第51話 グレイベアとマリー
バラディア国南方、港町セドガニアに向かう森の中を、二人の女性が前後に並んで歩いていた。
灰色と赤色のフードを、どちらも顔が隠れるほど目深に被っている。
この二人こそ、グレイベアとマリー・イシュフェルト。
二週間前シューデリアを襲撃した吸血鬼と、その逃亡を支援する魔人という珍妙な組み合わせだ。
黙々と歩くベアの後ろで、マリーは若干おどおどとしながら彼女に続いた。
……どうしてこんなことになっているんだろう。
ベアの背中を見つめながら、マリーは事のいきさつを思い出していた。
あの日。
ホークとパンダに敗れたときに、マリーは確かに死の招きを受けていた。
想像を絶する痛みの中で、逃れられない死の感覚だけがはっきりと身体に焼き付いていた。
だがグレイベアによって命を救われ、多くのことを教えられた。
パンダが元魔王であること。
新たな魔王が生まれた時点で、マリーが血の盟約によって四天王の一人に選ばれてしまったこと。
その盟約を無効にするため、魔族がマリーの命を狙っていること。
グレイベアがかつてパンダの従者であったこと。
パンダの旅を助けるため、そして現四天王の一人であるカルマディエを討伐するため、マリーに生きていてもらう必要があること。
何もかもが荒唐無稽で、到底信じられる内容ではなく、しかし全ての謎に説明がついてしまう話だった。
マリーは今、一時的に生き延びているも同然の状態だ。
このまま逃げ続けても、近い内に強力な魔人が差し向けられ、マリーは成すすべなく抹殺される運命にある。
いつ終わるともしれない逃亡生活が幕を開けた。
仮にも四天王の一人であるマリーの抹殺には、同じく四天王クラスの魔人が差し向けられる可能性が高い。
四天王から命を狙われるというのはもうそれだけで死刑宣告を受けているような状態だが、その絶望的な中で唯一の希望が、グレイベアの存在だった。
焼け落ちる館の中で、グレイベアはマリーに選択を強いた。
ここで死ぬか、彼女と共に逃げ続けるか。
マリーには選択肢などなかった。
マリーはベアの手を取り、彼女に命じられるままに逃亡生活を受け入れた。
「――ねえ。グレイベア……さん?」
「はい」
立ち止まって振り返るベア。
フードに隠れて顔はほとんど見えないが、それでも僅かに覗く冷たい視線に、マリーはぞくりと背筋を凍えさせた。
「私たち、ルドワイアっていう国を目指すんだよね?」
「その通りです」
「私、外の世界にはあまり詳しくないんだけど、そこってすごく強い軍隊がある国なんでしょ? 大丈夫なの?」
二人の逃亡生活の拠点として、ベアはルドワイア帝国を選んだ。
しかしそこは人類最高峰の戦力が集う国。
この三○○年魔族からの攻撃を退け続けている強国であり、人類の最後の砦だ。
魔人ですら迂闊に近寄れない場所である。そんな場所に自ら飛び込もうというベアの意図がマリーには分からなかった。
だがベアが言うのならば大丈夫なのだろうかと考えていた。
「全く大丈夫ではありません」
しかしベアはあっさりと即答した。
「おそらく国土に入っただけで占星術師に察知されるでしょう。そしてルドワイア騎士団が派遣されます。見つかれば非常に危険ですので、逃げ続けます」
「逃げれるの?」
「分かりません。ですがとにかく逃げ続けます。一日でも長く」
「……行きたくないんだけど」
「それでも、四天王と戦うよりは安全です」
その答えが全てだった。
ルドワイア帝国に潜り込む。派遣されるルドワイア騎士団から逃げ続ける。
どちらも成功確率は低く、いつ死んでもおかしくない自殺行為だが、その方がまだ生存に希望が持てるのだ。
――少なくとも、四天王と戦うよりは。
「四天王ってそんなに強いの?」
「四天王は貴女を除いて三名ですが、内二名の戦闘力は知りません。ですが上位の魔人が四天王の盟約を手にしている時点で貴女よりは間違いなく強いでしょう。――最も過酷なのは、貴女を追っているのがムラマサ様だった場合です」
「ムラマサ?」
「私はムラマサ様の盟約に連なっています。ですのであの御方に一言でも命じられれば貴女を護れなくなります。その場合は貴女一人でムラマサ様と戦うしかありません」
「私じゃその人に勝てないの? 私も持ってるんでしょ、四天王の盟約」
マリーもまた、立場上は同じ四天王の一人だ。
四天王同士の戦闘と聞けば、一見マリーにも勝ち目があるように思える。
が、ベアは僅かに目を細めた。
それが無表情の彼女が示す不機嫌の表現だと、マリーも気づいた。
「はっきり申し上げておきます。もし貴女がムラマサ様と戦えば――貴女は自分がいつ死んだのかも分からないでしょう。それほどの差があります。退路がない場合はもう死んだものと諦めてください」
淡々と語るベアに、マリーはごくりと生唾を飲み込んだ。
ようやくマリーも、自分が何に命を狙われているのかを理解した。
「貴女は四天王の盟約を持っていますので、そこから位置を特定される可能性があります」
「盟約ってそんなこともできるの?」
「普通はできませんが、今回は事情が違います。貴女はあの五代目魔王と直々に盟約を結んでいます。五代目魔王は黒魔術の天才です。それくらいはできると想定しておいたほうがいいでしょう。……そしてもしそうなら、どこに隠れてもいつかは見つかります」
「……」
「しかし、ルドワイアに逃げ込めれば魔族も容易には追ってこれません。四天王クラスがルドワイアに入れば、それだけで戦争の引き金になってもおかしくありませんからね。それは魔族、人類ともに望むものではありません。ですので、我々はなんとしてもルドワイアに潜伏する必要があるのです」
つまりルドワイアは、二人にとって最悪の危険地帯であると共に、最強の防壁でもあるのだ。
ルドワイア帝国騎士団と四天王……その二つの危険を天秤にかけ、ベアは迷わずルドワイアを選んだ。
「四天王が入れば戦争になる……って、でも、じゃあそれより少し弱いくらいの魔人なら攻めてこれるんじゃないの?」
「それは別に問題ありません」
「え……どうして?」
「私がいますので」
そう言ってのけるベアに、マリーはうすら寒いものを感じた。
……四天王以外の魔人なら問題ない?
確かにマリーも、一目見ただけでベアが只者ではないことは感じ取っていた。
しかし実際にベアがどれほどの強さを有する魔人なのかは不明だ。
逆に、ベアはマリーがどの程度の力を持つのか把握しているはずだ。
……その上で、ベアは無防備すぎるほどあっさりとマリーに背中を見せて行動している。
無論、マリーにとってもベアという協力者は必要不可欠なので不意打ちするような真似はするわけがないが、そもそもベアはマリーを警戒する素振りすら見せない。
「……そ。じゃあ安心だね」
マリーは適当な相槌で誤魔化した。
話が終わったと判断したのか、ベアはマリーに背中を向けて歩き始めた。
とはいえマリーにはまだまだ聞きたいことが多すぎる。
「ねえ、あなたパンダのメイドだったんだよね?」
「はい」
ベアは歩きながら答えた。
「パンダって魔王だったんだよね? どんな魔王だったの? 四代目魔王って、凄かったんでしょ?」
初めてベアに聞かされたときは冗談だと思ってつい笑ってしまったが、今となっては信じるしかない。
マリーにとってあれほど強烈な印象を残した者はいない。
パンダを支配したいという願望は未だにマリーの中に消えずに残っていた。
「あの御方の魅力を一言で表現することは不可能です」
「強かった?」
「無敵です。パンダ様が魔王になられてからまともに手傷らしい手傷を負わせられた者は私が知る限り二人しかいません。それがムラマサ様と五代目魔王です。――ああ、もう一人…………いえ、なんでもありません。二人です」
「勇者でも相手にならなかったの?」
「二年前、魔王城に勇者パーティが攻めてきたことがありました。あのパーティなら、今までなら魔王すら討伐できていたかもしれません。が……パンダ様はまるで赤子の手を捻るように皆殺しになさいました」
「……すごいね」
凄いという表現しかマリーにはできない。次元が違いすぎる。
マリーにとっての世界は、あの大商人の館が全てだった。
その頂点に君臨したマリーではあったが、今は文字通り世界が開けたような気分だった。
「私も、どうせなるんならパンダの四天王になってみたかったな」
何の気なしに口をついた言葉。
――だがそれは、ベアの神経を逆撫でする一言だった。
「……」
ベアが立ち止まり、フードの影からマリーを睨み付ける。
氷のように冷たい視線に射抜かれて、マリーが小さく息を呑む。
「な、なに……?」
何故ベアが怒っているのか見当もつかないマリー。
ベアは無言のままマリーを睨み続ける。
――偶然四天王の盟約を手に入れただけの吸血鬼風情が。
――恐れ多くもパンダ様と直接盟約を結びたいだと?
「……」
殺すか?
その選択肢がベアの中に生まれる。
この吸血鬼は確かに有用だ。『パンダの旅の役に立つ』という点で言えば、ある意味ではベアは自身よりもマリーの方が価値があると考えている。
だがそれにも限度がある。
これほどの愚者を生かしておく価値などあるのだろうか?
身の程を弁えないにしても……自らを誇張するならまだ許せる。
だがパンダの盟約に連なりたいなどとほざくのは……これはもうパンダという魔人を侮っていると言えるのではないか?
そんな者はもう死んだ方がいいのではないか?
「……」
かなり真剣に迷うベア。
そんなベアが放つただならぬ気配にマリーがたじろぐ。
「……マリーさん」
「な、なん……ですか?」
思わず敬語になる。
――ベアがその気になれば、この森をマリーの墓場にすることも容易だが……。
「――気配を消してください。敵です」
その上で、ベアはそれ以上に優先すべき事柄を察知した。
「え……?」
「探知魔法を撃たれました。この森に誰かいます。私たちの存在が察知された可能性が高いです。もう一度探知魔法を撃ってくるはずです、気配を消してください」
「ちょ、ちょっと待って。そんなこと急に言われても……!」
狼狽するマリーにベアは内心で舌打ちする。
そこへ、ベアの言葉通り二度目の探知魔法が放たれた。
「――駄目ですね。感づかれました」
「……全然わかんない。そういうの、分かるものなの?」
「慣れです。言っておきますが、貴女にもこの程度のことはできるようになっていただきます。でなければルドワイアで生き残るなど不可能ですから」
ガチャリ、と重厚な金属音がベアのフードの下から聞こえてきた。
彼女が何らかの武器を装備した音だろう。
ベアは既に戦闘態勢を整えていた。
「――来ますね。一○人前後の小規模部隊のようです」
「戦うの?」
「相手の戦力によります。私たちは陰に潜み続ける必要があるので、基本は隠密を心がけますが、今回に限っては雑魚なら殺しましょう。今から私の言うことをよく聞いてその通りに実行してください。よろしいですね?」
頷きで返すマリー。
ベアはマリーへの処分を一旦保留にした。
気配から察するに、敵部隊はそれなりの手練れのようだ。
彼らとの戦闘を見て、先程のマリーの失言に対する処遇を決めるとしよう。
こんなところで躓くようでは、どのみちルドワイアでの逃亡生活など破綻するに決まっている。
その時は、今度こそ一切の容赦なくマリーを始末するとしよう。
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