第131話 遭遇


 廃虚の町の一角。民家らしき建物の扉が開けられる音が聞こえてきた。

 物音を立てないように慎重に開けられたが、それでも朽ちた建物の扉はギィ、とかすかに鳴き、内部に潜伏していたテラノーンは警戒を強めた。


 あの戦闘からかなりの時間が経過していた。

 ここまで誰にも遭遇せずにきたテラノーンではあったが、ついに何者かと接触する機会が訪れた。

 だがそれが味方である保証はない。あの謎の騎士か、あるいはあのエルフの可能性もある。

 どちらかであればテラノーンも覚悟を決めて戦うしかない。


 神経を研ぎ澄ませて聞き耳を立てなければ聞こえないほどの小さな足音が、テラノーンのいる部屋まで近づいてくる。

 テラノーンに緊張が走る。

 物陰に身を隠しながら右手に魔力を込め、いつでも魔法を行使できるように整える。


 やがて侵入者はテラノーンのいる部屋まで踏み込んできた。

 そこで、侵入者の足音が止まる。


 ……気づかれた、と直感的にテラノーンは察した。

 極力気配を殺したはずだが、それでも侵入者にはこの部屋に何者かが潜んでいると感じ取れたらしい。

 隠れてやり過ごすことは不可能。

 意を決し、テラノーンは物陰から素早く飛び出した。


「――ッ!」

 侵入者と対峙する。

 テラノーンが右手を構え、魔法を撃ち出す寸前まで魔力を引き絞る。

 同時に向こうも戦闘態勢に移行していた。両者の視線が交差し――


「――――ふぅ」

「…………ようやくか」


 両者は同時に安堵の吐息を吐いた。


 限界まで神経を集中させていなければ、おそらくどちらかが攻撃を発動させてしまっていただろう。

 だが寸でのところで、両者は自身の攻撃を抑え込んだ。


「無事だったみたいだね、リュドミラ」

「貴殿もな」


 侵入者は、テラノーンが最も合流したかった魔人、リュドミラだった。


「シェンフェル、入ってこい」

 リュドミラがそう声を発すると、外からもう一人の人物が部屋の中に入ってきた。

 幼い黒魔導士、シェンフェルもそこにいた。


「へえ、二人は合流出来てたんだね」

「それもつい昨日の話だがな。この三人が集まれるまで、まさか三日もかかるとはな……」

「この町が広すぎるせいだね。広いし暗いし建物ばっかりだし、かくれんぼするにはちょっと最適過ぎたね」


 テラノーンも辟易したように肩を竦めた。

 彼の言う通り、この町は一辺が数キロに渡って広がる大きな町で、そこに建物が密集している。

 そして何故か、この町は陽が昇らない。常に月が頭上にあり闇に閉ざされ続けているため、とにかく潜伏に適し過ぎていた。


 前回あの少女とアンデッドのペアに運よく遭遇出来たときも、結局丸一日探し続けてのことだった。

 しかも今回は更に状況が悪い。


 あのときはリュドミラ達は一方的に追う側だった。今は亡きアドバミリスも含めて四人で一緒に行動しており、あの謎の騎士以外なら誰と遭遇しても対処できた。

 しかし今回は全員がバラバラの状態からスタートした。故にあの騎士だけでなく、破魔の力を持つあのエルフと遭遇した際も非常に危険な戦いとなるのだ。

 そのため、今回は誰もが物陰に息を潜める時間が長かった。


「しかもあの少女が町中に罠を仕掛けたせいで、余計に探索に時間を取られたしな」

 それも大きな要因だった。

 町中に仕掛けられた罠の存在は三人ともが知るものだ。

 扉を開ける度、階段を一段登る度、暗闇の中に巧妙に隠された細いワイヤーを常に注意する必要があり、建物を一つ探すだけでもかなりの時間を要した。


 そんな具合に、誰もが慎重にならざるを得ない探索を各自で進めたせいで、三人が合流できるまで三日もの時間を要してしまったのだ。


 だがその甲斐あって、こうして三人は無事に合流を果たした。

 謎の騎士とエルフ、どちらとも出会うことなく戦力を取り戻せたのは、三日間の努力の賜物といえた。


「お互い、ターゲットは見つけてないよね? 僕もあの少女は見かけてないよ」

「こっちもだ。――だが、これでようやく探知魔法が使える」

 リュドミラがシェンフェルの方を向くと、シェンフェルもまた小さく頷いた。


 戦力が揃うまでは探知魔法が使えないのがもどかしくて仕方なかった。

 だが探知魔法は諸刃の剣だ。探知魔法を使えばあの騎士に気づかれるというのは既に痛感した事実だ。そしてあのエルフとも、少人数の内は可能な限り接触したくない。


 仮にシェンフェルが一人だった場合、探知魔法を使ったとしても、感知した反応が誰のものか分からない内は下手に近づくことができず、ただリスクだけを負ってしまうのだ。

 だがこうして三人が合流できた今ならば、ようやく探知魔法が真価を発揮する。


「探知魔法を使う前に状況を確認しておくぞ。この町にいる者の中で誰か見かけたか?」

「あの騎士だけだね」

「こちらも同じだ。他には出くわしていない」


 潜伏し続ける各人の中で、唯一あの騎士だけは陰に隠れることなく堂々と町中を闊歩していた。

 この町で最強の個体である騎士は誰から隠れる必要もないというのもそうだが、そもそもあの騎士はどこかに隠れたりするような理性が残っているかも怪しい。


 獣のような咆哮をあげて目についた者を無差別に攻撃する殺戮兵器さながらだ。

 その無防備な背中を、リュドミラやテラノーンも何度か見かけた。すぐに物陰に隠れて別方向に進んだのでよく観察はしていないが、間違いなくあの騎士が誰よりも大胆に移動を繰り返している。


 まさに迷宮の番犬がごとく歩き回りながら、しかし一度もあの少女が仕掛けた罠にかかった様子はなかった。

 余程運がよかったか、あるいは罠に対して無意識レベルで警戒が出来ているか。いずれにせよ底の知れない怪物だ。


「町を覆う見えない壁は健在だ。私も何度も確認したから間違いない」

「なら、この町の外に逃げられてる心配はなさそうだね」

「そう期待したい。そして……相変わらず、北東区域には近づけなかった。そっちはどうだ?」

「僕も同じだね。近づくと別の場所に飛ばされたよ」


 前回と同じで、依然として北東区域付近では、接近すると別の場所に転移してしまうという怪現象が発生していた。

 色々と試してみたがどれも失敗に終わった。お互いに何か糸口を掴んでいないかと期待していたが、それも空振りとなった。


「……最悪のケースを想定しておく。最悪のケースとはつまり、奴等が全員既に合流しており、我々では侵入不可能な北東エリアに集結しているというものだ」

「それまずいよね。最悪過ぎる」

「その場合、奴らは謎の怪現象に護られながら籠城するだけでこちらを完封できる。その場でじっとしているだけで、私たちはいずれあの騎士に発見され勝手に死ぬわけだからな」


 考え得る限り最悪のケースだ。

 しかもリュドミラとテラノーンがそれぞれ追っているターゲットはどちらも魔人。

 兵糧攻めも通じず、向こうはいつまででも持久戦ができる。

 町を覆う見えない壁に阻まれて逃げられないのは彼らだけではない。リュドミラ達もこの町の中に囚われて逃げられない。

 どれほど粘ろうともいずれはあの騎士に見つかり殺されるだろう。


「あのさ」

 テラノーンは少し言いづらそうにしながらも口を開いた。


「彼らと協力してあの騎士と戦うのはどう?」

「…………」


 それはこの三日間、リュドミラも頭の片隅で考慮していた選択肢だ。

 数日前なら決して取ることはなかった選択肢だが、今は状況が違う。

 バルブル、アリアシオ、アドバミリス。

 一人、また一人と戦力が減っていく。それと同じく、向こうも二人の人間が死亡している。


 二つの勢力で考えるならば、個々の戦力差を度外視すれば互いに戦力を削り合い均衡が取れているとも言えるが――迷宮に存在する全体の戦力としてはどんどんと目減りしていっているのが現状だ。


 あの騎士と森で最初に遭遇したあの時が、この迷宮にいる最大の戦力であの騎士を打倒する唯一の好機だった。

 それ以降は次々と戦力が減り、時間の経過とともにそれは更に進行する。

 取り返しがつかなくなる内にあちらの陣営と協力関係を結び、まずはあの騎士を打倒するというのは一つの選択肢として考慮してもいいとリュドミラも考えていた。


「……駄目だ」

 その上で、リュドミラはテラノーンの意見を否定した。


「まず、そもそも奴等と接触できるかも不明な上に、接触できたとして向こうが協力関係を承諾するはずがない」


 向こうの陣営としても何とかして騎士を倒したいのは山々だろうが、そのためにリュドミラ達と協力するなど本末転倒だ。

 仮に騎士を倒しても次はリュドミラ達の脅威に晒されるだけ。リュドミラ達の目的はあくまでもあの少女の抹殺にあるのだから。


 何より、そんな余裕があるのであれば初めからあの少女を殺せばいいだけの話。

 結果的に騎士を倒せる戦力がこの迷宮からいなくなり、リュドミラ達があの騎士に殺されることになるとしても、それはだ。

 カルマディエから与えられた使命は達成できる。

 端からあちらとの協力などできるような、相容れる関係ではないのだ。


「そして、おそらく今この町にいる全ての戦力を合わせてもあの騎士には勝てない」

 向こう側で戦力になりそうなのはあのエルフくらいのものだ。

 あのエルフの破魔の力があの騎士にも有効であれば話は変わってくるが、もしそうでなかった場合、全員でかかってもあの騎士は倒せない。


 あの騎士には森の中で、リュドミラを含め五人の魔人でかかっても手も足もでなかったのだ。

 今は三人しか戦力がいない。あのエルフ一人が加勢したところで覆せる戦力差ではない。

 取り返しがつかなくなる内に、とリュドミラは考えたが、実際には既に取り返しがつかない地点を超えているのだ。


「じゃあ結局、お互いの標的を殺して、その後になんとかこの町から離脱するしかないってことだね。……あるいは、使命を果たしてあの騎士に殺される」

「貴殿も魔人ならば本望だろう?」

「まあね。……いいよ、行動を開始しよう」


 テラノーンも覚悟を決めたのか、探知魔法の使用を承諾した。

「――シェンフェル。お前の出番だ。探知魔法を放て」

「出力は?」

「……最大だ。何度も使いたくないし、捕捉漏れもしたくない。一度でこの町を全て探知しろ」

「うん」


 無表情のまま頷くシェンフェル。

 ゆっくりと魔力がシェンフェルの両手に凝縮されていく。

 やがてそれが一気に炸裂、拡散する。

 探知魔法が廃虚の町を舐めつくし、その場にいる者の座標を暴き出す。


「……三時。一七〇メートル。一人。……七時。六八〇メートル。一人。……一時。八四〇メートル。三人」

「ふむ」

「……」

「……?」


 そこで報告を止めたシェンフェルに、リュドミラは訝しそうに首を傾げた。

「どうした。続けろ、シェンフェル」

「……終わり。もういない」

「……なに?」


 リュドミラとテラノーンが顔を見合わせる。

 シェンフェルが感知した反応は全部で五つ。

 一つはあの騎士のものとして、あとは四つしかない。


「……向こうは五人組だったはずだ。紫の少女、それと一緒に逃げていたアンデッド、エルフの勇者、白魔導士の少女。金髪の剣士」

「あとは、僕のターゲットの魔人、インクブル。情報では人間の女を一人連れていたはず」

「ああ。前回の探知でもその反応は捕えた。五人組と、二人組と、騎士、そしてテラノーン。これが前回シェンフェルが検知した数だ」

「金髪の剣士は死んだから、僕ら以外では……騎士を含めてあと七人いるはずだね」

「……


 リュドミラは険しい顔つきでシェンフェルを見遣った。

「今の探知の効果範囲は?」

「この町全域。町の中にいるなら絶対に範囲に含めた」

「……」

「探知阻害のスキルを使われたんじゃない?」

「……たまたまこのタイミングでか? さもなくば三日間ずっと使い続けていたのか?」

「……それは、ちょっと考えづらいね。魔力が持たないはずだし」

「まさか……この町から二人……脱出したのか?」


 見えない壁がある以上、獲物はこの町から出られない……そういう安心があったからこそリュドミラ達は時間をかけてでも慎重に行動してきたのだ。

 だがそれが裏目に出ていたとすれば……リュドミラはみすみすターゲットを逃したまま、間抜けにも三日も悠長に時間を浪費した可能性すらある。


 二つの焦燥感がリュドミラを襲う。

 一つは無論、あの少女を逃がしてしまった可能性。そしてもう一つは、孤立している反応が一つ、一七〇メートルもの至近距離に存在しているということ。

 それがあの騎士だった場合、速やかにこの場から退避する必要がある。


「――シェンフェル。急いでもう一度だけ探知魔法を使え。出力は抑えろ」

 頷き、探知魔法を使用するシェンフェル。


「……三時。一七〇メートル。一人。……七時。六五〇メートル。一人」

「……よし。おそらく七時方向にいるのが騎士だ。こちらに接近してきている。三時方向の奴は動いていない。まだ合流出来ておらず取り残されている者がいる」

「一時……つまり北東の区域には、三人集まってるみたいだね」

「そっちは手が出せん。三時方向のはぐれを捕えるぞ。すぐには殺すな。消えた二人の情報を吐かせる必要がある」

「どうやるの?」


 テラノーンの問いに、愚問とばかりにリュドミラは残忍に眼光を光らせた。


「人間は弱い。痛めつければすぐ口が軽くなるさ」






「戻ったぞ」

 北東の宿屋にインクブルが帰ってきた。

「どうだった」

 三階から廃虚の町を監視していたホークは、視線を窓の外に向けたまま尋ねた。


「誰かがこの付近に来た痕跡はなかった」

「確かだろうな?」

「少しは信用しろ。これだけ時間があったんだ、念入りに調べたから誰もこの付近には来ていない。間違いない」

「……」


 そうか、とだけ一言呟くと、ホークは引き続き窓の外から町の監視を再開した。

「シラヌイはどうだ?」

 やはりずっと気にしていたのか、インクブルはシラヌイの様子を尋ねた。


「眠ってる。こういう潜伏は気が張って体力を消耗するからな。眠れるときに寝かせておけ」

「ああ。助かる」

 シラヌイは宿屋のベッドに寝かせてある。

 すやすやと寝息を立てるシラヌイの傍まで歩み寄ると、インクブルは小さく微笑みながら彼女の頬を指先で撫でた。


「……」

 そんな二人の姿を、ホークは横目で眺めていた。


 魔人と人間の夫婦。

 話を聞くだけではどうしても信じきれなかったが、こうして眠るシラヌイを見守るインクブルの姿は、まさしく妻を思う夫のもの。

 種族という垣根を超えた、愛し合う男女の姿に見えた。


「疲れているならお前も眠れ、インクブル」

「……いや、俺はいい。逃亡生活が始まってから、俺はほとんど眠っていない」

「魔人には睡眠も不要か」

「それもある。だが……今ホークがしてくれているように、今までは俺がシラヌイの代わりに起きていた。それでいいんだ。俺の代わりに、シラヌイが眠ってくれる方が嬉しい」


 静かに眠りにつくシラヌイの頬を撫でながら、インクブルはそれだけで満たされた様子だった。


「彼女が俺の代わりに眠り、夢を見てくれる。それが悪夢にならないように、俺はいつも彼女の手を握っていた。そうすると彼女は凄く安心したように、眠りながら笑ってくれるんだ。俺は……それだけでいい」

「……お前は生まれてくる種族を間違えたようだな。とても魔人とは思えん」


「間違った種族などない。全ては個人の問題だ。どう生まれたかは問題じゃない、どう生きるのか……それだけが俺達を定義するんだ」

「……」


 きっとパンダもそう言うだろうとホークは思った。

 魔人に生まれ、魔王として生きた四代目魔王は、その全てを投げ捨ててパンダという一人の少女に生まれ変わった。


 インクブルも同じだ。魔人に生まれながら、彼は魔人として生きることを拒み、夫として生きることを選んだ。

 インクブルとシラヌイは、魔人と人間という小さな枠組みをなんとも思っていない。

 ただ夫として、妻として、愛する者の傍にいる。それこそが自分なのだと信じている。


「ホーク。お前は自分の選択が間違っていたかもしれないと、そう思ったことはあるか?」

「……なんだいきなり」

「不安なんだ。俺が不甲斐ないばかりに、こんな旅にシラヌイを巻き込んでしまった。俺がもっと上手く立ち回れれば、もっと……もっと別の未来もあったんじゃないかと、そんなことばかり考えてしまう」


「……」

「お前には、そんな経験はあるか?」

「……あるさ。数え切れないほどに」


 ホークはその人生の多くを戦争に捧げ、そこには多くの分岐路があった。

 その度にホークは選択を迫られた。右に進むか左に進むか……たったそれだけの選択で仲間を失ったことも何度もある。


 あのとき。あの瞬間。自分には死んでいった仲間達を救うチャンスがあったのではないか。

 進むべきを道を間違えたばかりに……逆の道から響く、救いを求める声から遠ざかってしまったのではないか。


 自分がもっと優れていたら死なずに済んだ者たちもいるはずだと、何百年経った今でも思わずにはいられないことばかりだ。


「人生は迷宮とは違う。道を間違えたからといって引き返すことはできないし、選ばなかった道がどこに続いていたのか知る術もない」

「……自分の選んだ道が正しかったのか、知る術もない、か」

「いや、ある」


 そう断言するホークに、インクブルは驚いたように目を丸くした。


「私にも愛する者がいた。妹だ。私が戦争から生きて帰ると、あの子は幸せそうに喜んでくれた。私はそれだけで救われた。私の選択は間違っていなかったと信じられた。……たとえそのために、何人の仲間を死地に送り込んだとしても」

「……」

「今、シラヌイはそうして安らかに眠っている。それは間違いか? 誤った選択の末の結末か?」

「……違う。シラヌイが恐れも不安も忘れて、静かに眠りにつけるのなら……その未来は、きっと間違ってなんかない」


「……」

「いつか東大陸の果てで俺達の子供と再会できたなら……また一緒に食事をしたい。あの子は野菜が嫌いだったけど、今ならきっと食べられるようになってるはずだ」

「……」

「俺が人間たちと親しくなれたように、あの子にもきっと人間の友達ができる。その子たちと遊んで……いつか恋をして、子供を産んで……俺達に孫ができたら……抱き上げてみたい。その子をシラヌイに見せてやりたい」


「……」

「あの子はカスタードプリンが好きだった。蜂蜜をたっぷりかけて。歯が溶けるほど甘くて俺は苦手だったから、俺の分もあの子にあげていた。あの子は美味しそうに食べて……笑っていた」

「……」

「もう一度それが見れるのなら……そんな未来があるのなら……ああ、俺が進んできた道は間違いじゃなかったって胸を張って言える。そこが俺の迷宮じんせいの終着でいい」


 迷いのない瞳で、インクブルはそう言い放った。

 どれほど険しい道のりだったとしても……その果てに家族が共に過ごせる日々があるのなら、それこそが自分にとっての最善の未来だと。


「三〇〇年前に何があったのかなど私は知らない」

 ホークはあくまで淡々と言葉を紡いだ。

「歴史の陰でお前たちのような一家がいたとしても不思議はない。この迷宮を抜けだしたら調べておいてやる。かつて変わり者の魔人が人間社会に紛れていなかったか、とな」

「……ありがとう。お前は優しいな、ホーク」

「……くだらん。眠る気がないからといって無駄話が過ぎたな」


 そう突き放すホークの不器用さに、インクブルは小さく苦笑した。


「そういうホークは休まなくていいのか? もう三日もそこに座って町を眺め続けてるが」

「気にするな、慣れている。この町には今も敵が潜伏している。この状況ではこうしている方がよほど安心できる」

「そういうものか。それで、どうだ? 誰か見つけたか?」

「誰も見かけていない」

「敵も味方もか?」

「誰も、だ」


 パンダ、キャメル、ルゥ、リュドミラ達が三人、そして謎の騎士。

 ホーク達を除けば、この迷宮で生き残っているのはそれで全員だ。

 パンダとキャメルは、あの戦闘の後どこかに消えた様子だった。パンダの言葉を信じるのであればあの二人は迷宮から脱出している可能性がある。

 とすれば後は五人。その内の誰の姿も確認できていない。


「……いくらなんでも不自然だ。あれから三日は経っている。なのに誰一人姿を見せていない」

 宿に戻ってから、ホークは一時も休まず、また気を緩めることもなく窓の外から町を監視していた。

 なのにこの北東区域に近づく者を誰一人として捕捉できていない。

 それだけならホークの観測範囲に限界があるという話で納得できるが、インクブルの調べではこの付近に誰かが近づいた痕跡もないらしい。


「いくら慎重に進んでいるとはいえ、これだけの時間があれば十分に町を全て調べ尽くせるはずだ。なのに、連中は何故かこの付近だけは調べていない。それどころか立ち寄ってすらいない。……何故だ」

「もう全滅したんじゃないのか?」

「戦闘音は聞こえなかった。やつらほどの魔人が戦えば何かしらの気配は感じるはずだが……」


 今のところ、それらしい気配は一切なかった。

 この三日間、宿屋の外からはほとんど何の物音も聞こえてこない。

 かすかに風が吹く音くらいしか聞こえない静寂と暗闇の中、気を張り続けるのはかなりの重労働だった。


「ホーク、いつまでここに隠れているつもりだ?」

「可能な限り長くだ」

「……確かに、町の周囲には見えない壁があった。今も確認してきた。北東区域のみだが、確かに壁に阻まれて外には出られなかった。だが、このまま何の策もなくただ籠城を続けるつもりか?」

「では出口を探して歩き回るか? あの魔人や騎士がうろついているこの町を」

「……」


「今は時間を稼ぎたい。私の連れにパンダという女がいるが、そいつが何か突破口を見出しているかもしらん。こちらから下手に動くよりも、そいつの采配を待つ方が無難だ」

「よほど信頼してるんだな」

「……悪知恵の回る女だ。転んでもただでは起きんし、挫折しても嬉々として再挑戦するようなタイプだ。困難であるほど喜ぶ。そんな女が、この迷宮の攻略を諦めるとは思えん。あいつにはきっと、私達には見えていないものが見えている。な。それに賭ける」


「では、そのパンダとかいう女が何かしら動くまで待つということか?」

「もし生きているのなら、ルゥがこの場に戻ってくるまでは待ちたいな。だがこの北東区域に魔人たちが入り込んでも、当然動く必要がある。あるいは……」


 ホークが言いかけたその時、まさにそれは起こった。

 一瞬にして張りつめる空気。ホークとインクブルが顔を見合わせる。


「……ホーク、感じたか?」

「ああ。探知魔法を撃たれた」


 それが、この場から動き出すもう一つの条件だ。

 今の探知魔法でホーク達がこの場所にいることは明らかになった。

 となれば、すぐにでも魔人たちが動き出すだろう。


「何故このタイミングで……?」

「探知対象に味方がいなくなったからだ。奴等が三人とも合流したということだ。……三日か……ふっ。連中も、あの騎士に相当ビビっていると見える」


 小馬鹿にするように笑いながら、ホークは三日ぶりに椅子から立ち上がった。


「シラヌイを起こせ。移動するぞ」






 放たれた探知魔法の気配は、一人で廃屋の中に隠れ続けていたルゥにも感じられた。

 だがこの三日で衰弱状態にあったルゥには、それが探知魔法の気配だとは気づけなかった。

 ただ何かが自身の体をぞわりと這うような感覚に、微睡んでいた意識が一気に覚醒した。


「……な、なに……なに、いまの……?」


 生気のない声。

 この三日間、水以外何も口にしておらず、一睡もしていない。

 ただ一人で朽ち果てた廃屋の中、陰に身を隠してうずくまっていただけだった。


 装備しているバッグの中には食糧もあったが、それを食べる勇気がなかった。

 その臭いを感づかれたり、咀嚼音を聞きとがめられたら終わりだという恐怖感から、僅かな水で口を濡らす程度しか身動きが取れなかったのだ。


 もしルゥにあと少しの勇気があれば、ホークがいる可能性が高い北東区域の宿屋まで進もうと思えたかもしれない。

 だがルゥにはそれができなかった。

 今までずっと頼りきりだったパーティリーダーのルイスがあっさりと死亡し、続いてアッシュもあの騎士に殺された。


 訳も分からないまま一人ぼっちになり、唯一の希望だったホークとも分断させられた。

 気弱な少女が、恐ろしい魔人や謎の騎士が闊歩する廃虚の町に、たった一人取り残された心細さは筆舌に尽くしがたいものがあった。

 この廃屋から一歩でも外に出れば、あの恐ろしい敵が目の前にいるかもしれない……そう考えただけでルゥはもう動けなかった。


 北東区域を正気なまま目指せるとは思えなかった。そしてもしそこにホークがいなかったなら……そのときの絶望感を想像するだけでルゥは恐怖に震えた。


「助けて……誰か助けて……! ホークさん……ルイス……アッシュ……!」


 もう何度そう呟いたか分からない。

 誰でもいいから味方に会いたかった。その人の背に隠れながらであれば、この廃虚の町も進めると思った。

 今はただ、誰かがこの家の扉を開け、ルゥを連れ出してくれることを祈るしか――



 ――ギィ、と小さな音を立てて家の扉が開けられた。



 ひゅ、と息が漏れるのを、両手で口を塞いでなんとか押しとどめる。

 誰かがゆっくりとこの家の中に入ってくる音が聞こえてくる。

 心臓が破裂しそうなほど激しく脈動し、恐怖のあまり両目からボロボロと涙が零れ落ちる。


 一方で、かすかな希望も生まれる。

 今この家に入ってきたのがホークであれば……。


「――そこ」


 だがその声を聞き、ルゥの望みは打ち砕かれた。

 少年の声。それはルゥが聞きたかった誰のものでもなかった。


 足音が近づいてきて、ルゥが身を潜めていた家具が乱暴にどかされた。


「あ……あ……」

「――見つけた。白魔導士の女だ」


 怯えて後ずさるルゥを、冷たい魔人の眼光が見下ろしていた。

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