第77話 地獄に迷い込んだか
時刻は夕刻。
あと数十分で夕日も沈み切り闇が訪れる時間帯に、異常な光景が広がっていた。
夥しい人の群れ。
セドガニアの北門からほんの一キロも離れていない平原に、一万にも達しようかという軍勢が待機していた。
彼らはバラディア軍と冒険者の混成部隊。
バラディア軍の兵士は言うに及ばず、冒険者たちもバラディア国で活動する一流の者たちだ。
そんな彼らが一万以上も集まれば、これは十分に戦争の規模だ。
……が、このときばかりは誰の目にも暗い諦観と怯え、困惑の念が窺えた。
「へっ……数千体のドラゴンだとさ……冗談じゃねえよな? ……なあ?」
「……ああ。信じらんねえな」
セドガニアにいる全冒険者に召集がかかり、強制的に戦闘に参加させられることとなったのがつい数十分前の話。
誰もが冗談だと笑ったが、従わない者は冒険者資格を剥奪するとまで脅され、仕方なく参戦するしかなかった。
結局集まった冒険者は、全体の半数ほどだった。
残る半数は既にセドガニアを出て南に退避し始めていることだろう。
たとえ冒険者を廃業してでも、そんな馬鹿げた依頼は受けられない。そう考える者は少なくなかった。
むしろ半数もの冒険者が集ったのは、この町を愛する者たちが多かったという美談によるものだったのが、小さな慰めだ。
「でも冗談じゃねえんだよな……見ろよこの数。数千じゃきかねえぞ。たった数十分やそこらでよくこんだけ集めたもんだな」
「それに、兵器も大量に持ち出してやがる。はあ……マジでやるのか。ドラゴンとか……勘弁してくれよ」
バラディア国内でも強大な軍事基地を持つ港町セドガニア。
軍港という性質上、大量の武器や兵器が貯蔵されており、それらが次々と北門から運び出されている。
だが、実際のところこれらの兵器は気休めにしかならない。それはこれまでの人類の戦争の歴史が証明している。
銃が不遇な扱いを受けているのと同様に、レベルシステムの恩恵を受けられない通常兵器もまた大きな効果を見込めないのだ。
大砲や火箭、投石器や爆弾など様々な兵器が開発されてきた。
だがそれらは魔人との戦いでは大きな戦果を得られなかった。
さすがに直撃すればそれなりのダメージを与えられるし、面制圧できるというアドバンテージ、そして低レベルの者でも均一な効果が見込めるという利点で、未だに根強く有用性を主張する声もあるが……強靭な肉体を持つ魔人を倒すには、やはり同じく高レベルの者の攻撃が何よりも効果的だったのだ。
今回の相手は魔人ではなくドラゴン。
魔人と比較しても更に強固な肉体を持つ種族だ。生半可な攻撃では硬い皮膚を貫けない。
やはり頼みの綱は黒魔導士の魔法による爆撃になるだろう。
とはいえ全ての武器を巧みに使いこなし幾重にも策を重ねて戦うのが人類の戦争だ。
今も多くの兵器が軍事基地からこの場所に運ばれ、使命を全うする時を待っていた。
特に今回は空中を飛行するドラゴンの群れが相手。非力とはいえ遠距離兵器は頼もしい。
――その時、まだ微かに夕日の赤が残っていた空が、一瞬にして闇に包まれた。
「――お、おい、あれ見ろ!」
一人の兵士が空を指さして叫んだ。
そこには夜闇に紛れた漆黒の雲。
その雲があまりにも巨大だったため、夕日を遮ったのだ。
まだ十分な距離があるにも関わらず届いてくる竜の吠え声に、誰もが言葉を失った。
言葉で聞くのと実物をその目で見るのとでは天地の差。
悪夢に迷い込んでしまったと錯覚してしまうほどの絶望がそこにあった。
密集して迫りくる黒竜の群れ。
一秒ごとに暗雲は巨大になっていき、見る見るうちに視界に入る空を半分ほども埋め尽くした。
その雲の端を知ることはできない。
……いや、そんなものは存在しない。
薄く伸びた黒い帯のように雲は空の果てまで続いており、そこに黒竜がビッシリと密集していると悟った者から言葉にならない悲鳴を漏らした。
地獄が始まると誰もが理解した。
じきにあの巨大な黒竜の雲がセドガニアの空を閉じる。
蓋をされた窯の中で、誰もが死に直面することになるのだと。
「――補助をかけろ!!」
指揮官が叫ぶ。
彼の声もまた隠しようのない恐怖に震えていた。
指揮官の声に呼応し、各地で同じ命令が伝播していく。
白魔導士が周囲の者たちに補助をかける。眩い光があちこちで起こり、夜の闇を点々と照らした。
更に、持参した、あるいは支給された薬を飲み下す。様々な補助効果を発揮する薬で肉体を強化し、自分は強くなったと自らを奮い立たせる。
「遠距離攻撃部隊、構え!!」
部隊の後方に配置された黒魔導士や弓士、兵器担当の者たちが各々の武器を迫りくる黒竜に合わせる。
ひりつくような緊張感の中、軍勢と黒竜の距離が数百メートルにまで縮まった。
「――撃てえッ!!」
号令に合わせ、各人が一斉に攻撃を開始した。
多人数戦闘の花形、黒魔導士の魔法が夜の闇を一気に散らした。
炎、氷、雷、様々な属性の大威力魔法が空高く撃ち出される。その隙間を縫うように弓士の矢が雨のように放たれ、通常兵器が轟音と共に火を噴いた。
丁寧に狙いをつける必要はない。空に向けて撃てばどれかに当たる。
着弾に伴って咲いたいくつもの爆発が色とりどりの花火となって頭上に咲き乱れる。
数メートル隣の兵士の咆哮が聞こえなくなるほどの轟音。思わず目を庇うほどの爆風から、何体かのドラゴン達がバラバラと地面に落下していく。
だが予想を遥かに下回る撃墜数。
ドラゴンの中では非力とはいえ、S-58というのは十分に高レベル帯だ。
騎士団ならまだしも、一般兵と冒険者の混成部隊の火力では乏しい。
数千体のドラゴンの群れを前には微々たる損傷でしかない。
奇妙なことに、地上からの明らかの攻撃に対しても、ドラゴン達はほとんど無反応だった。
被弾したドラゴンが苦悶の声を漏らしていることを見ると、痛みを感じていないわけではないようだ。
しかしほとんどのドラゴンは地上部隊のことなど意に介さず一直線にセドガニアに向かって飛び続けている。
北門からそれを見ていた観測手が通信魔石を起動して基地に連絡を入れる。
「通達! 通達! 地上部隊が攻撃を開始! ドラゴンは地上部隊を無視してセドガニアを目指している! 撃ち落とせない! 大多数がセドガニアに向けて移動中!」
「撃て撃て撃てええ!! 撃ちまくれえええええ!!!」
指揮官が狂ったように叫び回る。
まだセドガニアには避難できていない住民が大勢いる。彼らのためにドラゴンをここで食い止めるのが彼らの使命だ。
だというのに、ドラゴン達が予想外に地上部隊を素通りするために、このままでは多数のドラゴンの侵入を許してしまう。
撃墜数を上げるしかない。指揮官の声に呼応して地上からの攻撃は更に勢いを増していく。
そうして一〇体、二○体とドラゴンを撃墜していく中――ついに数体のドラゴンが地上部隊をギロリと睨んだ。
彼らはスノウビィによって生み出された召喚獣だ。同時に魔力的な存在として召喚された彼らは基本的に命令された以外の行動を取ろうとはしない。
最優先目標はセドガニアに向かい、どこかに潜んでいるブラッディ・リーチを見つけ出すことだ。
だが、あくまでドラゴンとしての規格に当てはめて召喚された彼らには、当然ながら防衛本能があった。敵に対する敵対心。獲物を仕留めようとする狩猟本能。
それらは小さなバグとして彼らの優先順位を狂わせる。
全体から見ればほんの数パーセント程度でしかないが、ドラゴン達は眼下に密集する人間を獲物として認識した。
数パーセント……その微々たる割合も、この数に当てはめれば数十体という数になる。
暗雲がぐにゃりと歪み、数十体のドラゴンが地上に向けて急降下を開始した。
「ドラゴン接近!」
「来るぞおおお!」
ここからが本番だ。
迫りくる大質量の怪物。その一体一体が魔人にも匹敵する戦闘力を秘めているとなれば、この軍勢でも決して盤石ではない。
「黒魔導士を護れ!」
盾を持った兵士たちが黒魔導士の前で盾を展開し守護に徹する。
黒魔導士たちは彼らの守護を信じ、空に向けて魔法を撃ち続ける。
――そんな決死の護りが一撃で吹き飛ばされる様がそこら中に広がっていた。
数十メートル上空からたっぷり助走をつけての体当たりは、数人がかりで展開した盾を紙切れのように吹き飛ばした。
人が冗談のように宙を舞う。
戦士たちが束になって必死に攻撃を見舞うが、一体を仕留めるにも数十人がかりでやっと。太い尾がぶんと横薙ぎに振るわれる度に、構築した陣形が瞬く間に瓦解していく。
短時間での緊急招集のためまともな陣地も構築できず、ただ平原に兵を並べただけの陣形は物理的にドラゴンの攻撃を防ぐ手段に乏しく、どうしても戦士たちが手ずからドラゴンを阻むしかない。
そんな彼らが次々と吹き飛ばされ、まるで一枚ずつ皮を剝ぐように黒魔導士を護る守護が消えていく。
だがそれでも黒魔導士は上空への砲撃を止めるわけにはいかない。
最優先すべきはセドガニアの防衛だ。一体でも多くのドラゴンをここで撃墜する必要がある。
地上で暴れるドラゴンに触発されたのか、そこから地上に降り立つドラゴンの数が増え始める。
その数はあっという間に一〇〇体を超え、地上も黒い影で塗り潰され始める。
竜の咆哮と人間の悲鳴、そしてそれらをかき消す爆撃音が轟く中、兵士たちにとって耐え難い苦難の時間が幕を開けた。
作戦室内もまた戦場さながらに混迷を極めていた。
様々な情報が錯綜し、人と声が部屋中を駆け抜ける。
作戦室で指揮を執るバロウンもまた膨大過ぎる情報量に振り回され続けていた。
「ドラゴンの群れがセドガニアに到達! セドガニア上空を覆い始めています!」
「九割以上が北門の地上部隊を無視しているとのことです」
「セドガニアを通過するか?」
「いえ、セドガニア上空で旋回軌道を取っているとのことです。……やはり狙いはセドガニアにあるのかと」
「……住民の避難は?」
「二割も終わっていません」
「……上をドラゴンが飛んでいる中を避難しているのか……被害は?」
「セドガニア内に残った部隊で対応していますが……数が全く足りません。断片的な情報しかありませんが、住民にも多数の被害が出ている模様です」
「……」
開戦から一〇分もしない内に予想外の展開になった。
北門に動員した大軍勢。彼らが大量のドラゴンを引きつけ時間を稼いでいる内に住民の避難を進める手筈だった。
しかし実際は北門の部隊は無視され、九割以上のドラゴンがセドガニアへ直行している。
セドガニア内にも千人規模で兵を残しているが、半数以上は住民の避難誘導に専念している。これでは持ちこたえられない。
「北の部隊の様子は? 余裕があるようなら町に戻す」
「いえ、余裕は……まったくありません。交戦しているドラゴンだけでも抑えるのがやっとのようです」
「……そりゃそうか」
当たり前だ。全体の一割と言っても数百体のドラゴンと戦っていることになる。それだけでも十分異常だ。余裕などあるはずがない。
「バロウン殿! 負傷者が次々と運び込まれています! 神官の数が全く足りません!」
「……基地内のポーションを全て出せ。それと、町にある薬師に全ての薬を提供させろ。治療を受けた者は直ちに前線に出せ。完治していなくてもだ」
「北門で被害多数! 撃墜率が急激に減少しています!」
「……あれだけの軍勢でも手に負えないか……ドラゴンは?」
「一〇〇体以上が撃破されたようですが、総数は一向に減りません! むしろ増え続けています!」
「……狂ってる。地獄かここは? こちらの被害は」
「既に千人以上が負傷。陣形が崩壊しかかっています」
「……」
本来なら、こういう殴り合いのような戦争は人類の望むところではない。
個としての能力で劣る人類は、常に十重二十重の策で相手を絡めとってきた。それこそが人類の戦争だ。
しかし今回は平原に丸裸の兵を並べての迎撃。大損害は免れない。
「……負傷者は下げろ。ここに連れてきて治療を受けさせたら、北門ではなく町の防衛として戻せ」
「はっ!」
「町に入り込んだドラゴンはどうなってる?」
「はっ。それが……ほとんどが上空を旋回するばかりで、積極的に住民を襲っているわけではないようです」
「どういうことだ? 住民は襲われていないのか?」
「いえ、町に侵入したドラゴンの内、一割程度は地上に降り立ち住民を襲っているとのことです」
「……また一割か」
北門で迎撃部隊を攻撃している数も一割。
町に侵入して住民を襲っている数も一割。
まるで規則性があるかのような現象。
大量生産される武器に紛れ込んだ不良品……そんな感じに、一定の割合で不具合が生じるような、型にはめ込んだような数字に思えた。
聞いたところによれば、ドラゴンの群れはいずれも同じ姿だそうだ。
そして同じ大きさ。同じ戦闘力。同じ戦法。……つまり全てが同じ個体だという話だった。
仮に一つの種族だけを抽出しても、全く同じ個体が揃うなどということは稀だ。何らかの個体差はあってしかるべき。
なのにこちらもまた型にはめたように同じ個体が大量に存在している。
それはまさに、召喚魔法の特徴の一つだった。
「…………本当に……召喚魔法なのか?」
どうしても信じがたかったが、こうなってくるとそうとしか思えなくなってくる。
そしてその数が本当に無尽蔵であるならば、持久戦に意味はない。
こんな消耗戦が長く保つはずがない。北門の兵士は目減りする一方で、ドラゴンは増え続けているなど冗談ではない。
――召喚魔法を止めるしかない。
「……今から騎士団員で精鋭部隊を編制できるか? ラトリア・ゴード殿が向かわれた場所に急行させたい」
「それは……難しいかと」
当たり前だ。ほぼ全ての兵を北門での防衛にあてがった。優秀な者から順に向かわせたのだ、今から部隊の再編成は困難だ。
「難しいのは分かった上で聞いてる。できるか?」
「……北門と連絡を取ってみるまでは、なんとも。……しかし、騎士団員を迎撃部隊から外せば、撃墜率が大幅に減少します。それは……」
「それでも構わない。北門で迎撃するのが最優先だと思っていたが……ほとんどが無視されて町への侵入を許している。持久戦はできない。一刻も早く召喚魔法を止める必要がある。……もしゴード殿が失敗した場合、後詰がいない。危険すぎる」
「……バロウン殿、お言葉ですが……エルダークラスの騎士が失敗する任務であれば、例え精鋭部隊を編制したとしても……」
「……」
「それに、このドラゴンの群れを掻い潜って召喚魔法の発生源に辿り着くのは……至難の業かと」
「…………クソ」
確かに指摘された通り、召喚魔法に近づくにつれてドラゴンの密度は上昇していく。
そんな地獄を掻い潜り召喚魔法に辿り着ける者など、常識の外にある存在にしかできないだろう。
「託すしかないのか……」
せめてドラゴンの数に限りがあれば話もかなり違ってくる。
だがその数に限りがないとなっては、もうどうしようもない。
セドガニアの運命は、たった一人の騎士に委ねられた。
「はあッ!」
森を疾走する一頭の馬。
その速度は平均的な馬を大きく超え、森の悪路をものともせず駆け抜ける。
その背に跨るのはラトリアだった。
荒ぶる馬を巧みに乗りこなし、占星術師に教えられた座標まで最短距離で突き進む。
その上空には巨大な暗雲。
既に陽が落ち、完全に夜が訪れているにも関わらず、その夜の闇を更に塗りつぶす巨大な漆黒。
それら全てが密集したドラゴンが織りなす影などと、にわかには信じがたい。ラトリアを以てしても思わず身震いするほどの絶望的な光景だ。
そんな中を懸命に走り続けてくれる馬にラトリアは感謝した。
セドガニア随一の名馬という話は伊達ではなかったようだ。元来繊細で臆病な気質を持つ馬を、見事な軍馬へと調教している。
上空を高速で過ぎ去っていくドラゴン達に怯えながらも、それでも馬の速度は落ちない。商人の使う馬車馬とは訳が違う。
「しかし……本当にこんなことが……」
無尽蔵にドラゴンを生み出す。
そんなことができるはずがない。が、誰かがその奇跡を実現したらしい。
もはや黒魔導士という域を超えている。
「魔王でも攻めてきたというのか?」
冗談のつもりで口を突いた独り言ではあったが、笑う気は起きなかった。
今からこの馬鹿げた召喚魔法を止めに行くのだ。当然、召喚士の妨害があるだろう。
これほどの魔法を行使する召喚士に対抗できる自信は、正直ない。
だがラトリアにできなければ誰にもできない。
やるしかない。ラトリアの双肩にはセドガニア全市民……ひいてはバラディア国全ての者の命が乗っているのだ。
「――ッ!」
まだ軽口を叩く余裕のあったラトリアだが、それもここまでとなった。
森が一気に開ける。木々の密集度は激減し、森を抜けたことが分かった。
空を仰げばドラゴンの大群がはっきりと視認できた。
……ラトリアに見えるということは、彼らにも地上を走る馬の姿がはっきりと見えていることだろう。
馬が怯えいななく。
ラトリアはその手綱をきつく握り、強く振った。
――そのとき、数体のドラゴンがラトリア目がけて急降下した。
竜としての本能のままに、地上を行く獲物に襲い掛かる。
「――ハアッ!」
背に差していた大太刀を右手で抜き払い、一閃。
全長一〇メートルにもなるドラゴンの太い首を一刀両断した。
断末魔もなく地面を転がる竜の死体。
それを寸でのところでかわしつつも、馬が恐怖に駆られて速度を落とす。
「怯むなッ!」
ラトリアが一喝する。
更に迫るドラゴンを、ラトリアは騎乗したまま大太刀を奮い次々と切り捨てていく。
その様を目の当たりにし、馬もまた自身の背に乗る者がどれほどの力を持っているかを理解した。
「お前の手綱を握るのはこの私だ! 恐れず進め!」
どれほど絶望的な状況でも、そこに希望の道を切り開く者。
それこそが騎士だ。
魔族という圧倒的な敵を前にしては、誰もが臆病な生き物だ。
ラトリアもかつて一人の魔人に心を屈した。
だからラトリアは怯える者を見損ないはしない。逃げる者を責めたりしない。そして……絶望する者を見捨てない。
彼女は決して逃げない。二度と同じ過ちを繰り返さないことこそが彼女の誇り。
彼女は逃げずにただ前に立ち、その背を見守る者たちを鼓舞する。
まだ私がいると。ここに希望があると。
そう背で語ることで、皆を救うのだ。
ならば退けない。こんなところで逃げる事だけはしてはならない。
そのラトリアの熱意に応えるように、馬は一層強く鳴き、疾走の速度を速めた。
そんな頼もしい相棒にラトリアは満足そうに笑い、迫りくるドラゴンに大太刀を振るい続けた。
レベルで考えれば、圧倒的にラトリアが勝っている。
ドラゴンは一体あたりS-58レベル相当。対してラトリアはS-81レベルだ。
数十体程度であれば難なく倒せる。
騎乗しながらでは全力で大太刀を奮うのも難しく、完全に仕留め切れない場合も多いが、散発的に降ってくるドラゴンを追い払うくらいはできる。
そうして一〇、二〇と降下してくるドラゴンを斬り払う。
その間も馬は一度も速度を落とすことなく懸命に走り続け、やがてラトリアにも異常な魔力反応の気配が肌で感じ取れるようになった。
完全に森を抜けて一〇分程度。
この馬の速度で考えればそれなりに走ったことになる。
北に流れる大河の気配を感じ取れるようになった頃に、ドラゴン達の攻撃が止んだ。
「……あれは……」
そのとき、ラトリアは信じられないものを目にした。
遠くに、大きな塔が立っているのが見えた。そしてその頂上に、何やら巨大な亀裂が発生している。
その亀裂から、まるで濁流のようにドラゴンが出現していた。
「……あれが召喚魔法……?」
それはラトリアが知る召喚とは大きく違っていた。
多くの場合、召喚は魔法陣を用いて行われる。その魔法陣から何らかの魔物を召喚するのが一般的だ。
……だがあれは、まるで闇から竜を引きずり出しているかのようだ。
あまりにも異常な光景。
しかし考えている暇はない。今は一刻も早くあの塔に向かう必要がある。
どうやら限界まで塔に近づけばドラゴン達が襲ってくることはないようだ。
灯台下暗しという言葉の通り、あの亀裂から生まれ出たばかりのドラゴンはセドガニアを目指して飛行することしか頭になく、その足元にまで注意が向かないのだろう。
ひとまずドラゴンの脅威が去ったことを理解し、ラトリアは一直線に塔を目指した。
やがて切り立った崖に辿り着く。
塔はその崖に半身を隠すように建てられており、傍に崖を下るための、明らかに人工的な道があった。
塔はもう近い。ここからならば徒歩で十分だ。
「ここまででいい。よく走ってくれたな。落ち着かないかもしれないが、ここで休んでくれ」
ラトリアが馬の背から降りると、馬が顔を寄せてきたのでその頬を撫でてやった。
どこかに繋いでおこうかとも思ったが、やめた。
いざとなれば馬だけでも逃げられるようにそのままの状態で放置し、ラトリアは一人で崖を下っていった。
塔は明らかに人工的な建造物だった。
こんなものの話はバラディア軍でも一度も話に出なかった。謎に包まれた塔は不気味ではあったが、どうであれやることに変わりはない。
見たところ出入り口となる部分は正面にあるようだから、まずはあそこから中に入ろう。
ラトリアがそう考え歩み出した、そのとき――
「――もう来たのか。随分はええな」
不意に男の声が聞こえてきた。
弾かれるようにラトリアが大太刀を構える。
塔の傍、おり立つ崖の岩肌にできたくぼみに寝そべる一つの人影。
男はのっそりと起き上がると、全く手入れのされていない髪をワシワシと掻き、咥えたヤキゲソをダルそうに噛んでいた。
「な……」
その声、姿に、ラトリアは思わず絶句した。
戦士とは思えない軽装に、ボサボサの赤い髪。
寝ぼけているような半開きの眼に、見るからに軽薄そうな雰囲気。
そんな男が握るのは不釣り合いな、黒く美しい一振りの長刀。
「あの竜の群れを一人で進んできたのか? やるなあ。一番乗りだぜ、おめでとさん」
クチャクチャとヤキゲソを噛みながら、心の籠っていない世辞を言う男。
「きさ、まは……!」
大太刀を握る手が震える。
忘れるはずもないその姿。
二年前の戦争で、ラトリアの部隊と戦った魔人。
その圧倒的な力に屈したラトリアを見逃し、それによって『ゴールド・ラット』という汚名を被ることになった、その原因を作った男。
ラトリアにとって最も忘れられない宿敵の姿がそこにあった。
「――ムラマサ!」
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