよく覚えている。

 感情を露わにする二人とは対照的に、諭すような調子で政信が口を開いた。


「リンにはリンの気持ちがある。あいつも苦しんでいるんだ。答えを出すまでそっとしておくしかないだろう」


「おれたちはあいつに償いだとかそんなもんを求めちゃいねえよ。違うか?」


「もちろんそうだ。だけどそれはこっちの問題であり、リンはそれじゃ心の折り合いがつけられないんだよ。待つってのはしんどいことだが、時間がかかることだって世の中にはあるんだ」


 爺ちゃんの受け売りだけどな、と政信は穏やかな表情で目を細める。

 お爺ちゃん子だったという彼は暁平と同い年にもかかわらず、身長以外は暁平よりはるかに大人びていた。むしろ老成しているというべきか。


「ちっ。じゃあいつまで待てばいいんだよ」


「キョウちゃん、サッカーやってるとき以外はほんと短気だよね」


 苛立ちまじりに舌打ちしている暁平を、要が不思議そうに眺めている。彼の突っこみは悠里の心中の代弁でもあった。


「昔っからあんたはそう。すぐに結論を出したがるんだから」


 ここぞとばかりに悠里はお姉さんぶってみせようとする。


「だいたいさあ、あんたには心のゆとりってものがないのよ。目の前に壁があったらとにかく壊すことしか考えない。柔らかい壁だろうが固い壁だろうがみんなお構いなし、別によじ登ったって迂回したっていいだろうに。なんでそう物事を一直線に進めたがるわけ? そういえばあれはいつだったか――」


「わかった、わーかったって。待つよ。待てばいいんだろ」


 長い説教になりそうなのを察知したか、暁平が慌てて悠里の言葉をさえぎった。昔から実の姉弟同然に育ってきたせいもあり、そのへんの呼吸はお互いよくわかっている。

 暁平は両手を上げて降参のポーズをとっていた。そのままの姿勢で、最低限の要望だけを彼は述べた。


「ユーリ、とりあえず返信書くのは三日後以降にして」


「なんで」


「ちょっとした試合があるんだよ、この週末。ちゃんと手紙で『勝った』って報告してもらわねえと」


「ふーん。で、どこと」


 たいして興味があるわけでもないふうに悠里は訊ねた。


「ハニウラカップっていう、いくつかの有力チームを招待してのミニリーグ戦。ようやくおれたちの実力を姫ヶ瀬FCが認めたんだ」


「ああ、あのハニウラ・セラミックスの。あんたたち、ほんと負けないもんね」


 悠里の台詞に誇張はない。中学のサッカー部、クラブユースのチーム、どちらと練習試合を行っても暁平たちが敗れるところを悠里はこれまで見たことがなかった。


「そういや姫ヶ瀬FCって去年あんたをスカウトしに来たクラブでしょ」


 思い出したように悠里が言う。

 姫ヶ瀬FCのトップチームは設立以来ずっとプロリーグの1部と2部をエレベーターのごとく行き来しているようなクラブだったが、二年前に世界的なタイル企業であるハニウラ・セラミックスがオーナーとなってからは、潤沢な資金が投下されて育成に多大な力が入れられていた。

 暁平が小学六年だった冬と、中学生になってからの初夏。姫ヶ瀬FCジュニアユースのスカウトは二度も暁平を熱心に誘っているのだ。その都度、暁平はつれなく断っているのだが。


「そんなこともあったな。ちなみにクガっちがいるチームでもあるぜ」


 そう言って暁平は不敵な笑みを見せた。

 久我健一朗の名前が出されて政信も反応する。


「あいつを抑えなきゃ、うちの勝ちはないだろうな」


「なーに、おれとマサなら大丈夫だって。クガっちの野郎を完封してやれるさ。やつにはチーム選びを間違えたって後悔させてやらないと」


「ちょっとちょっと、なんでキョウちゃんとマサくんの二人だけなの。ぼくだってディフェンスラインの一人なんだから仲間に入れてよ……」


 戦力としてまだ認めてもらえていないとでも思ったのか、今にも泣きそうな調子で要が哀願している。

 さすがの暁平も要の反応は予想外のようだった。


「あー、カナメはむしろ攻撃に力を注いでほしいんだよな」


 おまえがサイドを突破してくれればビッグチャンスが作れるんだから、などと暁平が必死に要を褒めそやしている様は見ていて微笑ましい。

 何だかんだで暁平って面倒見がいいのよね、と決して本人には教えるつもりのない感想を悠里は改めて抱いた。

 それからひとしきり話したところで部屋に戻るべく立ちあがった悠里に、時間はまだ寝るには早かったが、三人は口を揃えて「おやすみ」と挨拶の声をかけてきた。

 続けて自信に満ちた顔で暁平が言い放つ。


「見てな。明日、あいつらを県内最強の座から引きずり下ろしてやる。おれたちは誰にも負けやしない」

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