趣味の悪いくちぐせ。

西ノ宮あいこ

#1 漫画みたい

 君の口癖が嫌いだ。

「こんな良い思いしたら、私明日死んじゃいます」

 これが彼女の中で、嬉しいの最大表現。


 初めて言われたときにとても違和感を感じた。

 嬉しかったら死なんて連想できないはずだ。なのに、彼女は言う。

 こんな言葉、“楽しみすぎて禿げそう”とか“クソうまい”とかわけのわからない言葉と同じじゃないか。

 楽しみすぎても禿げないだろ?すごくうまいものにクソなんて失礼だろ?

 それと同じくらい理解できない言葉だった。

 でも、彼女が相当嬉しいときにしか言わないことを僕は知っている。だから、これを聞くと複雑だけど嬉しかった。


 彼女が言うと決まって僕はこう返す。

「そんな簡単に死なれたら、困るわ」

 これが僕たちの中での、いつものやりとり。

 いつだって、このやりとりを繰り返ししてきた。

 笑って返すけど、本当は全然笑えない。だって、君とはずっと一緒にいたいんだ。死なんて想像したくない。

 だから、君の口癖は嫌いだ。でも、この言葉は君のすべてだったんだね。



 彼女と出逢ったのは5年前。

 僕はいつものように電車に乗り、朝から取引先を飛び回っていた。

 あれは午前の取引先まわりを終えて、近くで昼食を済ませ会社に戻るところだった。

 会社の最寄り駅に着き改札を出ると、目の前を歩く若い女性が突然膝から崩れ落ちうつ伏せになって倒れた。

 肩に掛けていたトートバッグからは、スマホやポーチなどが倒れたのと同時にガシャンと音を立てて床へと飛び出した。

 一瞬、周りの人たちも驚いて振り返るが、みんな何事もなかったように素知らぬ顔で歩いていく。

 まるで川の中の大きな石を避けて流れる水のようだった。

 そこは時が止まったように通行人の足音が冷たく耳に響いていた。


 なんで助けへんねん。人が倒れてんのに……


 気づけば僕は女性に駆け寄っていた。


「大丈夫?怪我ないか?」


 背中を揺するが返事がない。


「おい!おい!わかるか?」


 少し強めに揺すってみると彼女はゆっくりと目を開いた。


「うう……痛あ。あの、私転びました?」


「転んだいうか、倒れたで。君」


 彼女はぼんやりした声で弱々しく答えた。


「ごめんなさい。急に眩暈しちゃって」


「大丈夫か?起きれるか?」


「大丈夫です。起き上がれますので」


 そう言って彼女は床に右手をついて上半身を起こそうとするが、ふにゃっと崩れ再び床に倒れた。


「ええから。無理せんでええよ」


 僕は彼女の肩を支えて上半身を起こし、床に飛び出したスマホなどをバッグの中に戻した。

 彼女は申し訳なそうに力なく笑った。


「すいません……ときどきこんなふうになっちゃうんです。お忙しいのに、すいません」


「これから戻るところやったし、急ぎやないからええよ」


「ほんとすいません……」


 長いまつ毛にはマスカラ、頬にはふんわりとチークが色づき、唇にはぷるんと潤ったグロスが艶めき綺麗にメイクが施されているが、それでもはっきりとわかるくらい彼女は血色悪く青ざめていた。


「このままやとあかんから、病院でも行こか?」


「いえ、ただの貧血なので平気です。ほんとありがとうございました」


 そう言って彼女は僕の腕から離れようとするが立てない。


「ほら、あかんやん。ここやと邪魔なるからちょっと端に寄ろうか」


 彼女のバッグを持ち体を支えながら通路の端へ寄り、腰を下ろした。


「水持ってるから少し飲んで落ち着こうか」


 彼女は僕の問いに小さく頷いた。

 鞄の中からペットボトルを取り出し蓋を開け、飲み口を彼女の唇へつけた。

 ゆっくりと傾けると彼女は自然と口を開き体内に流し込んだ。少し飲んで口を離し息を整える彼女は、生まれたての赤ちゃんのように口元はおぼつかず目は虚ろでどこか危うげだった。

 きっと倒れたばかりで落ち着かないんだろう。

 僕は上半身を支えながら彼女の背中をさする。


「無理して飲まんでええよ。落ち着く程度でええから」


「はい……少しだけ、目の前が明るくなってきました」


「そっか。目の前がはっきり見えるようになるまで、このままでええからな」


 ゆっくりと背中をさすっていると、駅員が僕たちに近寄ってきた。


「大丈夫ですか?救急車呼びましょうか?」


「この子、貧血で倒れてしまって。病院は行かなくていいみたいなんですけど」


 彼女は先ほど僕に向けたように駅員にも申し訳なそうに答えた。


「あの……ただの貧血なので、大丈夫です」


 駅員は心配そうに彼女を覗き込んだ。


「こちらに医務室がありますが、使われますか?」


 貧血とはいえ力ない表情のままの彼女が心配だった。僕は駅員が来てくれて内心ホッとしていた。

 これで少しは彼女も落ち着いて回復できる。そう思って僕は彼女に笑いかけた。


「なあ、医務室でゆっくり休もうか?」


「医務室は……いいです、大丈夫です」


 僕は彼女の答えに動揺した。周りに迷惑を掛けたくないのはわかるが、そんなことより今は自分を心配してほしい。

 僕は無理に笑いながら再び彼女に聞いた。


「いや、行こうて?医務室行った方が少しは楽なるで?」


 彼女はまっすぐな目をして僕と駅員に答えた。


「でも、もうすぐで歩けそうなので……本当に大丈夫です」


「ほんまにええの?」


「はい。ご迷惑お掛けしました」


 頑なに嫌がる彼女に、僕はそれ以上言うことができなかった。


「せっかくお声掛けいただいたのにすいません。僕が見てるんで、あとは大丈夫です。ありがとうございました」


 僕が答えると駅員は困惑した表情のまま答えた。


「わかりました、何かありましたらそこにおりますのでお声掛けください」


 頑なに断っていたが彼女なりに申し訳なく思ったようで、力ないが駅員に笑顔で礼を言っていた。


「ありがとう……ございます」


 そして駅員は足早に去っていった。


 彼女の荒く乱れた呼吸が少しずつ整ってきた。


「医務室……嫌やったら、どこかベンチで休もうか?」


 僕の問いに小さく頷く。


「ちょっと落ち着いてきたか?」


「落ち着いてきました。少しだけ、歩けそうな気がしてきました」


「じゃあ、ベンチのとこ行こうか?」


「よろしくお願いします」


「わかった。支えてるからゆっくり起きようか」


 そして、背中を支えながら彼女の右腕を僕の肩に回した。


「ゆっくりでええで。そう、ゆっくりな、そう」


 足元はぷらぷらとおぼつかないままだが、なんとか立たせることができた。


「頭クラクラとか、目の前暗くなったりせえへんか?」


「はい……大丈夫です」


 まだ返事が弱々しいが、彼女は微笑んでいた。


 僕は彼女のバッグと自分の鞄を片手で持ち、ゆっくりと歩き出す。


「どこら辺にベンチあったかな?」


 辺りをキョロキョロと見渡すが、なかなか見当たらない。


「ないなあ。どこやったっけかな……」


 隣で俯いていた彼女は顔を上げ、僕を見て言った。


「そういえば……ホームなら見掛けますけど、改札から地上までって……ないんじゃないですか?」


「そうやった。どないしよ……」


「あの……お兄さんがもしよろしければ、外出たらすぐカフェがあるので、そこ行きませんか?」


「せやな。ちょうどそこにエレベーターあるし行こか」


 そして、ゆっくりと歩き僕たちはカフェへと向かった……




 僕と彼女の出逢いはこうだった。


「いま思うとありえないですよね、私たち」


「ほんまやな、漫画みたいやったな」

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