第103話 『毒沼の魔女』オリヴィア
『毒沼の魔女』は、魔族としては珍しく人間領に拠点を持つ魔人だ。
――正確には、特定の一箇所に拠点を作らず、人間領を渡り歩いて研究に明け暮れる変わり者の魔人だ。
――いや、それもまだ正確ではない。
一箇所に拠点を作れないため人間領中を渡り歩く羽目になっている、というのが最も正確だ。
オリヴィアは様々な魔導具やアイテムの作成や、黒魔術の研究を日夜行っており、その際に出た廃棄物を周囲に垂れ流しにしている。
そのせいで彼女がひとたび拠点を構えると、その周辺はあたかも毒沼のように変わり果ててしまう。それが彼女の異名の由来だ。
直接的に毒性のあるものでもなく人間にとって害のあるものではないのだが、何と言っても酷い悪臭と腐敗の原因になってしまい、一種の公害のような存在だ。
しかも放置すれば毒沼は際限なく広がっていくため、周囲に村などがあった場合はたちまち住民の生活を害してしまう。
そのため何度もバラディア騎士団による討伐作戦が行われたが、未だにオリヴィアは存命である。
それは彼女がそれなりに高レベルの魔人だからというのもあるが、もっと別の、人間側の都合によるものが大きかった。
オリヴィアはもう四〇〇年以上も生きていると言われており、それこそ人間がレベルシステムを確立し魔人の支配から脱却する以前からずっとそんな生活をしていたようだ。
それほど永きに渡り研究に没頭してきた彼女が生み出すアイテムは、ときに人間にとって非常に有益な物が存在した。
また、彼女は研究し生み出すことそのものに強い意義を見出す性質のようで、出来上がった成果物そのものに対する興味は驚くほど薄かった。
魔人にしては珍しく人間を襲わず、むしろ毒沼に迷い込んだ少年を助けたことがあるという報告すら残っているほどだ。
そのような事情から、バラディア国は毒沼の魔女の討伐作戦を幾度も決行しながら、実際には彼女を殺害しないように秘密裏に命令を出してきた。
毒沼がそれなりに広がってきた頃合いを見計らい討伐隊を向かわせ戦闘。すると彼女は今まで拠点にしていた場所を何の未練もなく捨て去り、最低限の物だけ抱えてあっさりとその場を去る。
するとその拠点に残された彼女の研究成果は、そのままバラディア国が回収できるというわけだ。
その後速やかに毒沼を浄化し、近隣の住民には「毒沼の魔女には逃げられたが、この場所から追い払う事には成功した」と説明する。それで住民たちの不満もとりあえずは解消される。
オリヴィアは拠点を別の場所に移し、そこでまた研究に没頭し新たな毒沼を生み出し始める。
やがて毒沼が広がってきた頃――すなわち彼女が新たな研究成果を生み出した頃に再びバラディア騎士団が討伐という名目で彼女の拠点を襲撃し、そこにある研究成果を回収する……という馬鹿げた茶番を、なんと一〇〇年以上も続けているのだ。
人類と魔人の戦争が始まって三〇〇年。
未だ決着を見ることなく続く両種族の争いの中にあって、オリヴィアは例外的に人間と奇妙な共存関係を築いていた。
「さすがお前の知り合いだ。相当な変人のようだな」
「あの子はねぇ……ちょっと擁護できないかも」
やれやれと肩を竦めるパンダ。
ギルディアを出て東に向かうパンダの一行。二頭の馬にそれぞれ、パンダとキャメル、そしてホークの組み合わせで乗って草原を走っていた。
「この道で合ってるんだろうな?」
「もちろんっす。あたしがきっちり調べ上げたんで安心してください」
「だから心配してるんだ。人間は信用できん種族だが、それでも貴様ほどの奴はそういないからな」
「そ、そんな心配いらないっすよ。あたしはもうパンダの姐御には絶対服従なんすから。ねえ、パンダの姐御」
「あなた臭いわ。やっぱり馬をもう一頭借りればよかったかしら」
「ひ、酷いっす! 姐御の魔法が原因なんすよ!?」
キャメルはパンダが施したコンバート・アンデッドの効果によって肉体がアンデッド化している。
それを隠すために普段は変装スキルで容姿を変えているが、常時発動していると魔力の無駄なので、普段は全身に包帯を巻きつけた上で栗色のローブで全身を覆っている。
しかし腐敗による体臭までは隠せず、馬に同乗しているパンダは僅かに匂ってくる悪臭がお気に召さない様子だった。
「まあ、三日で『毒沼の魔女』の新しい拠点を割り出したことは褒めてあげるわ。寿命を一週間延ばしてあげるわね」
「――え!? なんすかそれ! あたし寿命性だったんすか!? じゃあ一週間後どうなるんすか」
「何か新しい手柄を立てたらお給金として延命してあげるわよ」
「じょ、冗談っすよね!? そんな契約形態じゃないっすよね!?」
「冗談よ。心配しすぎ」
「なんだ冗談だったのか。残念だ、随分甘やかすつもりのようだな」
「ほんと、私ってばいつからこんなに優しい上司になったのかしら」
「勘弁してくださいっす二人ともぉ!」
あれほど毛嫌いしていた元上司、バンデット・カイザーが恋しくなるほど、パンダとホークはとにかくキャメルを便利に使い倒した。
魔人と血の盟約を結ぶというのはそういうことだと理解はしていたが、飼い犬をからかうようなパンダとは違い、ホークは本気でキャメルのことを殺したがっているような気配を度々放ってくるので、キャメルはいつも肝の冷える思いだった。
「こ、今回の件だって、あたしがいなかったら毒沼の魔女の拠点なんて突き止めるのにもっと時間がかかったはずっすよ! あたしだから三日で調べられたんすよぉ!?」
「どうやって調べたの?」
「そりゃあもう大変だったっすよ! 魔人の情報はバラディア軍の基地に潜入するのが一番手っ取り早いっすから、いろんな人間に変装して情報収集したり資料室に潜入して……」
「やっぱりその変装スキル便利ね。大事にしなさいよ、あなたの存在価値の八割を占めてると言ってもいいスキルよ」
「は、はいっす! ……でもほんとこの毒沼の魔女とバラディア騎士団の関係、馬鹿馬鹿しい話っすよ。先日の討伐作戦で逃走した毒沼の魔女の新しい拠点なんすけど、バラディア軍はとっくにその場所を特定してたみたいっす」
「だがそいつが次の研究成果をあげるまでは放置、か。成果の供与を見返りに、人間領に滞在することを黙認されている……いや、本当に共存の関係にあるのか」
「でも今回はなんか事情が違うみたいなんすよねー。今までは毒沼の魔女も、あまり人の迷惑にならないような場所に拠点を構えて、しばらくは毒沼が広がっても問題ないように配慮してたみたいなんすけど……」
「今回は、バラディアの首都から馬で三時間もかからないような草原に堂々と工房を作った、か」
「はい。こんなことしたらすぐに苦情が出て、バラディア騎士団が動かざるを得なくなると思うんすけどね」
「いいえ、これでいいのよ」
解せない様子の二人とは裏腹に、パンダはこれこそ望んだ形だと口元に笑みを浮かべた。
「あの子はバラディア軍を挑発してるのよ。もう一回討伐に来いってね」
「は? なんでそんなこと……」
「オリヴィアと話せばわかるわよ。――ほら、見えてきたわ」
パンダが前方を指さすと、確かにそれらしきものが見えてきた。
まず遠目からでも目を引いたのは、モクモクと立ち上る紫の煙。あれで人体に害はないと言われてもなかなか納得できないような、見るからに毒性のありそうな濃い煙が空に向かって広がっていた。
ホークが不快そうに顔をしかめる。
「……臭すぎる」
「昔警備兵から逃げるために豚の肥溜めの傍に一晩隠れたことがあるっすけど、それを思い出すっすね……」
「でも、新築だけあって毒沼はまだ小さいわね、ブーツが汚れずに済みそう」
やがて石造りの大きな建造物が見えてきた。
豆腐型の四角い外観に、大きな煙突が一つ突き出ている。そこから例の煙が絶え間なく発生していた。
これが毒沼の魔女の新たな拠点のようだ。
拠点の右側には毒々しい紫の毒沼が小さく生まれていたが、まだこの拠点を作って日が浅いからか大した大きさではなかった。
「さ、馬を降りて。武器は抜かないでよ、交渉に来たんだから」
適当な場所に馬を繋ぎ、そこからは徒歩で進むことに。
拠点に近づくにつれ強くなる悪臭。煙突から排出される煙だけでも相当なものだが、毒沼に近づくと更に強い刺激臭が鼻を突いた。
まだ小さい水溜まりのようなものですらこの臭いなのだ。これが彼女の異名通りの毒沼にまで成長すればいったいどれほどのものになるのか、ホークは考えたくもなかった。
そのとき、一匹のカラスの鳴き声が響き渡った。
見上げると三人の頭上をカラスが飛んでいた。一見ただのカラスだが、一目見ただけでそれが毒沼の魔女の使い魔だと見当がついた。
「襲ってくる様子はないな」
「私だって分かって驚いてるんじゃないかしら。あと、この見た目にも」
そう言われて、ホークは今更ながらパンダの容姿が全盛期と異なっていることを思い出した。
スノウビィに力を与えた際にパンダは幼少期の姿への変わってしまったらしい。毒沼の魔女と知り合いらしいとパンダは言うが、今の姿を見てもそれがかつての四代目魔王だと理解してもらえるのだろうか疑問に思った。
「大丈夫、オリヴィアはこの姿の私もちゃんと知ってるわ。私よりもずっと長生きしてるんだもの」
「良好な関係だったのか?」
「さあ、どうかしら。仲良しってほど親しくはなかったけど、まあいきなり攻撃されるようなことはないでしょ」
「でもあれっすよね、パンダの姐御は四代目魔王様なんすよね? ……今でも信じられないっすけど。だったらビシッと命令してやればいいんじゃないっすか? 魔王の盟約はなくても、昔の威厳っていうか力関係で」
「あームリムリ。あの子そういうのに縛られるようなタイプじゃないから。真っ当に交渉するしかないわ」
「……解せないな。お前と毒沼の魔女はどういう関係なんだ? 幼いころから知り合いだという割に親しくはないと言ったり、そのくせ敵対はしないと信頼していたり」
「そうねぇ……そもそも、どうして毒沼の魔女はこんな生活ができてると思う? 人間には黙認されても、魔族がそれを放っておくなんて不思議じゃない?」
「あ、確かに。人間に技術供与する魔人なんて裏切り者として粛清されてもおかしくないっすよね」
「それはね――オリヴィアが三代目魔王の寵姫だったからなの」
「……なんだと?」
「そうなんすか!? 寵姫ってつまり愛人ってことっすよね?」
「乱暴な言い方ね。せめて側室って呼んであげてちょうだい。まあそんなわけで、あの子の好き放題も三代目魔王に許されてたのよ」
「……あれ? ちょっと待ってください? 姉御が四代目魔王なんすよね? ってことは三代目って……」
「ええ、私の父親よ。だからオリヴィアは、そうね……私の親戚ってところかしら」
「なるほどな。そういうことなら、多少は信頼できるか」
「……なんか、凄いっすね。まさか魔王の一族とこんなに身近に関わる日がくるなんて思ってなかったっす」
「なに言ってるのよ。そんなこと言ったらあなたなんて元魔王と血の盟約を結んだのよ? もっとしゃんとしてなさい」
歩きながら話していた三人はやがて建物の傍まで到着した。
そのタイミングで玄関扉が開き、中から一人の女性が姿を現した。
腰まで伸びた黒髪。鼻先まである前髪が目元を隠し、そんな長髪の癖に酷い癖毛なのか四方八方に毛先がグルグルにハネている。
しかし僅かに覗く目元や真っ赤な唇は若々しい妖艶さを感じさせる、魔王の寵姫というのも頷ける美女だった。
彼女が毒沼の魔女の異名で知られる魔人、オリヴィアだった。
「……おったまげたねこりゃ。あんたまさか、フルーレ嬢ちゃんかい」
オリヴィアは昼間から幽霊に出くわしたようにパンダをまじまじと見つめた。
「ええ、久しぶりねオリヴィア」
「新しい魔王が生まれたってのは聞いてたけど、なんだいそのナリは。クソ生意気だった頃の姿じゃないか。性格まで元に戻っちゃいないだろうね?」
「安心して。今も可愛らしいフルーレちゃんのままよ」
「ふん。あんたを可愛らしいなんて思ったことは一度もないよ。で、こんなところまで何の用だい。妙な連中まで引き連れて」
オリヴィアはホークとキャメルを訝しそうに眺めた。
「あなたに頼みたいことがあるの。中に入れてもらってもいいかしら」
「……ま、知らない仲でもないし話くらいは聞いてやるさ。茶なんて気の利いたもんは出ないよ」
そっけない態度で建物の中に戻っていくオリヴィア。
確かにパンダとは知り合いのようだが、どうも歓迎はされていないらしい。
この魔人の協力を得られるかは、パンダの交渉術次第ということになりそうだ。
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